7巻 紅 葉 賀
畳語、繰り返し文字は文字になおしてあります。
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朱雀院の行幸は神な月の十日あまりなり。世の常ならずおもしろかるべきた
びの事なりければ、御方方もの見たまはぬ事をくちおしがり給。上も、藤壷
の見給はざらむをあかずおぼさるれば、試楽を御前にてせさせ給ふ。
源氏中将は青海波をぞ舞ひたまひける。片手には大殿のとふの中将、かた
ち用意人にはことなるを、立ち並びては、なを花のかたはらの深山木なり。
入がたの日影さやかにさしたるに、楽の声まさり、もののおもしろきほどに、
同じ舞の足踏み、おももち、世に見えぬさまなり。ゑいなどし給へるは、これ
や仏の御迦陵頻伽の声ならむと聞こゆ。おもしろくあはれなるに、みかど涙を
のごひ給ひ、上達部、親王たちもみな泣きたまひぬ。ゑい果てて袖うちなをし
たまへるに、待ちとりたる楽のにぎははしきに、顔の色あひまさりて、常より
も光ると見え給。
春宮の女御、かくめでたきにつけてもたたならずおぼして、「神など空にめ
でつべきかたちかな。うたてゆゆし」との給を、若き女房などは、心うしと耳
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ととめけり。藤壷は、おほけなき心のなからましかば、ましてめでたく見えま
しとおぼすに、夢の心ちなむし給ひける。
宮は、やがて御宿直なりける。「けふの試楽は、青海波に事みな尽きぬな。
いかが見給ひつる」と聞こえ給へば、あいなう御いらへ聞こえにくくて、「こ
とに侍つ」とばかり聞こえたまふ。「片手もけしうはあらずこそ見えつれ。舞
のさま手づかひなむいゑの子はことなる。この世に名を得たる舞の男どもも、
げにいとかしこけれど、子こしうなまめいたる筋をえなむ見せぬ。試みの日か
く尽くしつれば、紅葉の陰やさうさうしくと思へど、見せたてまつらんの心に
て、よふいせさせつる」など聞こえたまふ。
つとめて、中将の君、
いかに御覧じけむ。世に知らぬ乱りここちながらこそ。
もの思ふにたち舞ふべくもあらぬ身の袖うちふりし心知りきや
あなかしこ。
とある御返、目もあやなりし御さまかたちに、見給ひ忍ばれずやありけむ、
から人の袖ふることはとをけれど立ちゐにつけてあはれとは見き
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大方には。
とあるを、限りなふめづらしう、かやうの方さへたどたどしからず、人のみか
どまで思ほしやれる、御后言葉のかねても、とほほ笑まれて、持経のやうに
引きひろげて見いたまへり。
行幸には、親王たちなど世に残る人なく仕うまつり給へり。春宮もおはし
ます。例の、楽の船ども漕ぎめぐりて、唐土、高麗と尽くしたる舞ども、種多
かり。楽の声、鼓のをと、世をひびかす。
一日の源氏の御夕影ゆゆしうおぼされて、御誦経など所所にせさせ給ふを、
聞く人もことはりとあはれがりきこゆるに、春宮の女御は、あながちなり、と
にくみきこえ給ふ。垣代など、殿上人、地下も、心ことなりと世人に思はれた
る有職のかぎりととのへさせ給へり。さい将二人、左衛門督、右衛門督、左
右の楽のことをこなふ。舞の師どもなど、世になべてならぬをとりつつ、をの
をの籠りゐてなむ習ひける。
小高き紅葉の陰に、四十人の垣代、言ひ知らず吹き立てたるものの音どもに
あひたる松風、まことの深山をろしと聞こえて吹まよひ、色色に散りかふ木の
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葉の中より、青がひ波のかかやき出でたるさま、いとおそろしきまで見ゆ。か
ざしの紅葉いたう散りすぎて、顔のにほひにけおされたる心ちすれば、御前な
る菊を折て左大将さしかへ給。日暮かかるほどに、けしきばかりうちしぐれて、
空のけしきさへ見知り顔なるに、さるいみじき姿に、菊の色色うつろひ、えな
らぬをかざして、けふはまたなき手を尽くしたる入り綾のほど、そそろ寒く、
この世の事ともおぼえず。もの見知るまじき下人などの、木のもと、岩隠れ、
山の木の葉に埋もれたるさへ、少しものの心知るは涙落としけり。
承香殿の御腹の四の御子、まだ童にて、秋風楽舞ひ給へるなむ、さしつ
ぎの見物なりける。これらにおもしろさの尽きにければ、他事に目も移らず、
かへりてはことざましにやありけむ。其夜、源氏の中将、正三位し給。頭中
将、正下の加階し給。上達部は、みなさるべきかぎりよろこびし給も、この
君にひかれ給へるなれば、人の目をもおどろかし、心をもよろこばせ給、むか
しの世ゆかしげなり。
宮は、そのころまかで給ぬれば、例の、ひまもやとうかがひありき給をこと
にて、大殿にはさはがれ給ふ。いとどかの若草尋ねとり給ひてしを、「二条院
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には人迎へ給ふなり」と人の聞こえければ、いと心づきなしとおぼいたり。う
ちうちのありさまは知り給はず、さもおぼさむはことはりなれど、心うつくし
く例の人のやうにうらみの給はば、われもうらなくうち語りて慰さめきこえて
んものを、思はずにのみとりない給心づきなさに、さもあるまじきすさびご
とも出で来るぞかし、人の御ありさまの、かたほにその事の飽かぬとおぼゆる
きずもなし、人より先に見たてまつりそめてしかば、あはれにやむごとなく思
ひきこゆる心をも知給はぬほどこそあらめ、つゐにはおぼしなをされなむ、と
おだしく軽軽しからぬ御心のほども、をのづからと頼まるる方はことなりけ
り。
おさなき人は、見ついたまふままに、いとよき心ざまかたちにて、何心もな
くむつれまとはしきこえ給。しばし殿のうちの人にもたれと知らせじとおぼし
て、なを離れたる対に御しつらひ二なくして、われも明け暮入りおはして、
よろづの御事どもを教へきこえ給い、手本書きて習はせなどしつつ、ただほか
なりける御むすめを迎へ給へらむやうにぞおぼしたる。政所、家司などをはじ
め、ことにわかちて心もとなからず仕うまつらせ給ふ。惟光よりほかの人は、
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おぼつかなくのみ思ひきこえたり。かの父宮もえ知りきこえ給はざりけり。
姫君は、なをときどき思ひ出できこえ給とき、尼君を恋ひきこえ給おり多
かり。君のおはするほどは紛らはし給を、夜などは、時時こそとまりたまへ、
ここかしこの御暇なくて、暮るれば出で給を、慕ひきこえ給おりなどあるを、
いとらうたく思ひきこえ給へり。二三日内にさぶらひ大殿にもおはするおりは、
いといたく屈しなどしたまへば、心ぐるしうて、母なき子持たらむ心ちして、
ありきも静心なくおぼえ給。僧都は、かくなむと聞き給て、あやしきものか
らうれしとなむ思ほしける。かの御法事などし給ふにも、いかめしうとぶらひ
きこえ給へり。
藤壷のまかでたまへる三条の宮に、御あり様もゆかしうてまいり給へれば、
命婦、中納言君、中務などやうの人人対面したり。けざやかにももてなし
給かなとやすからず思へど、しづめて、大方の御物語りきこえ給ふほどに、
兵部卿宮まいり給へり。
この君おはすと聞き給て対面し給へり。いとよしあるさまして、色めかし
うなよびたまへるを、女にて見むはおかしかりぬべく、人知れず見たてまつり
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給にも、かたがたむつましくおぼえ給て、こまやかに御物語りなど聞こえ
給。宮も、此御さまの常よりもことになつかしううちとけ給へるを、いとめ
でたしと見たてまつりたまひて、婿になどはおぼしよらで、女にて見ばやと色
めきたる御心には思ほす。
暮れぬれば御簾の内に入給を、うらやましく、むかしは上の御もてなしに、
いとけ近く、人づてならでものをも聞こえたまひしを、こよなう疎み給へるも、
つらうおぼゆるぞわりなきや。「しばしばもさぶらふべけれど、ことぞと侍ら
ぬほどは、をのづからおこたり侍を、さるべき事などは、仰せ事も侍らむこそ
うれしく」など、すくすくしうて出で給ひぬ。命婦もたばかりきこえむ方なく、
宮の御けしきも、ありしよりはいととうきふしにおぼしをきて、心とけぬ御け
しきもはづかしくいとをしければ、何のしるしもなくて過行。はかなの契りや
とおぼし乱るる事、かたみに尽きせず。
少納言は、おぼえずおかしき世を見るかな、これも故尼上の、この御事をお
ぼして、御をこないにも祈りきこえ給し仏の御しるしにや、とおぼゆ。大殿い
とやむ事なくておはします、ここかしこあまたかかづらひたまふをぞ、まこと
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におとなび給はむほどは、むつかしき事もや、とおぼえける。されど、かくと
りわき給へる御おぼえの程は、いと頼もしげなりかし。御服、母方は三月こそ
はとて、つごもりには脱がせたてまつり給ふを、また親もなくて生い出で給し
かば、まばゆき色にはあらで、紅、紫、山吹の地のかぎりをれる御小袿など
を着たまへるさま、いみじういまめかしくおかしげなり。
おとこ君は、朝拝にまいり給とて、さしのぞき給へり。「けふよりは、おと
なしくなり給へりや」とてうち笑み給へる、いとめでたうあひ行づき給へり。
いつしかひゐなをしすゑて、そそきゐたまへる、三尺の御厨子一よろひに、品
、品しつらひすへて、又小さき屋ども作り集めてたてまつり給へるを、所せき
まで遊びひろげたまへり。「儺やらふとて、いぬきがこれをこぼち侍にければ、
つくろひ侍ぞ」とて、いと大事とおぼいたり。「げに、いと心なき人のしわざ
にも侍なるかな。いまつくろはせ侍らむ。けふは言忌みして、な泣いたまひ
そ」とて出で給けしき所せきを、人人端に出でて見たてまつれば、姫君も立ち
出でて見たてまつり給て、雛の中の源氏の君つくろひたてて、内にまいらせな
どし給
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「ことしだにすこしおとなびさせ給へ。とおにあまりぬる人は、雛遊びは忌
み侍ものを。かく御おとこなどまうけたてまつり給ては、あるべかしうしめや
かにてこそ、見えたてまつらせ給はめ。御髪まいるほどをだに、ものうくせさ
せ給」など、少納言聞こゆ。御遊びにのみ心入れ給へれば、はづかしと思は
せたてまつらむとて言へば、心のうちに、我は、さはおとこまうけてけり、こ
の人人のおとことてあるは、みにくくこそあれ、われはかく、おかしげに若き
人をも持たりけるかな、と今ぞ思ほし知りける。さはいへど、御年の数添ふし
るしなめりかし。かくおさなき御けはひの、ことに触れてしるければ、殿のう
ちの人人も、あやしと思ひけれど、いとかう世づかぬ御添ひ臥しならむとは思
はざりけり。
内より、大殿にまかでたまへれば、れひの、うるはしうよそほしき御さまに
て、心うつくしき御けしきもなく苦しければ、「ことしよりだに、すこし世づ
きてあらため給御心見えば、いかにうれしからむ」など聞こえたまへど、わ
ざと人すゑてかしづき給と聞き給しよりは、やむ事なくおぼし定めたる事にこ
そはと心のみをかれて、いとど疎くはづかしくおぼさるべし、しひて見知らぬ
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やうにもてなして、乱れたる御けはひには、えしも心強からず、御いらへなど
うち聞こえ給へるは、なを人よりはいとことなり。
四年ばかりがこのかみにおはすれば、うち過ぐしはづかしげに、盛りにとと
のほりて見え給。何事かはこの人の飽かぬ所はものし給、わが心のあまりけし
からぬすさびに、かくうらみられたてまつるぞかし、とおぼし知らる。同じ大
臣と聞こゆるなかにも、おぼえやむ事なくおはするが、宮腹にひとりいつきか
ひきこえ給へるを、おとこ君は、などかいとさしもと、ならはい給、御心の隔
てどもなるべし。
おとども、かく頼もしげなき御心を、つらしと思ひきこえ給ながら、見たて
まつり給時は、うらみも忘れてかしづきいとなみきこえ給ふ。つとめて、出
で給ふ所にさしのぞき給て、御装束し給ふに、名高き御をび、御手づから持た
せて渡り給て、御衣のうしろひきつくろひなど、御沓を取らぬばかりにし給、
いとあはれなり。「これは、内宴などいふ事も侍なるを、さやうのおりにこそ」
など聞こえ給へば、「それはまされるも侍り。これはただ目馴れぬさまなれば
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なむ」とて、しひてささせたてまつり給。げによろづにかしづき立てて見たて
まつり給ふに、生けるかひあり、たまさかにても、かからん人を出だし入れて
見んにますことあらじ、と見え給。
参座しにとても、あまた所もありき給はず、内、春宮、一院ばかり、さて
は藤壷の三条の宮にぞまいり給へる。「けふはまたことにも見えたまふかな。
ねび給ままに、ゆゆしきまでなりまさり給ふ御有さまかな」と、人人めできこ
ゆるを、宮、き丁のひまよりほの見給ふにつけても、思ほす事しげかりけり。
この御事の、しはすも過ぎにしが心もとなきに、この月はさりともと宮人も
待ちきこえ、内にもさる御心まうけどもあり、つれなくて立ちぬ。御もののけ
にやと世人も聞こえさはぐを、宮、いとわびしう、この事により身のいたづら
になりぬべき事、とおぼし嘆くに、御心ちもいと苦しくてなやみ給。中将の君
は、いとと思ひ合はせて、御すほうなど、さとはなくて所所にせさせたまふ。
世の中の定めなきにつけても、かくはかなくてややみなむと、とり集めて嘆き
給ふに、二月十よ日のほどに、おとこ御子生まれ給ひぬれば、なごりなく内に
も宮人もよろこびきこえ給。
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命長くもと思ほすは心うけれど、弘徽殿などのうけはしげにのたまふと聞
きしを、むなしく聞きなし給はまし[か]ば人はらはれにやとおぼしつよりてな
む、やうやうすこしづつさはやい給ける。
上のいつしかとゆかしげにおぼしめしたる事限りなし。かの人知れぬ御心に
も、いみじう心もとなくて、人間にまいり給て、「上のおぼつかながりきこえ
させ給を、まづ見たてまつりてくはしく奏し侍らむ」と聞こえ給へど、「むつ
かしげなるほどなれば」とて、見せたてまつり給はぬもことはりなり。さるは、
いとあさましうめづらかなるまで写し取り給へるさま、違ふべくもあらず。宮
の、御心の鬼にいと苦しく、人の見たてまつるも、あやしかりつるほどのあや
まりを、まさに人の思ひ咎めじや、さらぬはかなき事をだに疵を求むる世に、
いかなる名のつゐに漏り出づべきにか、とおぼしつづくるに、身のみぞいと心
うき。
命婦の君にたまさかにあひ給て、いみじき事どもを尽くし給へど、何のかひ
あるべきにもあらず。若宮の御事を、わりなくおぼつかながりきこえ給へば、
「など、かうしもあながちにのたまはすらむ。今をのづから見たてまつらせ給
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ひてむ」と聞こえながら、思へるけしきかたみにただならず。かたはらいたき
事なれば、まほにもえのたまはで「いかならむ世に人づてならで聞こえさせ
む」とて、泣い給さまぞ心ぐるしき。
「いかさまにむかし結べるちぎりにてこの世にかかる中のへだてぞ
かかる事こそ心へがたけれ」との給。
命婦も、宮の思ほしたるさまなどを見たてまつるに、えはしたなふもさし放
ちきこえず。
「見ても思ふ見ぬはたいかに嘆くらむこや世の人のまどふてふ闇
あはれに心ゆるびなき御事どもかな」と忍びて聞こえけり。
かくのみ言ひやる方なくて帰り給ものから、人のもの言ひもはづらはしきを、
わりなき事にのたまはせおぼして、命婦をも、むかしおぼひたりしやうにも、
うちとけむつび給はず。人目立つまじくなだらかにもてなし給ものから、心づ
きなしとおぼすときも有べきを、いとはびしく思ひのほかになる心ちすべし。
四月に内へまいり給ふ。ほどよりは大きにおよすげ給て、やうやう起きかへ
りなどし給。あさましきまで紛れどころなき御顔つきを、おぼし寄らぬ事にし
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あれば、また並びなきどちは、げに通ひ給へるにこそはと思ほしけり。いみじ
う思ほしかしづく事限りなし。源氏の君を限りなきものにおぼしめしながら、
世の人のゆるしきこゆまじかりしによりて、坊にも据ゑたてまつらずなりにし
を、飽かずくちおしう、ただ人にてかたじけなき御ありさまかたちに、ねびも
ておはするを御覧ずるままに、心ぐるしくおぼしめすを、かうやむ事なき御腹
に同じ光にてさし出で給へれば、疵なき玉とおぼしかしづくに、宮はいかなる
につけても、胸のひまなくやすからずものを思ほす。
例の、中将の君、こなたにて御遊びなどし給に、抱き出でたてまつらせ給て、
「御子たちあまたあれど、そこをのみなむかかる程より明け暮見し。されば
思ひわたさるるにやあらむ、いとよくこそおぼえたれ。いとちいさきほどは、
みなかくのみあるわざにやあらむ」とて、いみじくうつくしと思ひきこえさせ
給へり。
中将の君、面の色変はる心ちして、おそろしうも、かたじけなくも、うれし
くも、あはれにも、かたがたうつろふ心ちして、涙落ちぬべし。物語りなどし
てうち笑み給へるがいとゆゆしううつくしきに、我身ながら、これに似たらむ
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はいみじういたはしうおぼえ給ぞ、あながちなるや。宮は、わりなくかたはら
いたきに、汗も流れてぞおはしける。中将は、中中なる心ちの乱るやうなれ
ば、まかで給ぬ。
わが御方に臥し給て、胸のやる方なきほど過ぐして、大い殿へとおぼす。御
前の前栽の何となく青みわたれる中に、常夏の花やかに咲き出でたるをおらせ
給て、命婦の君のもとに書き給事多かるべし。
よそへつつ見るに心はなぐさまで露けさまさるなでしこの花
花に咲かなんと思ひたまへしも、かひなき世に侍りければ。
とあり。さりぬべきひまにやありけむ、御覧ぜさせて、「たた塵ばかり、この
花びらに」と聞こゆるを、わが御心にも、ものいとあはれにおぼし知らるるほ
どにて、
袖ぬるる露のゆかりと思ふにも猶うとまれぬやまとなでしこ
とばかり、ほのかに書きさしたるやうなるを、よろこびながらたてまつれる、
例の事なれば、しるしあらじかしとくづをれてながめ臥し給へるに、胸うちさ
はぎて、いみじくうれしきにも涙落ちぬ。
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つくづくと臥したるにも、やる方なき心ちすれば、例の、慰めには西の対に
ぞ渡り給ふ。しどけなくうちふくだみ給へる鬢茎、あざれたる袿姿にて、笛を
なつかしう吹きすさびつつ、のぞきたまへれば、女君、ありつる花の露にぬれ
たる心ちして添ひ臥し給へるさま、うつくしうらうたげなり。あい行こぼるる
やうにて、おはしながらとくも渡り給はぬ、なまうらめしかりければ、例なら
ず背き給へるなるべし、端の方についゐて、「こちや」との給へどおどろかず、
「入りぬる磯の」と口ずさみて、口ををいしたまへるさま、いみじうされてう
つくし。「あなにく。かかる事口馴れ給にけりな。みるめに飽くはまさなき事
ぞよ」とて、人召して御琴取り寄せて弾かせたてまつり給。
「箏の琴は、中の細緒のたへがたきこそ所せけれ」とて、平でふにをし下し
て調べ給。掻き合はせばかり弾きて、さしやり給へれば、え怨じはてず、いと
うつくしう弾き給ふ。小さき御ほどに、さしやりて揺し給御手つきいとうつ
くしければ、らうたしとおぼして、笛吹き鳴らしつつおしへ給。いとさとくて、
かたき調子どもを、ただ一わたりに習ひとり給。大方らうらうじうおかしき御
心ばへを、思し事かなふとおぼす。保曾呂倶世利といふものは、名はにくけれ
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ど、おもしろふ吹きすさび給へるに、掻き合はせまだ若けれど、拍子違はず上
手めきたり。
大殿油まいりて、絵どもなど御覧ずるに、出で給べしとありつれば、人人こ
はづくりきこえて、「雨降り侍ぬべし」など言ふに、姫君、例の、心ぼそくて
屈し給へり。絵も見さして、うつぶしておはすれば、いとらうたくて、御髪の
いとめでたくこぼれかかりたるをかき撫でて、「ほかなるほどは恋しくやある」
とのたまへば、うなづき給。「われも、一日も見たてまつらぬはいと苦しうこ
そあれど、おさなくおはするほどは心やすく思ひきこえて、まづくねくねしく
うらむる人の心破らじと思て、むつはしければ、しばしかくもありくぞ。おと
なしく見なしてば、ほかへもさらに行くまじ。人のうらみ負はじなど思ふも、
世にながふありて、思ふさまに見えたてまつらんと思ふぞ」など、こまごまと
語らひきこえ給へば、さすがにはづかしうてともかくもいらへきこえ給はず。
やがて御膝によりかかりて寝入り給ぬれば、いと心ぐるしうて、「こよひは出
でずなりぬ」との給へば、みな立ちて、御膳などこなたにまいらせたり。姫君
起こしたてまつり給ひて、「出でずなりぬ」と聞こえ給へば、慰さみて起き給
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へり。もろともにものなどまいる。いとはかなげにすさびて、「さらば寝給
ねかし」とあやうげに思給つれば、かかるを見捨てては、いみじき道なりと
も、おもむきがたくおぼえ給。
かやうにとどめられ、給おりおりなども多かるを、をのづから漏り聞く人、
大殿に聞こえければ、「たれならむ。いとめざましき事にもあるかな。今まで
その人とも聞こえず、さやうにまつはし戯れなどすらんは、あてやかに心にく
き人にはあらじ。内わたりなどにてはかなく見給けむ人をものめかし給て、
人や咎めむと隠し給ななり。心なげにいわけて聞こゆるは」など、さぶらふ人
人も聞こえあへり。
内にも、かかる人ありと聞こしめして、「いとおしくおとどの思ひ嘆かるな
[ることも、げに。ものげなかりしほどを、おほなおほなかくものしたる心を、
さばかりのことたどらぬほどにはあらじを、などかなさけなくはもてなすなる
らん」]とのたまはすれど、かしこまりたるさまにて、御いらへも聞こえ給はね
ば、心ゆかぬなめりといとおしくおぼしめす。「さるは、すきずきしううち乱
れて、この見ゆる女房にまれ、又こなたかなたの人人など、なべてならずな
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ども見え聞こえざめるを、いかなるものの隈に隠れありきて、かく人にもうら
みらるらむ」とのたまはす。
みかどの御年ねびさせ給ぬれど、かうやうの方、え過ぐさせ給はず、采女、
女蔵人などをも、かたち心あるをば、ことにもてはやしおぼしめしたれば、
よしある宮仕へ人多かる比なり。はかなき事をも言ひふれ給ふには、もて離
るる事も有がたきに、目馴るるにやあらむ、げにぞあやしうすい給はざめると、
心みに戯れ事を聞こえかかりなどするおりあれど、なさけなからぬほどにうち
いらへて、まことには乱れ給はぬを、まめやかにさうざうしと思きこゆる人も
あり。
年いたう老たる内侍のすけ、人もやむごとなく心ばせあり、あてにおぼえ高
くはありながら、いみじうあだめいたる心ざまにて、そなたにはをもからぬあ
るを、かうさだ過ぐるまで、などさしも乱るらむと、いぶかしくおぼえ給けれ
ば、戯れ事言ひふれて心みたまふに、似げなくも思はざりける。あさましとお
ぼしながら、さすがにかかるもおかしふて、物などの給てけれど、人の漏り聞
かむも古めかしきほどなれば、つれなくもてなし給へるを、女はいとつらしと
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思へり。
上の御梳櫛にさぶらひけるを、果てにければ、上は御袿の人召して出でさせ
給ぬるほどに、又人もなくて、この内侍、常よりもきよげに様体頭つきなま
めきて、装束ありさまいと花やかに好ましげに見ゆるを、さも古りがたうもと
心づきなく見たまふ物から、いかが思ふらんとさすがに過ぐしがたくて、裳の
裾を引きおどろかし給へれば、かはぼりのえならずゑがきたるをさし隠して見
かへりたるまみ、いたう見延べたれど、目皮らいたく黒み落ち入りて、いみじ
うはつれそそけたり。
似つかはしからぬ扇のさまかなと見給て、わが持たまへるにさしかへて見
給へば、赤き紙の、うつるばかり色深きに、木高き森のかたを塗り隠したり。
片つ方に、手はいとさだ過ぎたれど、よしなからず、「森の下草老ひぬれば」
など書きすさびたるを、ことしもあれ、うたての心ばへや、と笑まれながら、
「森こそ夏の、と見ゆめる」とて、なにくれとの給ふも、似げなく、人や見つ
けんと苦しきを、女はさも思ひたらず。
君し来ば手なれの駒に刈り餌はむさかりすぎたる下葉なりとも
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と言ふさま、こよなく色めきたり。
「笹分けば人やとがめむいつとなく駒なつくめる森の木がくれ
わづらはしさに」とて、立ち給ふをひかへて、「まだかかるものをこそ思侍ら
ね。今さらなる身のはぢになむ」とて泣くさま、いといみじ。「今聞こえむ。
思ひながらぞや」とて、ひき放ちて出で給を、せめてをよびて、「橋柱」とう
らみかくるを、上は御袿はてて、御障子よりのぞかせ給けり。似つかはしから
ぬあはひかなと、いとおかしうおぼされて、「すき心なしと、常にもて悩むめ
るを、さはいへど、過ぐさざりけるは」とて笑はせ給へば、内侍はなままばゆ
けれど、にくからぬ人ゆへは、濡れ衣をだに着まほしがるたぐひもあなればに
や、いたうもあらがひきこえさせず。
人人も、思ひのほかなる事かなとあつかふめるを、頭中将聞きつけて、
いたらぬ隈なき心にて、まだ思ひ寄らざりけるよと思ふに、尽きせぬ好み心も
見まほしうなりにければ、語りひつきにけり。この君も人よりはいとことなる
を、かのつれなき人の御慰めにと思ひつれど、見まほしきは限りありけるをと
や。うたての好みや。
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いたう忍ぶれば、源氏の君はえ知り給はず。見つけきこえてはまづうらみき
こゆるを、齢のほどいとおしければ慰めむとおぼせど、かなはぬ物うさにいと
久しくなりにけるを、夕立ちして、なごり涼しきよひの紛れに、温明殿のわた
りをたたずみありき給へば、この内侍、琵琶をいとおかしう弾きゐたり。御前
などにても、おとこ方の御遊びにまじりなどして、ことにまさる人なき上手な
れば、ものうらめしうおぼえけるおりから、いとあはれに聞こゆ。「瓜作りに
なりやしなまし」と、声はいとおかしうて歌ふぞ、すこし心づきなき。鄂州に
ありけむむかしの人も、かくやおかしかりけむと、耳とまりて聞き給ふ。弾き
やみて、いといたう思ひ乱れたるけはひなり。君、東屋を忍びやかに歌ひて寄
り給へるに、「をし開いて来ませ」とうち添へたるも、例に違ひたる心ちぞす
る。
立ち濡るる人しもあらじ東屋にうたてもかかる雨そそきかな
とうち嘆くを、われひとりしも聞き負ふまじけれど、うとましや、何事をかく
までは、とおぼゆ。
人妻はあなわづらはし東屋の真屋のあまりもなれじとぞ思ふ
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とてうち過ぎなまほしけれど、あまりはしたなくやと思ひかへして、人に従へ
ば、すこしはやりかなる戯れ言など言ひかはして、是もめづらしき心ちぞし
給。
頭中将は、此君の、いたうまめだち過ぐして、常にもどき給がねたきを、
つれなくてうちうち忍び給方給方多かめるを、いかで見あらはさむとのみ思
ひわたるに、これを見つけたる心ちいとうれし。かかるおりに、すこしをどし
きこえて、御心まどはして、「懲りぬや」と言はむと思ひて、たゆめきこゆ。
風冷やかにうち吹きて、ややふけ行ほどに、すこしまどろむにやと見ゆるけ
しきなれば、やをら入り来るに、君はとけてしも寝給はぬ心なれば、ふと聞き
つけて、此中将とは思よらず、なを忘れがたくすなる修理の大夫にこそあらめ
とおぼすに、おとなとなしき人に、かく似げなきふるまひをして、見つけられ
ん事ははづかしければ、「あなわづらはし。出でなむよ。蜘蛛のふるまいはし
るかりつらむものを。心うくすかし給けるよ」とて、なをしばかりを取りて、
屏風のうしろに入り給ひぬ。中将、おかしきを念じて、引きたてまつる屏風の
もとに寄りて、こほこほと畳み寄せて、おどろおどろしくさはがすに、内侍はね
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びたれど、いたくよしばみなよびたる人の、先、先もかやうにて心動かすおり
おりありければ、ならひて、いみじく心あはたたしきにも、此君をいかにしき
こえぬるかと、わびしさに、ふるふふるふ、つと控へたり。たれと知られで出で
なばやとおぼせど、しどけなき姿にて、冠などうちゆがめて走らむ後手思ふに、
いとおこなるべしとおぼしやすらふ。
中将、いかで我と知られきこえじと思ひて、物も言はず、たたいみじう怒れ
るけしきにもてなして、太刀を引き抜けば、女、「あが君、あが君」と向ひて手
をするに、ほとほと笑ひぬべし。好ましう若やぎてもてなしたるうはべこそさ
りもありけれ、五十七八の人の、うちとけてもの言ひさはげるけはひ、えなら
ぬ二十の若人たちの御中にてものをぢしたる、いと月なし。かふあらぬさまに
もてひがめて、おそろしげなるけしきを見すれど、中中しるく見つけ給て、
我と知りてことさらにするなりけりとおこになりぬ。
その人なめりと見給に、いとおかしければ、太刀抜きたる腕をとらへて、
いといたうつみ給へれば、ねたきものから、えたへで笑ひぬ。「まことはうつ
し心かとよ。戯れにくしや。いでこのなおし着む」との給へど、つととらへて
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さらにゆるしきこえず。「さらばもろともにこそ」とて、中将の帯をひき解き
て、脱がせ給へば、脱がじとすまふを、とかくひきしろふほどに、ほころびは
ほろほろと絶えぬ。中将、
「つつむめる名やもり出でん引きかはしかくほころぶる中の衣に
上にとり着ば、しるからん」と言ふ。君、
かくれなき物と知る知る夏衣きたるをうすき心とぞ見る
と言ひかはして、うらやみなきしどけな姿に引きなされて、みな出で給ひぬ。
君は、いとくちおしく見つけられぬる事と思ひ臥し給へり。内侍は、あさま
しくおぼえければ、落ちとまれる御指貫、帯など、つとめてたてまつれり。
うらみても言ふかひぞなき立かさね引きてかへりしなみのなごりに
底もあらはに。
とあり。面なのさまやと見たまふもにくけれど、わりなしと思へりしもさすが
にて、
あらだちし浪に心はさはがねど寄せけむ磯をいかかうらみぬ
とのみなむありける。帯は、中将のなりけり。わが御なをしよりは色深しと見
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給に、端袖もなかりけり。あやしの事どもや、おり立ちて乱るる人は、むべ
おこがましき事は多からむ、といとど御心おさめられ給ふ。
中将、宿直所より、「これまづとぢつけさせ給へ」とて、をし包みてをこせ
たるを、いかで取りつらむと心やまし。この帯をえざらましかばとおぼす。そ
の色の紙に包みて、
中絶えばかごとやおふとあやふさにはなだの帯をとりてだに見ず
とてやり給。たちかへり、
君にかくひきとられぬる帯なればかくて絶えぬる中とかこたむ
えのがれさせ給はじ。
とあり。
日たけて、をのをの殿上にまいり給へり。いとしづかに、ものとをきさまし
ておはするに、頭の君もいとおかしけれど、公事多く奏し下す日にて、いと
うるはしくすくよかなるを見るも、かたみにほほえまる。人間にさし寄りて
「もの隠しは懲りぬらむかし」とて、いとねたげなるしり目なり。「などてか
さしもあらむ。立ちながら帰りけむ人こそいとおしけれ。まことは、うしや世
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中よ」と言ひ合はせて、「とこの山なる」と、かたみに口がたむ。
さてその後、ともすればことのついでごとに言ひむかふるくさはひなるを、
いとどものむつかしき人ゆへ、とおぼし知るべし。女は、なをいと艶にうらみ
かくるを、わびしと思ありき給。中将は、いもうとの君にも聞こえ出でず、
たたさるべきおりのをどしぐさにせむとぞ思ひける。
やむごとなき御腹腹の親王たちだに、上の御もてなしのこよなきにわづら
はしがりて、いとことに避りきこえ給へるを、この中将は、さらにをし消たれ
きこえじと、はかなき事につけても思ひいどみきこえ給ふ。この君ひとりぞ姫
君の御ひとつ腹なりける。みかどの御子といふばかりこそあれ、我も、同じ大
臣と聞こゆれど、御おぼえことなるが、御子腹にて、またなくかしづかれたる
は、なにばかり劣るべき際とおぼえたまはぬなるべし。人がらもあるべきかぎ
りととのひて、何事もあらまほしく、足らいてぞものし給ける。この御中ども
のいどみこそあやしかりしか。されどうるさくてなむ。
七月にぞ后ゐ給めりし。源氏の君、宰相になり給ぬ。みかどおりゐさせ給は
むの御心づかひ近ふなりて、この若宮を坊にと思ひきこえさせ給に、御後見し
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給べき人おはせず、御母方の、みな親王たちにて、源氏の公事知り給筋
ならねば、母宮をだに動きなきさまにしをきたてまつりて、強りにとおぼすに
なむありける。弘徽殿、いとど御心動き給、ことはり也。されど、「東宮の御
世、いと近ふなりぬれば、疑ひなき御位なり。思ほしのどめよ」とぞ聞こえさ
せ給ける。げに、東宮の御母にて廿よ年になり給へる女御をおきたてまつりて
は、引き越したてまつり給がたき事なりかしと、例のやすからず世人も聞こえ
けり。
まいり給夜の御供に、宰相の君も仕ふまつりたまふ。同じ宮と聞こゆる中
にも、后腹の御子、玉光りかかやきて、たぐひなき御おぼえにさへものし給へ
ば、人もいとことに思かしづききこえたり。ましてわりなき御心には、御輿の
うちも思ひやられて、いとどをよびなき心ちしたまふに、すずろはしきまでな
む。
尽きもせぬ心の闇にくるるかな雲井に人を見るにつけても
とのみひとりごたれつつ、ものいとあはれなり。
御子はおよすげ給月日にしたがひて、いと見たてまつり分きがたげなるを、
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宮いと苦しとおぼせど、思ひよる人なきなめりかし。げにいかさまに作りかへ
てかは、劣らぬ御ありさまは世に出でものし給はまし。月日の光の空に通ひた
るやうにぞ世人も思へる。