45巻  橋  姫




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 そのころ、世に数まへられたまはぬ古宮お
はしけり。母方などもやむごとなくものし
たまひて、筋ことなるべきおぽえなどおは
しけるを、時移りて、世の中にはしたなめられたまひける紛
れに、なかなかいとなごりなく、御後見などももの恨めしき
心々にて、かたがたにつけて世を背き去りつつ、公私に拠
りどころなくさし放たれたまへるやうなり。
 北の方も、昔の大臣の御むすめなりける、あはれに心細く、
親たちの思しおきてたりしさまなど思ひ出でたまふにたとし
へなきこと多かれど、深き御契りの二つなきばかりをうき世
の慰めにて、かたみにまたなく頼みかはしたまへり。

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年ごろ経るに、御子ものしたまはで心もと
なかりければ、さうざうしくつれづれなる
慰めに、いかでをかしからん児もがなと、
宮ぞ時々思しのたまひけるに、めづらしく女君のいとうつく
しげなる生まれたまへり。これを限りなくあはれと思ひかし
づききこえたまふに、またさしつづきけしきばみたまひて、
このたびは男にてもなど思したるに、同じさまにてたひらか
にはしたまひながら、いといたくわづらひて亡せたまひぬ。
宮、あさましう思しまどふ。
 あり経るにつけても、いとはしたなくたへがたきこと多か
る世なれど、見棄てがたくあはれなる人の御ありさま心ざま
にかけとどめらるる絆にてこそ、過ぐし来つれ、独りとまり
て、いとどすさまじくもあるべきかな、いはけなき人々をも、
独りはぐくみたてむほど、限りある身にて、いとをこがまし
う人わろかるべきこと、と思したちて、本意も遂げまほしう

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したまひけれど、見ゆづる人なくて残しとどめむをいみじく
思したゆたひつつ、年月も経れば、おのおのおよすけまさり
たまふさま容貌のうつくしうあらまほしきを、明け暮れの御
慰めにて、おのづからぞ過ぐしたまふ。
 後に生まれたまひし君をば、さぶらふ人々も、「いでや、
をりふし心憂く」などうちつぶやきて、心に入れてもあつか
ひきこえざりけれど、限りのさまにて、何ごとも思しわかざ
りしほどながら、これをいと心苦しと思ひて、(北の方)「ただ、
この君をば形見に見たまひて、あはれと思せ」とばかり、た
だ一言なん宮に聞こえおきたまひければ、前の世の契りもつ
らきをりふしなれど、さるべきにこそはありけめと、今はと
見えしまでいとあはれと思ひてうしろめたげにのたまひしを
と思し出でつつ、この君をしもいとかなしうしたてまつりた
まふ。容貌なむまことにいとうつくしう、ゆゆしきまでもの
したまひける。姫君は、心ばせ静かによしある方にて、見る

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目もてなしも、気高く心にくきさまぞしたまへる、いたはし
くやむごとなき筋はまさりて、いづれをも、さまざまに思ひ
かしづききこえたまへど、かなはぬこと多く、年月にそへて
宮の内ものさびしくのみなりまさる。さぶらひし人も、たづ
きなき心地するにえ忍びあへず、次々に、従ひてまかで散り
つつ、若君の御乳母も、さる騒ぎにはかばかしき人をしも選
りあへたまはざりければ、ほどにつけたる心浅さにて、幼き
ほどを見棄てたてまつりにければ、ただ宮ぞはぐくみたまふ。
 さすがに広くおもしろき宮の、池、山などのけしきばかり
昔に変らでいといたう荒れまさるを、つれづれとながめたま
ふ。家司などもむねむねしき人もなかりければ、とり繕ふ人
もなきままに、草青やかに茂り、軒のしのぶぞ所得顔に青み
わたれる。をりをりにつけたる花紅葉の色をも香をも、同じ
心に見はやしたまひしにこそ慰むことも多かりけれ、いとど
しくさびしく、よりつかん方なきままに、持仏の御飾りばか

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りをわざとせさせたまひて、明け暮れ行ひたまふ。
 かかる絆どもにかかづらふだに思ひの外に口惜しう、わが
心ながらもかなはざりける契りと思ゆるを、まいて、何にか
世の人めいて今さらにとのみ、年月にそへて世の中を思し離
れつつ、心ばかりは聖になりはてたまひて、故君の亡せたま
ひにしこなたは、例の人のさまなる心ばへなど戯れにても思
し出でたまはざりけり。「などかさしも。別るるほどの悲し
びは、また世にたぐひなきやうにのみこそは思ゆべかめれど、
あり経ればさのみやは。なほ世人になずらふ御心づかひをし
たまひて、いとかく見苦しくたづきなき宮の内も、おのづか
らもてなさるるわざもや」と人はもどききこえて、何くれと
つきづきしく聞こえごつことも類にふれて多かれど、聞こし
めし入れざりけり。
 御念諦の隙々には、この君たちをもてあそび、やうやうお
よすけたまへば、琴ならはし、碁打ち、偏つぎなどはかなき

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御遊びわざにつけても、心ばへどもを見たてまつりたまふに、
姫君は、らうらうじく、深く重りかに見えたまふ。若君は、
おほどかにらうたげなるさまして、ものづつみしたるけはひ
にいとうつくしう、さまざまにおはす。
春のうららかなる日影に、池の水鳥どもの
翼うちかはしつつおのがじし囀る声などを、
常ははかなきことと見たまひしかども、つ
がひ離れぬをうらやましくながめたまひて、君たちに御琴ど
も教へきこえたまふ。いとをかしげに、小さき御ほどに、と
りどり掻き鳴らしたまふ物の音どもあはれにをかしく聞こゆ
れば、涙を浮けたまひて、
(八の宮)「うち棄ててつがひさりにし水鳥のかりのこの世に
たちおくれけん
心づくしなりや」と目おし拭ひたまふ。容貌いときよげにお
はします宮なり、年ごろの御行ひに痩せ細りたまひにたれど、

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さてしもあてになまめきて、君たちをかしづきたまふ御心ば
へに、直衣の萎えばめるを着たまひて、しどけなき御さまい
と恥づかしげなり。
 姫君、御硯をやをら引き寄せて、手習のやうに書きまぜだ
まふを、(八の宮)「これに書きたまへ。硯には書きつけざなり」
とて紙奉りたまへば、恥ぢらひて書きたまふ。
(大君)いかでかく巣立ちけるぞと思ふにもうき水鳥のちぎ
  りをぞ知る              ’
よからねど、そのをりはいとあはれなりけり。手は、生ひ先
見えて、まだよくもつづけたまはぬほどなり。(八の宮)「若君も
書きたまへ」とあれば、いますこし幼げに、久しく書き出で
たまへり。
(中の君)泣く泣くもはねうち着する君なくはわれぞ巣守り
  になるべかりける
御衣どもなど萎えばみて、御前にまた人もなく、いとさび

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しくつれづれげなるに、さまざまいとらうたげにてものした
まふをあはれに心苦しう、いかが思さざらん、経を片手に持
たまうて、かつ読みつつ唱歌もしたまふ。姫君に琵琶、若君
に箏の御琴を。まだ幼けれど、常に合はせつつ習ひたまへば、
聞きにくくもあらで、いとをかしく聞こゆ。
父帝にも女御にも、とく後れきこえたまひ
て、はかばかしき御後見のとりたてたるお
はせざりければ、才など深くもえ習ひたま
はず、まいて、世の中に住みつく御心おきてはいかでかは知
りたまはむ、高き人と聞こゆる中にも、あさましうあてにお
ほどかなる、女のやうにおはすれば、古き世の御宝物、祖父
大臣の御処分、何やかやと尽きすまじかりけれど、行く方も
なくはかなく失せはてて、御調度などばかりなん、わざとう
るはしくて多かりける。参りとぶらひきこえ、心寄せたてま
つる人もなし、つれづれなるままに、雅楽寮の物の師どもな

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どやうのすぐれたるを召し寄せつつ、はかなき遊びに心を入
れて生ひ出でたまへれば、その方はいとをかしうすぐれたま
へり。
 源氏の大殿の御弟、八の宮とぞ聞こえしを、冷泉院の春
宮におはしましし時、朱雀院の大后の横さまに思しかまへて、
この宮を世の中に立ち継ぎたまふべく、わが御時、もてかし
づきたてまつりたまひける騒ぎに、あいなく、あなたざまの
御仲らひにはさし放たれたまひにければ、いよいよかの御
次々になりはてぬる世にて、えまじらひたまはず、また、こ
の年ごろ、かかる聖になりはてて、今は限りとよろづを思し
棄てたり。
かかるほどに、住みたまふ宮焼けにけり。
いとどしき世に、あさましうあへなくて、
移ろひ住みたまふべき所の、よろしきもな
かりければ、宇治といふ所によしある山里持たまへりけるに

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渡りたまふ。思ひ棄てたまへる世な
れども、今はと住み離れなんをあは
れに思さる。
 網代のけはひ近く、耳かしがまし
き川のわたりにて、静かなる思ひに
かなはぬ方もあれど、いかがはせん。
花紅葉、水の流れにも、心をやるた
よりに寄せて、いとどしくながめた
まふより外のことなし。かく絶え籠りぬる野山の末にも、昔
の人ものしたまはましかばと思ひきこえたまはぬをりなかり
けり。
(八の宮)見し人も宿も煙になりにしをなにとてわが身消え
  残りけん
生けるかひなくぞ思しこがるるや。
 いとど、山重なれる御住み処に尋ね参る人なし。あやしき

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下衆など、田舎びたる山がつどものみ、まれに馴れ参り仕う
まつる。峰の朝霧晴るるをりなくて明かし暮らしたまふに、
この宇治山に、聖だちたる阿閣梨住みけり、才いとかしこく
て、世のおぼえも軽からねど、をさをさ公事にも出で仕へず
籠りゐたるに、この宮のかく近きほどに住みたまひて、さび
しき御さまに、尊きわざをせさせたまひつつ、法文を読みな
らひたまへば、尊がりきこえて常に参る。年ごろ学び知りた
まへることどもの、深き心を説き聞かせたてまつり、いよい
よ、この世のいとかりそめにあぢきなきことを申し知らすれ
ば、(八の宮)「心ばかりは蓮の上に思ひのぽり、濁りなき池にも
住みぬべきを、いとかく幼き人々を見棄てんうしろめたさば
かりになん、えひたみちにかたちをも変へぬ」など、隔てな
く物語したまふ。

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この阿闍梨は、冷泉院にも親しくさぶらひ
て、御経など教へきこゆる人なりけり。京
に出でたるついでに参りて、例の、さるべ
き文など御覧じて問はせたまふこともあるついでに、(阿闍梨)
「八の宮の、いとかしこく、内教の御才悟深くものしたまひ
けるかな。さるべきにて生まれたまへる人にやものしたまふ
らん。心深く思ひすましたまへるほど、まことの聖の掟にな
ん見えたまふ」と聞こゆ。(冷泉院)「いまだかたちは変へたまは
ずや。俗聖とか、この若き人々のつけたなる、あはれなるこ
となり」などのたまはす。
 宰相中将も、御前にさぶらひたまひて、我こそ、世の中
をばいとすさまじく思ひ知りながら、行ひなど人に目とどめ
らるばかりは勤めず、口惜しくて過ぐし来れ、と人知れず思
ひつつ、俗ながら聖になりたまふ心の掟やいかに、と耳とど
めて聞きたまふ。(阿闍梨)「出家の心ざしはもとよりものしたま

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へるを、はかなきことに思ひとどこほり、今となりては、心
苦しき女子どもの御上をえ思ひ棄てぬとなん、嘆きはべりた
うぶ」と奏す。
 さすがに物の音めづる阿闍梨にて、「げに、はた、この姫
君たちの琴弾き合はせて遊びたまへる、川波に競ひて聞こえ
はべるは、いとおもしろく、極楽思ひやられはべるや」と古
代にめづれば、帝ほほ笑みたまひて、「さる聖のあたりに生
ひ出でて、この世の方ざまはたどたどしからんと推しはから
るるを、をかしのことや。うしろめたく思ひ棄てがたく、も
てわづらひたまふらんを、もししばしも後れんほどは、譲り
やはしたまはぬ」などぞのたまはする。この院の帝は、十の
皇子にぞおはしましける。朱雀院の、故六条院にあづけきこ
えたまひし入道の宮の御例を思ほし出でて、かの君たちをが
な、つれづれなる遊びがたきに、などうち思しけり。
 中将の君、なかなか親王の思ひすましたまへらん御心ばへ

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を対面して見たてまつらばやと思ふ心ぞ深くなりぬる。さて
阿闍梨の帰り入るにも、(薫)「かならず参りてもの習ひきこゆ
べく、まづ内々にも気色たまはりたまへ」など語らひたまふ。
帝は、御言伝てにて、「あはれなる御住ま
ひを人づてに聞くこと」など聞こえたまう
て、
(冷泉院)世をいとふ心は山にかよへども八重たつ雲を君や
  へだつる
阿闍梨、この御使を先に立てて、かの宮に参りぬ。なのめな
る際のさるべき人の便だにまれなる山蔭に、いとめづらしく
待ちよろこびたまうて、所につけたる肴などして、さる方に
もてはやしたまふ。御返り、
(八の宮)あとたえて心すむとはなけれども世をうぢ山に宿
  をこそかれ
聖の方をば卑下して聞こえなしたまへれば、なほ世に恨み残

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りけるといとほしく御覧ず。
 阿闍梨、中将の君の道心深げにものしたまふなど語りきこ
えて、「法文などの心得まほしき心ざしなん、いはけなかり
し齢より深く思ひながら、え避らず世にあり経るほど、公
私に暇なく明け暮らし、わざと閉ぢ籠りて習ひ読み、おほ
かたはかばかしくもあらぬ身にしも、世の中を背き顔ならん
も憚るべきにあらねど、おのづからうちたゆみ紛らはしくて
なん過ぐしくるを、いとありがたき御ありさまをうけたまは
り伝へしより、かく心にかけてなん頼みきこえさするなど、
ねむごろに申したまひし」など語りきこゆ。
 宮、「世の中をかりそめのことと思ひとり、厭はしき心の
つきそむることも、わが身に愁へある時、なべての世も恨め
しう思ひ知るはじめありてなん道心も起こるわざなめるを、
年若く、世の中思ふにかなひ、何ごとも飽かぬことはあらじ
とおぽゆる身のほどに、さ、はた、後の世をさへたどり知り

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たまふらんがありがたさ。ここには、さべきにや、ただ、厭
ひ離れよと、ことさらに仏などの勧めおもむけたまふやうな
るありさまにて、おのづからこそ、静かなる思ひかなひゆけ
ど、残り少なき心地するに、はかばかしくもあらで過ぎぬべ
かめるを、来し方行く末、さらにえたどるところなく思ひ知
らるるを、かへりては心恥づかしげなる法の友にこそはもの
したまふなれ」などのたまひて、かたみに御消息通ひ、みづ
からも参でたまふ。
げに、聞きしよりもあはれに、住まひたま
へるさまよりはじめて、いと仮なる草の庵
に、思ひなしことそぎたり。同じき山里と
いへど、さる方にて心とまりぬべくのどやかなるもあるを、
いと荒ましき水の音、波の響きに、もの忘れうちし、夜など
心とけて夢をだに見るべきほどもなげに、すごく吹きはらひ
たり。聖だちたる御ためには、かかるしもこそ心とまらぬも

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よほしならめ、女君たち、何心地して過ぐしたまふらん、世
の常の女しくなよびたる方は遠くや、と推しはからるる御あ
りさまなり。
 仏の御隔てに、障子ばかりを隔ててぞおはすべかめる。す
き心あらん人は、気色ばみ寄りて、人の御心ばへをも見まほ
しう、さすがにいかがとゆかしうもある御けはひなり。され
ど、さる方を思ひ離るる願ひに山
深く尋ねきこえたる本意なく、す
きずきしきなほざり言をうち出で
あざればまんも事に違ひてや、な
ど思ひ返して、宮の御ありさまの
いとあはれなるをねむごろにとぶ
らひきこえたまひ、たびたび参り
たまひつつ、思ひしやうに、優婆
塞ながら行ふ山の深き心、法文な

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ど、わざとさかしげにはあらで、いとよくのたまひ知らす。
 聖だつ人才ある法師などは世に多かれど、あまりこはごは
しうけ遠げなる宿徳の僧都、僧正の際は、世に暇なくきすく
にて、ものの心を問ひあらはさんもことごとしくおばえたま
ふ、また、その人ならぬ仏の御弟子の、忌むことを保つばか
りの尊さはあれど、けはひいやしく言葉たみて、こちなげに
もの馴れたる、いとものしくて、畳は公事に暇なくなどしつ
つ、しめやかなる宵のほど、け近き御枕上などに召し入れ語
らひたまふにも、いとさすがにものむつかしうなどのみある
を、いとあてに心苦しきさまして、のたまひ出づる言の葉も、
同じ仏の御教へをも、耳近きたとひにひきまぜ、いとこよな
く深き御悟りにはあらねど、よき人はものの心を得たまふ方
のいとことにものしたまひければ、やうやう見馴れたてまつ
りたまふたびごとに、常に見たてまつらまほしうて、暇なく
などしてほど経る時は恋しくおぼえたまふ。

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 この君のかく尊がりきこえたまへれば、冷泉院よりも常に
御消息などありて、年ごろ音にもをさをさ聞こえたまはず、
いみじくさびしげなりし御住み処に、やうやう人目見る時々
あり。をりふしにとぶらひきこえたまふこといかめしう、こ
の君も、まづさるべきことにつけつつ、をかしきやうにもま
めやかなるさまにも心寄せつかうまつりたまふこと、三年ば
かりになりぬ。
秋の末つ方、四季にあててしたまふ御念仏
を、この川面は網代の波もこのごろはいと
ど耳かしがましく静かならぬをとて、かの
阿闍梨の住む寺の堂に移ろひたまひて、七日のほど行ひたま
ふ。姫君たちは、いと心細くつれづれまさりてながめたまひ
けるころ、中将の君、久しく参らぬかなと思ひ出できこえた
まひけるままに、有明の月のまだ夜深くさし出づるほどに出
で立ちて、いと忍びて、御供に人などもなく、やつれておは

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しけり。
 川のこなたなれば、舟などもわづらはで、御馬にてなりけ
り。入りもてゆくままに霧りふたがりて、道も見えぬしげ木
の中を分けたまふに、いと荒ましき風の競ひに、ほろほろと
落ち乱るる木の葉の露の散りかかるもいと冷やかに、人やり
ならずいたく濡れたまひぬ。かかる歩きなども、をさをさな
らひたまはぬ心地に、心細くをかしく思されけり。
(薫)山おろしにたへぬ木の葉の露よりもあやなくもろき
  わが涙かな
山がつのおどろくもうるさしとて、随身の音もせさせたまは
ず、柴の籬を分けつつ、そこはかとなき水の流れどもを踏み
しだく駒の足音も、なほ、忍びてと用意したまへるに、隠れ
なき御匂ひぞ、風に従ひて、主知らぬ香とおどろく寝覚めの
家々ありける。
 近くなるほどに、その琴とも聞きわかれぬ物の音ども、い

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とすごげに聞こゆ。常にかく遊びたまふと聞くを、ついでな
くて、親王の御琴の音の名高きもえ聞かぬぞかし、よきをり
なるべし、と思ひつつ入りたまへば、琵琶の声の響きなりけ
り。黄鐘調に調べて、世の常の掻き合はせなれど、所からに
や耳馴れぬ心地して、掻きかへす撥の音も、ものきよげにお
もしろし。箏の琴、あはれになまめいたる声して、絶え絶え
聞こゆ。
 しばし聞かまほしきに、忍びたまへど、御けはひしるく聞
きつけて、宿直人めく男なまかたくなしき出で来たり。(宿直人)
「しかじかなん籠りおはします。御消息をこそ聞こえさせめ」
と申す。(薫)「なにか。しか限りある御行ひのほどを、紛らは
しきこえさせんにあいなし。かく濡れ濡れ参りて、いたづら
に帰らん愁へを、姫君の御方に聞こえて、あはれとのたまは
せばなん慰むべき」とのたまへば、醜き顔うち笑みて、(宿直人)
「申させはべらん」とて立つを、(薫)「しばしや」と召し寄せて、

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(薫)「年ごろ、人づてにのみ聞きて、ゆかしく思ふ御琴の晋ど
もを、うれしきをりかな、しばし、すこしたち隠れて聞くべ
き物の隈ありや。つきなくさし過ぎて参りよらむほど、みな
ことやめたまひては、いと本意なからん」とのたまふ。御け
はひ、顔容貌の、さるなほなほしき心地にも、いとめでたく
かたじけなくおぽゆれば、(宿直人)「人聞かぬ時は、明け暮れか
くなむ遊ばせど、下人にても、都の方より参り立ちまじる人
はべる時は、音もせさせたまはず。おほかた、かくて女たち
おはしますことをば隠させたまひ、なべての人に知らせたて
まつらじと思しのたまはするなり」と申せば、うち笑ひて、
(薫)「あぢきなき御もの隠しなり。しか忍びたまふなれど、皆
人ありがたき世の例に、聞き出づべかめるを」とのたまひて、
(薫)「なほしるべせよ。我はすきずきしき心などなき人ぞ。か
くておはしますらん御ありさまの、あやしく、げになべてに
おぽえたまはぬなり」とこまやかにのたまへば、(宿直人)「あな

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かしこ。心なきやうに後の聞こえやはべらむ」とて、あなた
の御前は竹の透垣しこめて、みな隔てことなるを、教へ寄せ
たてまつれり。御供の人は、西の廊に呼びすゑて、この宿直
人あひしらふ。
あなたに通ふべかめる透垣の戸を、すこし
押し開けて見たまへば、月をかしきほどに
霧りわたれるをながめて、簾を短く捲き上
げて人々ゐたり。簀子に、いと寒げに、身細く萎えばめる童
一人、同じさまなる大人などゐたり。内なる人、一人は柱に
すこしゐ隠れて、琵琶を前に置きて、撥を手まさぐりにしつ
つゐたるに、雲隠れたりつる月のにはかにいと明くさし出で
たれば、(中の君)「扇ならで、これしても月はまねきつべかりけ
り」とて、さしのぞきたる顔、いみじくらうたげににほひや
かなるべし。添ひ臥したる人は、琴の上にかたぶきかかりて、
(大君)「入る日をかへす撥こそありけれ、さま異にも思ひおよ

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びたまふ御心かな」とて、うち笑ひたるけはひ、いますこし
重りかによしづきたり。(中の君)「およばずとも、これも月に離
るるものかは」など、はかなきことをうちとけのたまひかは
したるけはひども、さらによそに思ひやりしには似ず、いと
あはれになつかしうをかし。昔物語などに語り伝へて、若き
女房などの読むをも聞くに、かならずかやうのことを言ひた
る、さしもあらざりけんと憎く推しはからるるを、げにあは
れなるものの隈ありぬべき世なりけりと心移りぬべし。
 霧の深ければ、さやかに見ゆべくもあらず。また、月さし
出でなんと思すほどに、奥の方より、「人おはす」と告げき
こゆる人やあらん、簾おろしてみな入りぬ。おどろき顔には
あらず、なごやかにもてなしてやをら隠れぬるけはひども、
衣の音もせずいとなよよかに心苦しうて、いみじうあてにみ
やびかなるをあはれと思ひたまふ。
 やをら立ち出でて、京に、御車率て参るべく、人走らせつ。

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ありつる侍に、(薫)「をりあしく参りはべりにけれど、なかな
かうれしく、思ふことすこし慰めてなん。かくさぶらふよし
聞こえよ。いたう濡れにたるかごとも聞こえさせむかし」と
のたまへば、参りて聞こゆ。
かく見えやしぬらんとは思しも寄らで、う
ちとけたりつることどもを聞きやしたまひ
つらんといといみじく恥づかし。あやしく、
かうばしく匂ふ風の吹きっるを、思ひがけぬほどなれば、お
どろかざりける心おそさよと、心もまどひて恥ぢおはさうず。
御消息など伝ふる人も、いとうひうひしき人なめるを、をり
からにこそよろづのこともと思いて、まだ霧の紛れなれば、
ありつる御簾の前に歩み出でてついゐたまふ。山里びたる若
人どもは、さし答へん言の葉もおぽえで、御褥さし出づるさ
まもたどたどしげなり。(薫)「この御簾の前にははしたなくは
べりけり。うちつけに浅き心ばかりにては、かくも尋ね参る

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まじき山のかけ路に思うたまふるを、さま異にてこそ。かく
露けき旅を重ねては、さりとも、御覧じ知るらんとなん頼も
しうはべる」といとまめやかにのたまふ。
 若き人々の、なだらかにもの聞こゆべきもなく、消えかへ
りかかやかしげなるもかたはらいたければ、女ばらの奥深き
を起こしいづるほど久しくなりて、わざとめいたるも苦しう
て、(大君)「何ごとも思ひ知らぬありさまにて、知り顔にもい
かがは聞こゆべく」と、いとよしあり、あてなる声して、ひ
き入りながらほのかにのたまふ。(薫)「かつ知りながら、うき
を知らず顔なるも世のさがと思うたまへ知るを、一ところし
もあまりおぽめかせたまふらんこそ口惜しかるべけれ。あり
がたう、よろづを思ひすましたる御住まひなどに、たぐひき
こえさせたまふ御心の中は、何ごとも涼しく推しはかられは
べれば、なほかく忍びあまりはべる深さ浅さのほども分かせ
たまはんこそかひははべらめ。世の常のすきずきしき筋には

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思しめし放つべくや。さやうの方は、わざとすすむる人はべ
りともなびくべうもあらぬ心強さになん。おのづから聞こし
めしあはするやうもはべりなん。つれづれとのみ過ぐしはべ
る世の物語も、聞こえさせどころに頼みきこえさせ、また、
かく世離れてながめさせたまふらん御心の紛らはしには、さ
しもおどろかさせたまふばかり聞こえ馴れはべらば、いかに
思ふさまにはべらむ」など多くのたまへば、つつましく答へ
にくくて、起こしつる老人の出で来たるにぞ譲りたまふ。
たとしへなくさし過ぐして、(弁)「あなかた
じけなや。かたはらいたき御座のさまにも
はべるかな。御簾の内にこそ。若き人々は、
もののほど知らぬやうにはべるこそ」など、したたかに言ふ
声のさだ過ぎたるも、かたはらいたく君たちは思す。(弁)「い
ともあやしく、世の中に住まひたまふ人の数にもあらぬ御あ
りさまにて、さもありぬべき人々だに、とぶらひ数まへきこ

P144
えたまふも見え聞こえず
のみなりまさりはべるめ
るに、ありがたき御心ざ
しのほどは、数にもはベ   エ
らぬ心にも、あさましき
まで思ひたまへきこえさせはべるを、若き御心地にも思し知
りながら、聞こえさせたまひにくきにやはべらん」と、いと
つつみなくもの馴れたるもなま憎きものから、けはひいたう
人めきて、よしある声なれば、(薫)「いとたづきも知らぬ心地
しつるに、うれしき御けはひにこそ。何ごとも、けに思ひ知
りたまひける頼み、こよなかりけり」とて、寄りゐたまへる
を、几帳のそばより見れば、曙のやうやうものの色分かるる
に、げにやつしたまへると見ゆる狩衣姿のいと濡れしめりた
るほど、うたてこの世のほかの匂ひにやと、あやしきまで薫
り満ちたり。

P145
この老人はうち泣きぬ。(弁)「さし過ぎたる罪もやと思うた
まへ忍ぶれど、あはれなる昔の御物語の、いかならんついで
にうち出できこえさせ、片はしをもほのめかし知ろしめさせ
んと、年ごろ念誦のついでにもうちまぜ思うたまへわたる験
にや、うれしきをりにはべるを、まだきにおぼほれはべる涙
にくれて、えこそ聞こえさせずはべりけれ」と、うちわなな
く気色、まことにいみじくもの悲しと思へり。おほかた、さ
だ過ぎたる人は涙もろなるものとは見聞きたまへど、いとか
うしも思へるもあやしうなりたまひて、(薫)「ここにかく参る
ことはたび重なりぬるを、かくあはれ知りたまへる人もなく
てこそ、露けき道のほどに独りのみそぽちつれ。うれしきつ
いでなめるを、言な残いたまひそかし」とのたまへば、(弁)
「かかるついでしもはべらじかし。また、はべりとも、夜の
間のほど知らぬ命の頼むべきにもはべらぬを。さらば、ただ、
かかる古者世にはべりけりとばかり知ろしめされはべらなん。

P146
三条宮にはべりし小侍従はかなくなりはべりにけるとほの聞
きはべりし。その昔睦ましう思うたまへし同じほどの人多く
亡せはべりにける世の末に、遥かなる世界より伝はり参で釆
て、この五六年のほどなむ、これにかくさぶらひはべる。知
ろしめさじかし、このごろ藤大納言と申すなる御兄の右衛
門督にて隠れたまひにしは。もののついでなどにや、かの御
上とて聞こしめし伝ふることもはべらん。過ぎたまひていく
ばくも隔たらぬ心地のみしはべる。そのをりの悲しさも、ま
だ袖のかわくをりはべらず思うたまへらるるを、手を折りて
数へはべれば、かくおとなしくならせたまひにける御齢のほ
ども夢のやうになん。かの故権大納言の御乳母にはべりしは、
劣が母になんはべりし。朝夕に仕うまつり馴れはべりしに、
人数にもはべらぬ身なれど、人に知らせず、御心よりはた余
りけることををりをりうちかすめのたまひしを、今は限りに
なりたまひにし御病の末つ方に召し寄せて、いささかのたま

P147
ひおくことなんはべりしを、聞こしめすべきゆゑなん一事は
べれど、かばかり聞こえ出ではべるに、残りをと思しめす御
心はべらば、のどかになん聞こしめしはてはべるべき。若き
人々もかたはらいたく、さし過ぎたりとつきしろひはべめる
もことわりになん」とて、さすがにうち出でずなりぬ。
あやしく、夢語、巫女やうのものの問はず
語りすらんやうにめづらかに思さるれ、と、
あはれにおぽつかなく思しわたることの筋
を聞こゆれば、いと奥ゆかしけれど、げに人目もしげし、さ
しぐみに、古物語にかかづらひて夜を明かしはてんも、こち
ごちしかるべければ、(薫)「そこはかと思ひわくことはなきも
のから、いにしへのことと聞きはべるも、ものあはれになん。
さらばかならずこの残り聞かせたまへ。霧晴れゆかばはした
なかるべきやつれを、面なく御覧じ咎められぬべきさまなれ
ば。思うたまふる心のほどよりは、口惜しうなん」とて立ち

P148
たまふに、かのおはします寺の鐘の声かすかに聞こえて、霧
いと深くたちわたれり。
峰の八重雲思ひやる隔て多くあはれなるに、
なほこの姫君たちの御心の中ども心苦しう、
何ごとを思し残すらん、かくいと奥まりた
まへるもことわりぞかしなどおぽゆ。
(薫)「あさぽらけ家路も見えずたづねこし槙の尾山は霧こ
  めてけり
心細くもはべるかな」とたち返りやすらひたまへるさまを、
都の人の目馴れたるだになほいとことに思ひきこえたるを、
まいていかがはめづらしう見ざらん。御返り聞こえ伝へにく
げに思ひたれば、例のいとつつましげにて、
(大君)「雲のゐる峰のかけ路を秋霧のいとど隔つるころにも
  あるかな
すこしうち嘆いたまへる気色浅からずあはれなり。

P149
何ばかりをかしきふしは見えぬあたりなれど、げに心苦し
きこと多かるにも、明うなりゆけば、さすがに直面なる心地
して、(薫)「なかなかなるほどにうけたまはりさしつること多
かる残りは、いますこし面馴れてこそは、恨みきこえさすべ
かめれ。さるは、かく世の人めいてもてなしたまふべくは、
思はずにもの思しわかざりけりと恨めしうなん」とて、宿直
人、がしつらひたる西面におはしてながめたまふ。
「網代は人騒がしげなり。されど氷魚も寄らぬにやあらん、
すさまじげなるけしきなり」と、御供の人々見知りて言ふ。
あやしき舟どもに柴刈り積み、おのおの何となき世の営みど
もに行きかふさまどもの、はかなき水の上に浮かびたる、誰
も思へば同じごとなる世の常なさなり。我は浮かばず、玉の
台に静けき身と思ふべき世かはと思ひつづけらる。
 硯召して、あなたに聞こえたまふ。
 (薫)「橋姫の心を汲みて高瀬さす棹のしづくに袖ぞ濡れぬ

P150
  る
ながめたまふらむかし」とて、宿直人に持たせたまへり。い
と寒げに、いららぎたる顔して持てまゐる。御返り、紙の香
などおぽろけならむは恥づかしげなるを、ときをこそかかる
をりはとて、
(大君)「さしかへる宇治の川長朝夕のしづくや袖をくたし
  はつらん
身さへ浮きて」と、いとをかしげに書きたまへり。まほにめ
やすくものしたまひけりと心とまりぬれど、「衡車率て参り
ぬ」と、人々騒がしきこゆれば、宿直人ばかりを召し寄せて、
(薫)「帰りわたらせたまはむほどに、かならず参るべし」など
のたまふ。濡れたる御衣どもは、みなこの人に脱ぎかけたま
ひて、取りに遣はしつる御直衣に奉りかへつ。

P151
老人の物語、心にかかりて思し出でらる。
思ひしよりはこよなくまさりて、をかしか
りつる御けはひども面影にそひて、なほ思
ひ離れがたき世なりけりと心弱く思ひ知らる。御文奉りたま
ふ。懸想だちてもあらず、白き色紙の厚肥えたるに、筆はひ
きつくろひ選りて、墨つき見どころありて書きたまふ。
(薫)うちつけなるさまにやとあいなくとどめはべりて、残
 り多かるも苦しきわざになん。かたはし聞こえおきつるや
 うに、今よりは御簾の前も心やすく思しゆるすべくなん。
 御山籍りはてはべらん日数も承りおきて、いぶせかりし霧
 のまよひもはるけはべらん。
などぞ、いとすくよかに書きたまへる。左近将監なる人、御
使にて、(薫)「かの老人たづねて、文もとらせよ」とのたまふ。
宿直人が寒げにてさまよひしなどあはれに思しやりて、大き
なる檜破子やうのものあまたせさせたまふ。

P152
 またの日、かの御寺にも奉りたまふ。山籠りの僧ども、こ
のごろの嵐にはいと心細く苦しからんを、さておはしますほ
どの布施賜ふべからむと思しやりて、絹、綿など多かりけり。
御行ひはてて出でたまふ朝なりければ、行ひ人どもに、綿、
絹、袈裟、衣など、すべて一領のほどづつ、あるかぎりの大
徳たちに賜ふ。
 宿直人、かの御脱ぎ棄ての艶にいみじき狩の御衣ども、え
ならぬ白き綾の御衣のなよなよといひ知らず匂へるをうつし
着て、身を、はた、えかへぬものなれば、似つかはしからぬ
袖の香を人ごとに答められ、めでらるるなむ、なかなかとこ
ろせかりける。心にまかせて身をやすくもふるまはれず、い
とむくつけきまで人のおどろく匂ひを失ひてばやと思へど、
ところせき人の御移り香にて、えも濯ぎ棄てぬぞ、あまりな
るや。
 君は、姫君の御返り事、いとめやすく児めかしきををかし

P153
く見たまふ。宮にも、かく御消息ありきなど人々聞こえさせ
御覧ぜさすれば、(八の宮)「何かは。懸想だちて、もてないたま
はんも、なかなかうたてあらん。例の若人に似ぬ御心ばへな
めるを、亡からむ後もなど、二言うちほのめかしてしかば、
さやうにて心ぞとめたらむ」などのたまひけり。御みづから
も、さまざまの御とぶらひの、山の岩屋にあまりしことなど
のたまへるに、参でむと思して、三の宮の、かやうに奥まり
たらむあたりの見まさりせんこそをかしかるべけれと、あら
ましごとにだにのたまふものを、聞こえはげまして、御心騒
がしたてまつらんと思して、のどやかなる夕暮に参りたまへ
り。
 例の、さまざまなる御物語聞こえかはしたまふついでに、
宇治の宮のこと語り出でて、見し暁のありさまなどくはしく
聞こえたまふに、宮いと切にをかしと思いたり。さればよと
御気色を見て、いとど御心動きぬべく言ひつづけたまふ。

P154
(匂宮)「さて、そのありけん返り事は、などか見せたまはざり
し。まろならましかば」と恨みたまふ。(薫)「さかし。いとさ
まざま御覧ずべかめる端をだに見せさせたまはぬ。かのわた
りは、かく、いとも埋もれたる身に、ひき籠めてやむべきけ
はひにもはべらねば、かならず御覧ぜさせばやと思ひたまふ
れど、いかでか尋ねよらせたまふべき。かやすきほどこそ、
すかまほしくは、いとよくすきぬべき世にはべりけれ。うち
隠ろへつつ多かめるかな。さる方に見どころありぬべき女の、
もの思はしき、うち忍びたる住み処ども、山里めいたる隈な
どに、おのづからはべるべかめり。この聞こえさするわたり
は、いと世づかぬ聖ざまにて、こちごちしうぞあらんと、年
ごろ思ひ侮りはべりて、耳をだにこそとどめはべらざりけれ。
ほのかなりし月影の見劣りせずは、まほならんはや。けはひ
ありさま、はた、さばかりならむをぞ、あらまほしきほどと
おぼえはべるべき」など聞こえたまふ。

P155
はてはては、まめだちていとねたく、おぽろけの人に心移
るまじき人のかく深く思へるを、おろかならじとゆかしう思
すこと限りなくなりたまひぬ。(匂宮)「なほ、またまた、よく
けしき見たまへ」と人をすすめたまひて、限りある御身のほ
どのよだけさを、厭はしきまで心もとなしと思したれば、を
かしくて、(薫)「いでや、よしなくぞはべる。しばし世の中に
心とどめじと思うたまふるやうある身にて、なほざりごとも
つつましうはべるを、心ながらかなはぬ心つきそめなば、お
ほきに思ひに違ふべきことなんはべるべき」と聞こえたまへ
ば、(匂宮)「いで、あなことごとし。例のおどろおどろしき聖
詞見はててしがな」とて笑ひたまふ。心の中には、かの古
人のほのめかしし筋などの、いとどうちおどろかされてもの
あはれなるに、をかしと見ることも、めやすしと聞くあたり
も、何ばかり心にもとまらざりけり。

P156
十月になりて、五六日のほどに宇治へ参で
たまふ。「網代をこそ、このごろは御覧ぜ
め」と聞こゆる人々あれど、(薫)「何か、そ
の蜉蝣にあらそふ心にて、網代にも寄らん」と、そぎ棄てた
まひて、例の、いと忍びやかにて出で立ちたまふ。かろらか
に網代車にて、練の直衣、指貫縫はせて、ことさらび着たま
へり。
 宮待ちよろこびたまひて、所につけたる御饗など、をかし
うしなしたまふ。暮れぬれば、大殿油近くて、さきざき見さ
したまへる文どもの深きなど、阿闍梨も請じおろして、義な
ど言はせたまふ。うちもまどろまず、川風のいと荒ましきに、
木の葉の散りかふ音、水の響きなど、あはれも過ぎて、もの
恐ろしく心細き所のさまなり。
 明け方近くなりぬらんと思ふほどに、ありししののめ思ひ
出でられて、琴の音のあはれなることのついでつくり出でて、

P157
(薫)「前のたび霧にまどはされはべりし曙に、いとめづらしき
物の音、一声うけたまはりし残りなん、なかなかにいといぶ
かしう、飽かず思うたまへらるる」など聞こえたまふ。(八の宮)
「色をも香をも思ひ棄ててし後、昔聞きしこともみな忘れて
なん」とのたまへど、人召して琴とりよせて、(八の宮)「いとつ
きなくなりにたりや。しるべする物の音につけてなん、思ひ
出でらるべかりける」とて、琵琶召して、客人にそそのかし
たまふ。取りて調べたまふ。(薫)「さらに、ほのかに聞きはべ
りし同じものとも、思うたまへられざりけり。御琴の響きか
らにやとこそ思うたまへしか」とて、心とけても掻きたてた
まはず。(八の宮)「いで、あなさがなや。しか御耳とまるばかり
の手などは、いづくよりかここまでは伝はり来ん。あるまじ
き御事なり」とて、琴掻き鳴らしたまへる、いとあはれに心
すごし。かたへは、峰の松風のもてはやすなるべし。いとた
どたどしげにおぽめきたまひて、心ばへある手ひとつばかり

P158
にてやめたまひつ。
(八の宮)「このわたりに、おぽえなくて、をりをりほのめく箏
の琴の音こそ、心得たるにやと聞くをりはべれど、心とどめ
てなどもあらで、久しうなりにけりや。心にまかせて、おの
おの掻き鳴らすべかめるは、川波ばかりや打ち合はすらん、
論なう、物の用にすばかりの拍子などもとまらじとなんおぽ
えはべる」とて、(八の宮)「掻き鳴らしたまへ」とあなたに聞こ
えたまへど、思ひよらざりし独り琴を聞きたまひけんだにあ
るものを、いとかたはならんと引き入りつつ、みな聞きたま
はず。たびたびそそのかしきこえたまへど、とかく聞こえす
さびてやみたまひぬめれば、いと口惜しうおぽゆ。
 そのついでにも、かくあやしう世づかぬ思ひやりにて過ぐ
すありさまどもの、思ひの外なることなど、恥づかしう思い
たり。(八の宮)「人にだにいかで知らせじとはぐくみ過ぐせど、
今日明日とも知らぬ身の残り少なさに、さすがに、行く末遠

P159
き人は、落ちあぶれてさすらへんこと、これのみこそ、げに
世を離れん際の絆なりけれ」とうち語らひたまへば、心苦し
う見たてまつりたまふ。(薫)「わざとの御後見だち、はかばか
しき筋にはべらずとも、うとうとしからず思しめされんとな
ん思ひたまふる。しばしもながらへはべらん命のほどは、一
言も、かくうち出できこえさせてむさまを違へはべるまじく
なん」など申したまへば、いとうれしきことと思しのたまふ。
さて、暁方の宮の御行ひしたまふほどに、
かの老人召し出でてあひたまへり。姫君の
御後見にてさぶらはせたまふ、弁の君とぞ
いひける。年は六十にすこし足らぬほどなれど、みやびかに
ゆゑあるけはひして、ものなど聞こゆ。故権大納言の君の、
世とともにものを思ひつつ、病づきはかなくなりたまひにし
ありさまを聞こえ出でて泣くこと限りなし。げに、よその人
の上と聞かむだにあはれなるべき古事どもを、まして年ごろ

P160
おぽつかなくゆかしう、いかなりけんことのはじめにかと、
仏にもこのことをさだかに知らせたまへと念じつる験にや、
かく夢のやうにあはれなる昔語をおぽえぬついでに聞きつけ
つらん、と思すに、涙とどめがたかりけり。
(薫)「さても、かく、その世の心知りたる人も残りたまへり
けるを。めづらかにも恥づかしうも、おぽゆることの筋に、
なほ、かく言ひ伝ふるたぐひやまたもあらん。年ごろ、かけ
ても聞きおよばざりける」とのたまへば、(弁)「小侍従と弁と
放ちて、また知る人はべらじ。一言にても、また、他人にう
ちまねびはべらず。かくものはかなく、数ならぬ身のほどに
はべれど、夜昼かの御かげにつきたてまつりてはべりしかば、
おのづからもののけしきをも見たてまつりそめしに、御心よ
りあまりて思しける時々、ただ二人の中になん、たまさかの
御消息の通ひもはべりし。かたはらいたければ、くはしく聞
こえさせず。今はのとぢめになりたまひて、いささか、のた

P161
まひおくことのはべりしを、かかる身には置き所なく、いぶ
せく思うたまへわたりつつ、いかにしてかは聞こしめし伝ふ
べきと、はかばかしからぬ念誦のついでにも思うたまへつる
を、仏は世におはしましけりとなん思うたまへ知りぬる。御
覧ぜさすべき物もはべり。今は、何かは、焼きも棄てはべり
なん、かく朝夕の消えを知らぬ身の、うち棄てはべりなば、
落ち散るやうもこそと、いとうしろめたぐ思うたまふれど、
この宮わたりにも、時々ほのめかせたまふを、待ち出でたて
まつりてしかば、すこし頼もしく、かかるをりもやと念じは
べりつる力出で参できてなん。さらに、これは、この世のこ
とにもはべらじ」と、泣く泣くこまかに、生まれたまひける
ほどのことも、よくおぱえつつ聞こゆ。
(弁)「むなしうなりたまひし騒ぎに、母にはべりし人は、や
がて病づきてほども経ず隠れはべりにしかば、いとど思うた
まへ沈み、藤衣裁ち重ね、悲しきことを思ひたまへしほどに、

P162
年ごろよからぬ人の心をつけたりけるが、人をはかりごちて、
西の海のはてまでとりもてまかりにしかば、京のことさへ跡
絶えて、その人もかしこにて亡せはべりにし後、十年あまり
にてなん、あらぬ世の心地してまかり上りたりしを、この宮
は、父方につけて、童より参り通ふゆゑはべりしかば、今は、
かう、世にまじらふべきさまにもはべらぬを、冷泉院の女御
殿の御方などこそは、昔聞き馴れたてまつりしわたりにて、
参り寄るべくはべりしかど、はしたなくおぽえはべりて、え
さし出ではべらで、深山隠れの朽木になりにてはべるなり。
小侍従はいつか亡せはべりにけん。その昔の若ざかりと見は
べりし人は、数少なくなりはべりにける末の世に、多くの人
に後るる命を、悲しく思ひたまへてこそ、さすがにめぐらひ
はべれ」など聞こゆるほどに、例の、明けはてぬ。(薫)「よし、
さらば、この昔物語は尽きすべうなんあらぬ、また、人聞か
ぬ心やすき所にて聞こえん。侍従といひし人は、ほのかにお

P163
ぽゆるは、五つ六つばかりなりしほどにや、にはかに胸を病
みて亡せにきとなん聞く。かかる対面なくは、罪重き身にて
過ぎぬべかりけること」などのたまふ。
 ささやかにおし巻き合はせたる反故どもの、黴くさきを袋
に縫ひ入れたる取り出でて奉る。(弁)「御前にて失はせたまへ。
我なほ生くべくもあらずなりにたりとのたまはせて、この御
文をとり集めて賜せたりしかば、小侍従に、またあひ見はべ
らんついでに、さだかに伝へ参らせんと思ひたまへしを、や
がて別れはべりにしも、私事には飽かず悲しうなん思ひたま
ふる」と聞こゆ。つれなくて、これは隠いたまひつ。かやう
の古人は、間はず語りにや、あやしきことの例に言ひ出づら
んと苦しく思せど、かへすがへすも散らさぬよしを誓ひつる、
さもやとまた思ひ乱れたまふ。
 御粥、強飯などまゐりたまふ。昨日は暇日なりしを、今日
は内裏の御物忌もあきぬらん、院の女一の宮、なやみたまふ

P164
御とぶらひにかならず参るべければ、かたがた暇なくはべる
を、またこのごろ過ぐして、山の紅葉散らぬ前に参るべきよ
し聞こえたまふ。(八の宮)「かく、しばしば立ち寄らせたまふ光
に、山の蔭も、すこしもの明きらむる心地してなん」など、
よろこびきこえたまふ。
帰りたまひて、まづこの袋を見たまへば、
唐の浮線綾を縫ひて、「上」といふ文字を
上に書きたり。細き組して口の方を結ひた
るに、かの御名の封つきたり。開くるも恐ろしうおぼえたま
ふ。いろいろの紙にて、たまさかに通ひける御文の返り事、
五つ六つぞある。さては、かの御手にて、病は重く限りにな
りにたるに、またほのかにも聞こえんこと難くなりぬるを、
ゆかしう思ふことはそひにたり、御かたちも変りておはしま
すらんが、さまざま悲しきことを、陸奥国紙五六枚に、つぶ
つぶとあやしき鳥の跡のやうに書きて、

P165
(柏木)目の前にこの世をそむく君よりもよそにわかるる魂
  ぞかなしき
また、端に、(柏木)「まづらしく聞きはべる二葉のほども、う
しろめた思うたまふる方はなけれど、
 命あらばそれとも見まし人−れぬ岩根にとめし松の生ひ
 すゑ」
書きさしたるやうにいと乱りがはしくて、「侍従の君に」と
上には書きつけたり。紙魚といふ虫の住み処になりて、古め
きたる黴くささながら、跡は消えず、ただ今書きたらむにも
違はぬ言の葉どもの、こまごまとさだかなるを見たまふに、
げに落ち散りたらましよとうしろめたういとほしきことども
なり。
 かかること、世にまたあらんやと、心ひとつにいとどもの
思はしさそひて、内裏へ参らんと思しつるも出で立かれず。
宮の御前に参りたまへれば、いと何心もなく、若やかなるさ

P166
ましたまひて、経読みたまふを、恥ぢらひてもて隠したまへ
り。何かは、知りにけりとも知られたてまつらんなど、心に
籠めてよろづに思ひゐたまへり。


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