帚木の冒頭[一]は夕顔の巻の末文[三三]とよく呼応し、序文と跋文の役割を果たしていることは諸賢の論であり、筆者も同意見である。これ以外に、いわゆる「雨夜の品定め」についての成立論的論文がなく、本論が初めてである。後期挿入説を持って順次源氏物語を明確にして行く過程は、著者等の分析総合能力を高め、なをかつ紫式部の手法に精通して行く過程でもあるから、本文の読みはより一層厳密さを増す。源氏物語の本文に読みを徹することこそが、源氏物語ひいては紫式部を理解する基である。
本論は現在の雨夜の品定めの部分が同時期に執筆されたとしては不自然な部分を検討し、構造を分析する。そして、空蝉物語・夕顔物語との関連性を調べ、帚木三帖全体の執筆順序を明確にする。
1 頭中将と空蝉系物語との関係
不自然なのは頭中将はそれ以後の帚木の巻や空蝉の巻で全く登場せず(表1)
帚 木 の 巻 |
雨 夜 の 品 定 め |
[二] [三] [四] [五] [六] [九] [一三] |
源 氏 頭 中 将 頭 中 将 頭 中 将 頭 中 将 頭 中 将 頭 中 将 |
まだ、中将などにものし給ひし時 宮腹の中将 中将 中将 中将 中将 中将 |
---|---|---|---|---|
空 蝉 |
[二〇] [二一] |
空 蝉 の 女 房 源 氏 |
中将の君 中将召しつればなん | |
夕 顔 の 巻 |
夕 顔 物 語 |
[七] [八] [九] [二〇] [二六] [三〇] |
六條御息所の女房 頭 中 将 頭 中 将 頭 中 将 頭 中 将 頭 中 将 頭 中 将 頭 中 将 |
中将の君 中将殿こそ、これより渡り給ひめれ 頭中将の随身 頭中将の常夏うたかはしく 頭中将ばかりを 頭中将 中将の憂へし 頭中将 |
それでは雨夜の品定めの内容が帚木の巻に表現されていないかと言うと、「かの人々の・・・」(帚木[一六])、「かの中の品に取り出し・・・」(帚木[一八])、「・・・中の品かな」(帚木[二三])と三回とも、漠然とした形で語られている。それにもかかわらず実名は出てこない。雨夜の品定めの帚木[三]〜[一五]までがすでに執筆されていたとするとその後の帚木・空蝉の巻にこれら四名の人物が登場してしかるべきであり、内容が表現されているのに名前すら語られない事は不自然である。
これはいかなることであろうか。現行の巻順に執筆されたとすると説明し難い。これらの疑問や不自然さを説明できる仮説があるとすれば、その仮説は一応真実として考えて良いものであろう。後期挿入説で充分に説明可能なのである。
それでは後期挿入でいかに解決されるかを示そう。
まず、帚木・空蝉・夕顔の三巻に表現されている雨夜の品定めに関係している節、帚木[一六][一八][二三]、夕顔[五後][六][八前][八後][九後][二六][三〇]を、空蝉物語・夕顔物語の執筆順序に表示してみる。(表2)
空 蝉 物 語 | 初 期 |
帚木[一六] 帚木[一八] 帚木[二三] |
「これこそは、かの、人々の捨て難く取り出でしまめ人には、頼まれぬべけれ」 とおぼす物から 「かの、中の品に取り出でていひし、このなみならんかし」と思しいづ 「すぐれたる事はなけれど、目やすく、もてつけてもありつる、中の品かな。 隈なく見あつめたる人の、言ひしことは、げに」と思しあはせられけり。 | |
---|---|---|---|---|
前 期 | なし | |||
中 期 | なし | |||
後 期 | 夕顔[六] | ありし雨夜の品定めののち、いぶかしくおもほしなる品々のあるに、いとど、 隈なくなりぬる御心なめりかし。げに、「これぞ、なのめならぬ、 かたはなべかりける」と、馬頭のいさめ、思し出でて | ||
夕 顔 物 語 | 初 期 | 1 | なし | |
2 | 夕顔[八後] | これこそ、かの、人の定めあなづりし、下の品ならめ | ||
3 | なし | |||
中 期 | 夕顔[五後] | かの「下が下」と、思ひおとししすまひなれど | ||
後 期 | 夕顔[八前] 夕顔[九後] 夕顔[二六] 夕顔[三〇] |
「もし、かの、あはれに忘れざりし人にや」 かの頭中将の常夏うたがはしく、かたりし心ざま、まづ思ひ出でられ給へど 「幼き人まどはしたり」と「中将の憂へしは、さる人や」 頭の中将を見給ふにも、あいなく胸さわぎて、かの撫子の生ひたつ有様、 きかせまほしけれど |
つまり「雨夜の品定め」論 → 行幸[一四] → 「空蝉後期挿入」(夕顔[六])となる。そして頭中将の登場する夕顔後期挿入は「雨夜の品定め」の部分を全体としては表現されていないので、著者たる紫式部にも読者の間でも共通認識がまだ出来上がっていないと考えられるから、全体を「雨夜の物語」と表現した行幸[一四]よりも前に書かれたとする方が自然である。執筆順序は、「雨夜の品定め」論 → 「夕顔後期挿入」 → 行幸[一四]→ 「空蝉後期挿入」としてよいであろう。
さて残るは初期空蝉物語と夕顔初期2・中期についてであるが、このあたりの執筆時には雨夜の品定めの論客頭中将・左馬頭・藤式部丞は、形式的には登場したとしても、具体的には未だ活躍していなかったとするほうがよいと考えられる。そうであればこそ、実名での再登場がないことも納得される。
雨夜の品定めは、帚木[四]〜[一五]までであるが、登場人物は、帚木[四]で頭中将が具体的に活躍し、帚木[五]で左馬頭、藤式部の丞が形式的に登場し、帚木[六]以後で具体的に活躍する。話の内容も、帚木[五]では、頭中将との間で、中の品について論じられ、帚木[六]以下で、中の品、下の品、各種の女と、女性論が具体的に進んでいる。
そうすると、初期空蝉物語と夕顔初期2・中期との関係で読むとき、雨夜の品定めは、帚木[五][六]との間で分かれていて、前半のみが書かれていていて、初期空蝉・夕顔初期2・中期を加筆したと推定される。その意味で、帚木[五]の「この品々をわきまへ定めあらそう。いと聞きにくきこと多かり。」の末文は意味が深い。何故なら、語られたであろう具体的な品定論を書くことは読者にも耳障りなことであったよと、過去形で書かれているからである。若紫系源氏物語で語られる女性は、すべて上の品の女性達である。若紫、藤壷、朧月夜、式部卿宮の姫君、六條御息所、麗景殿女御の妹三の宮、(明石の君については別論としたい。)等々。紫式部は、源氏の恋の相手に中の品をあてるだけでも、読者層の反応を見ていたのではないだろうか。まして、帚木[六]以下で語られる中の品の女性を相手にする話しなど、帚木[五]を書く時点ではまだ躊躇していたと考えられる。
玉上氏はこの点を鋭く指摘している「中の品の女を描くことは、あの時代の作者としては、一つの冒険であったと考えられぬだろうか」と。まさに同感である。紫式部のこの種の冒険に対して並み大抵ではない努力の限りを尽くしたことは、夕顔論で説明した。空蝉・夕顔物語の導入部としての雨夜の品定めにてもやはり同じであった。すなわち、帚木[三]〜[五]までを書き、物語を続け、読者の反応を見てから帚木[六]〜[一五]までの具体的な内容を後から書き加えたのである。「雨夜の品定め」の二重構造を読み取り、さらに詳しく検討をすすめよう。
2 君のうちねぶりて、
− 雨夜の品定め前半と帚木「一六]−
「君のうちねぶりて」を眠っていたと解釈すると、源氏は左馬頭の話を聞いていないことになる。そうなると、源氏の記憶にはないから、帚木[一六]で、源氏が人々の語っていたことをよく記憶していて思い出し、葵の君のことを「猶、『これこそは、かの人々の・・・』と思す物から」などとは語れない。それ故、帚木[一六]は帚木[九]を前提としないほうが筋に矛盾がなく、[五]などの漠然とした語らいを受けた方が自然となる。つまり、著者の執筆順序の方が良い。
「君のうちねぶりて」が、眠っていたのではなく、眠っているふりをして、実は皆の話を聞いていたとか、または眠たがっていたと解釈すると、もっと適当な表現、たとえば「君の、うちねぶたがりて」などが可能である。しかし、これとても葵の上については、これ以前に具体的な性格記載はなく、この中将の思い入れの言葉が葵の上の性格づけをすることになる。中将は、わが妹のことであるから、源氏が寝たふりをしているのなら、狸寝入りをやめさせてまでも源氏の返答を求めて、妹の価値を認めさせることのほうが兄弟間の感情として自然であろう。更に、そのあとに、わずかに左馬頭の話が帚木[一〇]と続いているが、語り終ると、馬頭に「・・・近く居寄れば、君も目覚まし給ふ。」([一〇])と書いていることから、源氏が寝たふりをしていたとは解釈されない。つまり、帚木[一六]が帚木[九]を受けていると前提すると「君のうちねぶりて」の意味がとれなくなるし、解釈不明である。かえって帚木[一六]の前提に帚木[九]がない方が良いのである。
では何故紫式部は帚木[九]で「君のうちねぶりて」なる漠然とした表現を使ったのであろうか。
紫式部は、その読者層の想像をそのまま具体化する方法で雨夜の品定めの後半を挿入した。この時、紫式部は、すべてに矛盾なく挿入をはたすべく苦心したのであろう。帚木[一六]を先に書いてしまって、そこに「思す物から」がある以上、それを前提とするものがなければならない。しかし、その前提に源氏が討論に加わったり、話の内容に同意してしまっては、「思すものから・・」と矛盾してしまう。語られる物語に対して、源氏はわきにいて「君のねぶたがりて」か「君の寝ている様つくりて」・・などとしか表現できないであろう。それとても前述のような、頭中将があえて源氏を起こそうとしなかったという難点がある。とすれば、「君のねぶりて」にどちらとも解釈できるような「うち」を加え、「うちねぶりて」なる語を使ったのである。すなわち、頭の中将と左馬頭の話を聞いているでもなく、聞かないでもないという態度である。頭中将に起こさせず、一応の結論が終ったところで、左馬頭に、ただ「近く居寄」らせただけで目を覚まさせ、頭中将の「わがいもうとの姫君は、この定めに・・・」の言葉を聞いたとも聞かぬともわからない「君のうちねぶりて・・・」という曖昧な表現で読者の追求をはずし、帚木[十六]の「・・と思すものから」の表現に続けたのである。このようにして、後期挿入の不自然さを最少限にしたものと考えられる紫式部の表現力の豊かさに、驚嘆するのである。
帚木[一六]が帚木[九]を前提にしないとすると、帚木[一六]中の「かの人々の棄て難く取り出し・・・」の解釈は、別に特定の人物を想定しない漠然としたものになる。この方が言葉の裏にある「過去の話」に無限の広がりが持たせられ、読者の想像力は豊かになる。
結論として、[一六]は[九]を前提とすると「うちねぶりて」が解釈されず、[一六]が先に書かれており、[九]がそのあとに挿入されたとされる。