T.序

青柳、武田両氏の後期挿入説は大筋では正しいが、源典侍論、空蝉論、夕顔論で次々と明確にしたごとく、各巻々は節単位での挿入が随時行われていったと考えねばならない。現段階までのところ、帚木三帖で未検討の部分は、いわゆる雨夜の品定めの部分であるが、後期挿入的構造となっているか、文章量としても長いので当然の事として検討の対象となる。 ここでの主要問題点は、第一に主要人物の登場、再登場に不自然さがあることである。雨夜の品定めの中心人物なる頭中将は、その後の帚木・空蝉巻に登場せず、夕顔の巻になってやっと再登場する。左馬頭も同様で、その後の帚木・空蝉巻に再登場もなく、夕顔巻で源氏の回想として「馬頭のいさめ」(夕顔[六])と出て来るだけである。どうして空蝉系物語にこれらの登場人物が欠けてしまったのであろうか。雨夜の品定めの流れからすれば、それに続く物語に活躍してしかるべきである。詳細な検討が必要である。 第二に、巻名である。現在の帚木巻では、空蝉系物語よりも前に、雨夜の品定めが語られている。第二巻は、文章量の比重からいっても、雨夜の品定めの部分が三に対して、空蝉系物語は二であり、話の内容からいっても、中心となるのは雨夜の品定めであるから、巻名としたら帚木よりも「雨夜の品定め」の方がより適切である。又、空蝉が、現在の帚木と同じ人物とすれば、桐壷・帚木・空蝉と命名することは同一人物の重複巻名となり、しかも、空蝉がせいぜい源氏物語の端役を担う程度の人物であるので煩わしい。そして、現在の帚木の巻の後半(帚木[一六]以後)は成立論的に見ない限り空蝉系物語であるし、その後の空蝉巻に続いており、全体として空蝉という巻名に統合されても何の不自然さもない。つまり現在の薄い空蝉巻は帚木の後半と一緒になり、新たな「空蝉」巻であってよい。そして帚木の前半[一〜一五]は当然雨夜の品定めが中心となるから、巻名は「雨夜の品定め」となってもおかしくない。この様な点から巻名は、桐壷・雨夜の品定め・空蝉となってしかるべきと考えられる。しかしながら現実にはそうでないのだから、雨夜の品定めを含んでも、それでもなをかつ帚木という巻名が残り、雨夜の品定めの巻名が出来上がらなかったかを考察しなければならない。

 帚木の冒頭[一]は夕顔の巻の末文[三三]とよく呼応し、序文と跋文の役割を果たしていることは諸賢の論であり、筆者も同意見である。これ以外に、いわゆる「雨夜の品定め」についての成立論的論文がなく、本論が初めてである。後期挿入説を持って順次源氏物語を明確にして行く過程は、著者等の分析総合能力を高め、なをかつ紫式部の手法に精通して行く過程でもあるから、本文の読みはより一層厳密さを増す。源氏物語の本文に読みを徹することこそが、源氏物語ひいては紫式部を理解する基である。

 本論は現在の雨夜の品定めの部分が同時期に執筆されたとしては不自然な部分を検討し、構造を分析する。そして、空蝉物語・夕顔物語との関連性を調べ、帚木三帖全体の執筆順序を明確にする。


U.雨夜の品定め前半と後半

  − 帚木[二]〜[五]と帚木[六]〜[一五] −


 1 頭中将と空蝉系物語との関係

 頭中将は、桐壷の巻[一七]で少将として登場するのが初めてであるが、帚木の巻では、[三]にはじめて登場する。両者の執筆時期は、別に頭中将論のとき明らかにする予定であるから、今回は問題としない。物語の流れで、帚木[三]で頭中将は、源氏 → 大殿 → 御息子の公達 → 右大臣の婿、として紹介される。帚木[四]では、その中将が源氏の隠し文を見たがる役割をにない、帚木[五]でおおまかな品定めが行われ、中の品に話題が集中していく。そして左馬頭、藤式部の丞が登場し、帚木[六]〜[一五]まで、源氏、頭中将、左馬頭、藤式部丞の四者での本格的な雨夜の品定めが語られる。

 不自然なのは頭中将はそれ以後の帚木の巻や空蝉の巻で全く登場せず(表1)

 表1 「帚木・空蝉・夕顔」三巻の「中将」と対象人物










[二]
[三]
[四]
[五]
[六]
[九]
[一三]
源  氏
頭 中 将
頭 中 将
頭 中 将
頭 中 将
頭 中 将
頭 中 将
まだ、中将などにものし給ひし時
宮腹の中将
中将
中将
中将
中将
中将


[二〇]
[二一]
空 蝉 の 女 房
源   氏
中将の君
中将召しつればなん








[七]
[八]
   
[九]
[二〇]
[二六]

[三〇]
六條御息所の女房
頭 中 将
頭 中 将
頭 中 将
頭 中 将
頭 中 将
頭 中 将
頭 中 将
中将の君
中将殿こそ、これより渡り給ひめれ
頭中将の随身
頭中将の常夏うたかはしく
頭中将ばかりを
頭中将
中将の憂へし
頭中将

夕顔の巻になって再登場し、雨夜の品定めの事が語られる。夜の宿直での四者の語らいが、夕顔[六]では、文中に「雨夜の品定め」と呼ばれ、「馬頭のいさめ」と表現されている。その後、「かの、あはれに忘れざりし人」(夕顔[八])、「かの頭中将の常夏」(夕顔[九])、「頭中将なむ、まだ少将にものし給ひし時」とか「『幼き人まどはしたり』と中将の憂へしは・・・」(夕顔[二六])、「頭中将を見給ふにも・・・」(夕顔[三〇])と記載されている。藤式部丞は、雨夜の品定めにあまり関与していないので再登場しなくても不思議はないが、少なくとも頭中将や馬頭は夕顔の巻には語られているのだから、中の品の空蝉物語の帚木・空蝉の巻に登場しないのは不思議である。

 それでは雨夜の品定めの内容が帚木の巻に表現されていないかと言うと、「かの人々の・・・」(帚木[一六])、「かの中の品に取り出し・・・」(帚木[一八])、「・・・中の品かな」(帚木[二三])と三回とも、漠然とした形で語られている。それにもかかわらず実名は出てこない。雨夜の品定めの帚木[三]〜[一五]までがすでに執筆されていたとするとその後の帚木・空蝉の巻にこれら四名の人物が登場してしかるべきであり、内容が表現されているのに名前すら語られない事は不自然である。

 これはいかなることであろうか。現行の巻順に執筆されたとすると説明し難い。これらの疑問や不自然さを説明できる仮説があるとすれば、その仮説は一応真実として考えて良いものであろう。後期挿入説で充分に説明可能なのである。 それでは後期挿入でいかに解決されるかを示そう。

 まず、帚木・空蝉・夕顔の三巻に表現されている雨夜の品定めに関係している節、帚木[一六][一八][二三]、夕顔[五後][六][八前][八後][九後][二六][三〇]を、空蝉物語・夕顔物語の執筆順序に表示してみる。(表2)

 表2 雨夜の品定め 関連文章(空蝉・夕顔)






帚木[一六]

帚木[一八]
帚木[二三]

「これこそは、かの、人々の捨て難く取り出でしまめ人には、頼まれぬべけれ」
とおぼす物から
「かの、中の品に取り出でていひし、このなみならんかし」と思しいづ
「すぐれたる事はなけれど、目やすく、もてつけてもありつる、中の品かな。
  隈なく見あつめたる人の、言ひしことは、げに」と思しあはせられけり。

なし 

なし 

夕顔[六] ありし雨夜の品定めののち、いぶかしくおもほしなる品々のあるに、いとど、
  隈なくなりぬる御心なめりかし。げに、「これぞ、なのめならぬ、
  かたはなべかりける」と、馬頭のいさめ、思し出でて






なし 
夕顔[八後]これこそ、かの、人の定めあなづりし、下の品ならめ
なし 


夕顔[五後]かの「下が下」と、思ひおとししすまひなれど


夕顔[八前]
夕顔[九後]
夕顔[二六]
夕顔[三〇]
 
「もし、かの、あはれに忘れざりし人にや」
かの頭中将の常夏うたがはしく、かたりし心ざま、まづ思ひ出でられ給へど
「幼き人まどはしたり」と「中将の憂へしは、さる人や」
頭の中将を見給ふにも、あいなく胸さわぎて、かの撫子の生ひたつ有様、
  きかせまほしけれど

 この表から読み取れることは、品々のことが初期空蝉物語に使われているが、雨夜の品定めの登場人物は漠然と表現されているだけである。夕顔物語では、初期の前期(今後は初期2と改める)、中期に取り入れられているが、やはり具体的人名はない。後期になると頭中将が具体的に登場してくる。さらに注目すべきことは、空蝉後期で「雨夜の品定め」なる言葉が使われていることである。空蝉・夕顔物語の他に雨夜の品定めに関与している巻・節は、末摘花[一四]と行幸[一四]である。末摘花では「葎の門」などから、帚木[七]の後とされるが、行幸[一四]では「かの、いにしえの、雨夜の物語に、色々なりし御むつごとの定めをおぼし出て」と表現されている。つまり、帚木[三]〜[一五]全体を「雨夜の物語」と呼んでいるのである。それでは、「雨夜の品定め」(夕顔[六])とどちらが適切な表現であろうか。無論「雨夜の品定め」であろう。後代の人々がすべて「雨夜の品定め」を使い「雨夜の物語」と表現しないことからも疑問の余地がない。とすると、夕顔[六]で「雨夜の品定め」が使われてから行幸[一四]で「雨夜の物語」は使えまい。「空蝉」と「帚木」(一五八)で考察したと同じ理由で、執筆順序は行幸[一四]が先で、夕顔[六]は後に挿入されたとされる。雨夜の物語とある行幸[一四]は紫式部が、帚木[三]〜[一五]を書いあと行幸[一四]を書き、帚木[三]〜[一五]を「雨夜の物語」と表現したが、読者の命名が「雨夜の品定め」となったので、夕顔[六]で取入れ書き加えたのである。

 つまり「雨夜の品定め」論 → 行幸[一四] → 「空蝉後期挿入」(夕顔[六])となる。そして頭中将の登場する夕顔後期挿入は「雨夜の品定め」の部分を全体としては表現されていないので、著者たる紫式部にも読者の間でも共通認識がまだ出来上がっていないと考えられるから、全体を「雨夜の物語」と表現した行幸[一四]よりも前に書かれたとする方が自然である。執筆順序は、「雨夜の品定め」論 → 「夕顔後期挿入」 → 行幸[一四]→ 「空蝉後期挿入」としてよいであろう。

 さて残るは初期空蝉物語と夕顔初期2・中期についてであるが、このあたりの執筆時には雨夜の品定めの論客頭中将・左馬頭・藤式部丞は、形式的には登場したとしても、具体的には未だ活躍していなかったとするほうがよいと考えられる。そうであればこそ、実名での再登場がないことも納得される。

 雨夜の品定めは、帚木[四]〜[一五]までであるが、登場人物は、帚木[四]で頭中将が具体的に活躍し、帚木[五]で左馬頭、藤式部の丞が形式的に登場し、帚木[六]以後で具体的に活躍する。話の内容も、帚木[五]では、頭中将との間で、中の品について論じられ、帚木[六]以下で、中の品、下の品、各種の女と、女性論が具体的に進んでいる。

 そうすると、初期空蝉物語と夕顔初期2・中期との関係で読むとき、雨夜の品定めは、帚木[五][六]との間で分かれていて、前半のみが書かれていていて、初期空蝉・夕顔初期2・中期を加筆したと推定される。その意味で、帚木[五]の「この品々をわきまへ定めあらそう。いと聞きにくきこと多かり。」の末文は意味が深い。何故なら、語られたであろう具体的な品定論を書くことは読者にも耳障りなことであったよと、過去形で書かれているからである。若紫系源氏物語で語られる女性は、すべて上の品の女性達である。若紫、藤壷、朧月夜、式部卿宮の姫君、六條御息所、麗景殿女御の妹三の宮、(明石の君については別論としたい。)等々。紫式部は、源氏の恋の相手に中の品をあてるだけでも、読者層の反応を見ていたのではないだろうか。まして、帚木[六]以下で語られる中の品の女性を相手にする話しなど、帚木[五]を書く時点ではまだ躊躇していたと考えられる。

 玉上氏はこの点を鋭く指摘している「中の品の女を描くことは、あの時代の作者としては、一つの冒険であったと考えられぬだろうか」と。まさに同感である。紫式部のこの種の冒険に対して並み大抵ではない努力の限りを尽くしたことは、夕顔論で説明した。空蝉・夕顔物語の導入部としての雨夜の品定めにてもやはり同じであった。すなわち、帚木[三]〜[五]までを書き、物語を続け、読者の反応を見てから帚木[六]〜[一五]までの具体的な内容を後から書き加えたのである。「雨夜の品定め」の二重構造を読み取り、さらに詳しく検討をすすめよう。


 2 君のうちねぶりて、
− 雨夜の品定め前半と帚木「一六]−

 従来、帚木[一六]の「『これこそは、かの人々の棄て難く取り出し、まめ人には頼まれぬべけれ、』と、思すものから、・・・」が雨夜の品定めの後半、帚木[九]の「今はただ品にもよらじ。容貌をばさらにもいはし゛。・・・・後安くのどけき所だに強くは、うはべの情は、自らもてつけつべきわざをや。」・・・「わが妹の姫君は、この定めにかなひ給へり」の部分をう受けているとされる。しかし、雨夜の品定め前半から初期空蝉物語になると、帚木[一六]は帚木[九]を受けないことになる。著者の仮説を取るならば、この点を解決しなければならない。通説では「わがいもうとの姫君は、この定めにかなひ給へり」を受けて、「いもうと」=「まめ人」となるのであるが、本当にこれで正しいのであろうか、詳細に検討してみる。この場合、着目すべきは、このあとの、帚木[九]の「君のうちねぶりて、言葉まぜ給はぬを、『さうざうしく心やまし』と思ふ」の中の「君のうちねぶりて」なる意味である。

 「君のうちねぶりて」を眠っていたと解釈すると、源氏は左馬頭の話を聞いていないことになる。そうなると、源氏の記憶にはないから、帚木[一六]で、源氏が人々の語っていたことをよく記憶していて思い出し、葵の君のことを「猶、『これこそは、かの人々の・・・』と思す物から」などとは語れない。それ故、帚木[一六]は帚木[九]を前提としないほうが筋に矛盾がなく、[五]などの漠然とした語らいを受けた方が自然となる。つまり、著者の執筆順序の方が良い。

 「君のうちねぶりて」が、眠っていたのではなく、眠っているふりをして、実は皆の話を聞いていたとか、または眠たがっていたと解釈すると、もっと適当な表現、たとえば「君の、うちねぶたがりて」などが可能である。しかし、これとても葵の上については、これ以前に具体的な性格記載はなく、この中将の思い入れの言葉が葵の上の性格づけをすることになる。中将は、わが妹のことであるから、源氏が寝たふりをしているのなら、狸寝入りをやめさせてまでも源氏の返答を求めて、妹の価値を認めさせることのほうが兄弟間の感情として自然であろう。更に、そのあとに、わずかに左馬頭の話が帚木[一〇]と続いているが、語り終ると、馬頭に「・・・近く居寄れば、君も目覚まし給ふ。」([一〇])と書いていることから、源氏が寝たふりをしていたとは解釈されない。つまり、帚木[一六]が帚木[九]を受けていると前提すると「君のうちねぶりて」の意味がとれなくなるし、解釈不明である。かえって帚木[一六]の前提に帚木[九]がない方が良いのである。 では何故紫式部は帚木[九]で「君のうちねぶりて」なる漠然とした表現を使ったのであろうか。

 紫式部は、その読者層の想像をそのまま具体化する方法で雨夜の品定めの後半を挿入した。この時、紫式部は、すべてに矛盾なく挿入をはたすべく苦心したのであろう。帚木[一六]を先に書いてしまって、そこに「思す物から」がある以上、それを前提とするものがなければならない。しかし、その前提に源氏が討論に加わったり、話の内容に同意してしまっては、「思すものから・・」と矛盾してしまう。語られる物語に対して、源氏はわきにいて「君のねぶたがりて」か「君の寝ている様つくりて」・・などとしか表現できないであろう。それとても前述のような、頭中将があえて源氏を起こそうとしなかったという難点がある。とすれば、「君のねぶりて」にどちらとも解釈できるような「うち」を加え、「うちねぶりて」なる語を使ったのである。すなわち、頭の中将と左馬頭の話を聞いているでもなく、聞かないでもないという態度である。頭中将に起こさせず、一応の結論が終ったところで、左馬頭に、ただ「近く居寄」らせただけで目を覚まさせ、頭中将の「わがいもうとの姫君は、この定めに・・・」の言葉を聞いたとも聞かぬともわからない「君のうちねぶりて・・・」という曖昧な表現で読者の追求をはずし、帚木[十六]の「・・と思すものから」の表現に続けたのである。このようにして、後期挿入の不自然さを最少限にしたものと考えられる紫式部の表現力の豊かさに、驚嘆するのである。

 帚木[一六]が帚木[九]を前提にしないとすると、帚木[一六]中の「かの人々の棄て難く取り出し・・・」の解釈は、別に特定の人物を想定しない漠然としたものになる。この方が言葉の裏にある「過去の話」に無限の広がりが持たせられ、読者の想像力は豊かになる。

 結論として、[一六]は[九]を前提とすると「うちねぶりて」が解釈されず、[一六]が先に書かれており、[九]がそのあとに挿入されたとされる。


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