Y.「帚木」の巻名と存続

 雨夜の品定めは、三期にわけて執筆された。はじめは、帚木(三)だけで、次ぎに空蝉系の帚木(十六)にそのまま続いていた。この物語は、初期空蝉物語で、帚木(二十五)にある和歌中から、帚木なる巻名があたえられたと考えられる。そして前期挿入では関屋一に「かのはゝきぎ」なる愛称として使われても、物語の内容からして当然なものである。中期空蝉物語となったとき、かの「きゝおき給へる女」は、主人公の強烈な行動から、「帚木」という愛称では呼び得ず、空蝉(六)の和歌を介して、それまでの「帚木」の巻は二段にわかれ、前半が「帚木」後半が「空蝉」なる巻名となった。すなわち執筆順序は次ぎのごとくである。  帚木(三)(十六)(十七前)(十八)→(二十)(二十一)→
  →(二十三)(二十四前)→(二十四後)→
  →(二十五)空蝉(一)(二)(三前)→(三後)(四)(五)

 後期空蝉期である夕顔(六)では、帚木(三)〜(十五)までを「雨夜の品定め」と呼び、更に、「馬頭のいさめ」と呼称と人名まで書かれているので、帚木(六)〜(十五)は当然、後期空蝉期より前に書かれている筈である。が中期空蝉期が書かれたあとすぐにこの「雨夜の品定め」が書かれたとすると、前半が「雨夜の品定め」後半が「帚木」となるか、「雨夜の品定め」「帚木」「空蝉」となる可能性が強く、現在の不自然な「帚木」「空蝉」というわかれかたはしないであろう。やはり、「帚木」「空蝉」の巻名が定まってから、「雨夜の品定め」の具体的部分、帚木(六)〜(十五)が帚木(十六)の前に挿入されたと考えられる。下がって「雨夜の品定め」なる巻は残らず「帚木」にまとめられたままとなってしまったと考えられる。

 玉鬘系物語の「行幸」(十四)は、「かのいにしへの雨夜の物語に」とあり、玉鬘系物語は、当然のことながら、帚木(六)〜(十五)の中の頭中将のの夕顔なり撫子なりを前提とするから、玉鬘系物語より先に執筆されたとされる。更に夕顔(六)と比較すると、「雨夜の品定」なる語は、「雨夜の物語」よりも更に言い得て妙なので、一旦使われれば、それ以後は、雨夜の物語とは書きにくくなるので、執筆順序は、帚木(六)〜(十五)→玉鬘系物語→夕顔(六)(後期空蝉期)と考えられる。帚木(四)〜(五)は、初期空蝉期の「かの人々の棄て難く取り出でし・・・」(帚木十六)「かの中の品に取り出でて言ひし、・・・」(帚木十八)「中の品かな、隈なく見集めたる人の・・」(帚木二十三)という無限定の過去の話としてあったものが、読者側からの要求から、挿入されたと考えられる。それすらも、あるときは「かの人々の」であり、あるときは「人の」と単複両数で書かれている微妙な差はどうしようもなかった。

 帚木(十六)の「葵の上」を帚木(九)で狙上に登らせたのは、かの人(馬頭)であって、「かの人々」(十六)ではなかったし、「かの中の品に・・・この列ならむかしと思し出づ。」(帚木十八)も完全には生きた表現とはならなくなった。挿入の時期は、前期空蝉期にも中期空蝉期にも全く影響を与えていないし、前期・中期空蝉期には頭の中将の出現もないことから、中期空蝉以後と考えたほうがよいであろう。空蝉中期で、空蝉を人妻となし頭の中将も活躍出来ぬほどに話が限定されて来ているから、それ以前に書かれてもよいようにも考えられる。ここでは一応、空蝉の巻名が定まるその前後ということで、雨夜の品定めと空蝉系物語の両者の執筆時期は、   帚木(三)→初期空蝉期→または前期空蝉期→帚木(四・五)→中期空蝉期→   帚木(六)〜(十五)→玉鬘系物語(行幸十四)→後期空蝉期と結論しておく。

 なお、夕顔の巻については別稿にて詳論する。


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