3.紫式部と漢籍の学問

 漢籍の学問に対する態度

 「清少納言こそ」以下の部分で、多く語られるのは漢籍に関してのことである。清少納言の批判も「真字書きちらして侍る」であり、寡婦となった古巣での想い出も「なでふ女が真字書は読む」であり、左衛門の内侍のことでは「日本紀をこそ読み給ふ」であり、幼少時の想い出も「書読み侍りし時聞きならひつつ」であり、中宮に隠れて教えるのも「楽府といふ書二巻」である。 そして、注目されるのは、彼女が漢籍の学識を隠そうとすることである。幼い頃から漢籍の学識を得たのに、「一という文字をだに書」かぬようにし、宮仕後も左衛門の内侍の陰口があるからと言っても、「御屏風の上に書きたることをだに読まぬ顔をし」ていると告白している。一という漢字すら書かないことを「あさましく侍り」つまり、いかにも無調法にして、呆れるばかりですと、語るのであるから、人の呆れるくらい、すなわち人に馬鹿にされようとも、実行しているのだからこの決意は相当固かったことがわかる。
 この頃、すでに源氏物語は、執筆後か否かは別として、紫式部の作であることは、後宮にも貴族階級にも知れわたっていた。このことは、紫式部日記にさえ書かれている。その源氏物語の桐壺の巻が玄宗皇帝と楊貴妃の悲恋を謡った長恨歌を基にして作られていることは「太液の芙蓉」、「未央の柳」を引くまでもなく誰にでも解る。
 さらに、夕顔の巻では、長恨歌の内容を踏まへて、「長生殿の古きためしはゆゆしくて、翼をかはさんとは引きかへて、彌勒の世をかね給ふ」と書かれている。つまり、夕顔との末永き契りを望んだとき、玄宗と楊貴妃の、「比翼連理」と契ったという例では、彼等は末まで添い遂げなかったから、忌々しいので、比翼の契りとは使わず、彌勒出現の未来を掛けて契りのたしかさの比喩としている。賢木の巻では、史記中の「我文王子、武王弟成王伯云々」という周公旦の言葉から、源氏に『文王の子、武王の弟』とうち誦し給へる、御名のり、さえぞげにめでたき。「成王の何」とかの給はすらん。そればかりや、また心もとなからむ」と語らせている。そして源氏物語自体、漢籍の知識をどれだけ基としているかは、読む側に漢籍の知識があればあるほど、解るであろう。漢籍の知識は、現代の知識階級以上に、当時の貴族階級では高かったはずである。どんなに隠しても、源氏物語を書いた著者である紫式部が漢籍を読みあさり、記憶していたことは周知の事実であったはずである。そればかりではない紫式部の使った当時の草仮名は、未だ現在の形にはなっておらず、漢字体を知らなければ到底書きも読めもできなかったはずである。それでもなお、紫式部は人前では「御屏風の上に書きたることをだに読まぬ顔を」し通した。
 その反面、中宮彰子に「文集のところどころ」を読み申し上げていることや、ここ二年ぐらいにわたって、「楽府という書二巻をぞ、しどけなくかう教へたてきこえさせて侍る」のである。たとえ、教えていることを隠していても、中宮彰子は公的人であるから、一条帝や道長に知れ渡っているはずである。その事を紫式部自身知っていた。楽府進講の様子を知って中宮彰子のもとに新たに書かせた書籍を送らせていることを「殿もうちもけしきを知らせ給ひて・・・」と、記している。だから漢籍の学識を、すべての人に用心深く隠していたとは考えられない。そればかりではなく中宮彰子には、文集やその他の漢籍の学問を教へる御用漢学者がいたはずである。だから女房としての任務外であったことを敢えて行ったのである。それ等への配慮もあって「しどけなく」教へていたのであろうし、その様な事実を他の女房などには「隠し」たのであった。この様に、御用学者や同僚女房の注意をはらいながらも、紫式部はわざわざ漢籍の学識を披露した。 紫式部の一見相矛盾する態度はどういうことを意味するのであろうか。
 この漢籍の学識に対する態度は、左衛門の内侍という人が彼女を「日本記の御局」とあだ名したことに対する弁明として述べられているのである。「左衛門の内侍という人侍り」から「はたかのものいひの内侍は、え聞かざるべし」云々までの24行は一連の事、すなわち紫式部の漢籍に対する態度を語っているのである。それでは何故、紫式部が、ここで漢籍の学識に対する態度を表明することとなったのか。この文節を吟味し、その動機から掘り下げてみる。
 漢籍の学問の素養を隠すことになったのは「男だに、才がりぬる人は、はなやかならずのみ侍るめよ」と言われることを聞いて、その意味を理解するようになったからだと紫式部は語る。「才がる」つまり学才があるように見せることを恐れるがために、漢学の一という文字すら書かず屏風の字も読めない振りをしたとする。しかし彼女の語る理由では、源氏物語を書いて、漢学の学才を示し、中宮という公的人に漢籍を教授したことなどは納得されない。これ等のことは、一という文字を書いたり読んだりする以上に学才を示す、ひいては、ひけらかしたことにはならないであろうか、源氏物語を制作するにしても出来るだけ漢籍からの導入を少なくしたり、わざわざ中宮彰子に楽府を教授しない方がもっと漢籍の学問を隠すことになったはずである。
 紫式部の使った「才がある」とはもっと深い意味があると考えられる。このような彼女の漢籍に対する態度をあらわにしたのは、左衛門の内侍という人が、式部を「日本紀の御局」とあだ名したためである。ではどうしてこのあだ名に釈明しなければならなかったのか、この内侍も独断であだ名したわけではない。一条帝が源氏物語を語らせお聞きになって紫式部は「日本記をこそ読み給ふべけれ、まことに才あるべし」とおっしゃったことを耳にしたからである。とすれば、「日本紀の御局」というあだ名はこの上ない名誉なことだったはずである。帝のお誉めにあずかったことが宮中全体に広がるのである。恥ずかしさはあるだろうがうれしさこそ優ることであったろう。しかるに、腹を立てているのである。帝のお言葉を「いみじくなん才ある」と早とちりして、殿上人などに言い触らしたと難じている。「ふと推しはかりに」と「いひちらして」とに紫式部のいらだちが表明されている。しかし、帝のお言葉「まことに才あるべし」と内侍の邪推の「いみじく才ある」とはまったく同意である。なんの早とちりもないから、紫式部の立腹の理由はまったくないのである。両者の差があるとすれば「漢籍の才識があるはずだ」と「漢籍の才識がある」との「推測」と「断定」の違いであって紫式部にとっては断定の方が鼻が高かったはずである。にもかかわらず、紫式部は左衛門の内侍が自分のことを「すずろによからず思」っていると言ったり、里の女房の前でも漢籍の学問のあることをおもてに出すことを惜しんでいるのだから、そのようなところで「才さかし」ことはいたしませんと、断じている。ここまで言っているのであるから、帝のお言葉と内侍のおしゃべりとは決定的な違いがあるはずである。とすると、内侍のおしゃべりは「才さかし」と同じ意味を持たねばならない。
 他の伝本では内侍の「いみじくなん才ある」が「いみじくなん才がある」と書写しているものもあるが、「才ある」と「才がある」は同義であるから、帝のお言葉とまったく同じでやはり意味が通じない。
 一説に「才がある」の誤写説がある。これならば帝のお言葉と内侍の伝聞とは隔絶した差異が生ずる。「漢学の才識がある」と言うのと「漢学の才識があるごとく振るまう」しは賞賛と冷笑との違いがある。そして「才がる」と「才さかし」とは同義であるから、この点からも著者は誤写説を取るべきであると考える。「ふと推しはかりに」という言葉の意味も明らかとなり、紫式部にとっては、まさにあらぬ批難をされているわけである。殿上人などに「いひ散らして」とも言いたくなる。どうして「さる所にて才さかし」ことをしでかしませんよと相手を封じ込めてしまう気持ちもそれでこそよく伝わってくる。帝のお誉め下さった「まことに才あるべし」をこの内侍が「いみじくなん才がる」と邪推して言い触らしたとしたら、紫式部でなくとも怒るであろうし、このような文章を書きたくなる。
 この様に紫式部は「才ある」と「才がる」との区別をはっきりと意識していたと考えられる。「才がる」と思われたり言われたりすることを嫌っており彼女にとっては皆の前で読み書きをみせるのが「才がる」であって、源氏物語中にそっと隠されている漢籍の才識や中宮彰子にしどけなく教授したりすることは「才ある」と言うことになる。しかし、この様に、自らを「才がる」と言われないように努力することが必要なのだろうか。この節は左衛門の内侍を中心として語られているが、ことの発端は帝が「まことに才あるべし」とお誉め下さったことであるから、紫式部自身としたら「才ある」ことを認められたわけであり、このあたりを喜んでよいはずである。内侍のことなど帝のお言葉からすればとるにたらないことでことであろう。「才ある」に点があれば、この節は帝に誉められた件の中心となるはずである。それがここでは「才がる」に力点を置いた執筆となっている。とすると「才ある」と「才がある」とに区別したこと自体紫式部の屈曲した心の表情と考えられるのである。真に漢籍の才識があれば堂々としていてよいはずである。ひかえめにしていれば字を書いても、たずねられれば屏風に書かれているのを読んでもよいはずである。その程度のことで紫式部の「才ある」のを「才がる」とは誤解しないであろう。又、はじめは誤解したとしても積み重なってゆくうちに誤解もとれて紫式部は「才ある」とみられたはずである。
 だが紫式部は柔軟性のある態度を取れなかったし、「才ある」と誉められても、率直に喜びを表現していない。この様なことから「才ある」と「才がる」との本来の語句の意味の違い以上にそれを増幅し委曲する紫式部の感情的な個人的体験があったと推測される。この点を紫式部の幼少年期の体験から掘り下げ、起こせば、紫式部の性格形成の序章となり得よう。