清少納言批判

 さて、B1の斉院方の中将の君に関する部分は、その人がある人のもとに交わした手紙(紫式部が読めたのだから彼女が惟規にあてたものであろう)を盗み読みして、そこに書かれてあることに反論するという形式をとっている。
 斉院方と中宮方との気風を比較し、味方の上臈達の子共っぽさが人に批難を受けたとし、これではいけないと叱咤激励する。この間論理は一貫しており、最後には証拠に斉院の中将の手紙がここになく見せられないのが残念であると結んでいる。つまりB1の部分初め、「斉院に中将の君という人侍るなり。ききはべるたよりありて、人のもとに書きかはしたる文を、みそかに人とりて見侍りし」からB1の文末、「いと御覧ぜさせまほしう侍りし文書かな。人の隠しおきたるけるをぬすみて、みそかに見せて、とりかへし侍りにしかば、ねとうこそ」まで構成も筋も一貫している。
 ところが、B4の清少納言こそ、に始まる部分は首尾一貫していない。清少納言こそ高慢ちきな顔をしていてじつにたいへんな女だ。あんなに利口ぶって、漢学の才をひけらかしていても、よくみるとまあ誤っていることが多いよ。この様に他人と違って自分こそとひけらかす人は、必ず見劣りがし、将来はろくなことないよ、と酷評する。このあと紫式部自身の思い出が語られる。そこに断層がある。それまでは違った筋へ展開するときはa、bの如き前置きをしている。ここでは批評をやめ、想い出を語るというただし書きが抜けている。また批評が終わってしまっているとすると、どうしてそれまでの人物(人柄)批評をやめてしまったのであろうか。人柄を語ったのは4名だけであり、12名も容姿について語ったのがあるのに比較すると異常に少ない。 B1、B2さらに、清少納言への酷評自体B1やB2の批判方法と比較しても、異常である。 B1の中将の批判では「歌などのをかしきからむは、わが院よりほかに誰が見しり給ふ人あらむ。世にをかしき人の生ひいでば、わが院こそ御覧じ知るべけれ」という消息文の内容を紹介し、それに対する批判が行われる。B2和泉式部の批判では、「おもしろう、書きかわしける」とその歌の即興性の良さを述べた上で、他人の和歌の批評が適当でないので「恥づかしげの歌よみとはおぼえ侍らず」と語る。清少納言については、bの「心ばせぞかたう侍るかし、それもとりどりに、いとわろきもなし」と自ら述べていることを無視し、間髪を入れず酷評する。そこには何故に悪いかの例示もなく、これこそ、清少納言の本質であると直撃する。「そのあだとなりぬる人のはては、いかでかよくは侍らむ」と悪しき将来を二度までも言忌するに及んでは、清少納言に至っては、冷静沈着な紫式部も遂に堪忍袋の緒が切れたという感じで、一気に誹謗中傷したとしか思いようがない。
 このあとに内容は一転して自分の過去を振り返り、夫なきあとの古巣に残した厨子のこと、女房に漢籍を読んでいることをとがめられること。自分の処世術、他人の目から見た紫式部像、左衛門の内侍に日本紀の御局とあざなされたこと。幼少児父から漢籍を学んだ想い出、隠れて中宮彰子に楽府を進講したことなどが続く。
 何故この様な文章の構成となったのであろうか、消息文部分のそれまでの部分は、理路整然としていて隙がない。読むだけで紫式部の言わんとするところが伝わってくる。しかし清少納言に始まるB4の部分は、紫式部の語らんとするところは不鮮明である。清少納言の酷評は読めば読むほど批判される者より批評する紫式部の口吻のみが前面をおおってしまう。どうしてであろうか。そして何故、そのあと紫式部は清少納言とは関係のない、自らの処世術や左衛門の内侍の件や、幼少時の想い出などを語ったのであろうか。
現在のまでのところ、このような疑問に対し統一的な解釈はなされていない、しかし、構成、内容ともに乱れ、感情的表現が多いことから、紫式部の比論理的な心情、無意識的自我の表出である可能性が高い。紫式部の性格を浮き彫りにするにはこの部分の精神分析的な、精神病理学的な解明こそ必要とされる。