IV 源典侍物語執筆の順序・時期
  ー源氏物語に於ける後期挿入の方法ー

1 執筆の順序   物語D→物語A→物語B→物語C

 以上の検討の如く、物語Aも物語Dも共に一方の物語を前提としていないのが特徴である。ということは如何なる意味を持つのであろうか。主人公の成長に伴って、巻巻が次々と執筆される場合は、前半に書かれた主人公の体験や起こった事件は、主人公にも作者の記憶にも残るはずであるから、後半に書かれた物語は、前半とは無関係ではないし、前半の事件、体験も充分に暗示されるはずである。にもかかわらず、物語Dには物語Aを暗示するものがないとすれば、執筆順序としては物語Dが物語Aの後ろに書かれたとする前提はなくなる。
 逆に物語Dが書かれて、その後に物語Aが書かれたと仮定すると、物語上の時間的関係から、物語Dの出来事を物語Aに附加することはできない。もし、物語Aに、先に書かれた物語Dの内容を組込んだとしたら、物語Aに於ては十代の終りであるから、十代の物語の中に、三十代の物語を組み入れる事になり不自然な形となってしまう。あったとしてもせいぜい、発展して物語Dになることを推測させる程度の内容附加に留まる。しかも、物語Dは既に書かれてしまっているから、物語Aの新たな内容を物語Dに附加することができない。附加する為には、新たに物語’Dとして物語Dに後期挿入する手段を取らざるを得ない。それでも、物語Dは物語’Dに前提としない構成となってモザイク的に存在するだけのことである。故に、物語Aと物語Dとがお互いに独立している事は、物語Dが先に書かれ、物語Aが後期挿入されたと考えるのに何の矛盾もないばかりか、合理的とさえ、言えるのである。
 筋の展開からしても物語Dは、その前後に断絶がなく物語Aには本筋からの断絶が存在する。この事は、紫式部が、駄作者であれば、始めに物語Aを書いた時に、本筋からの流れる様な展開が不可能であったこと、物語を書き続けるに従い物語Dを書く頃には本筋からの滑らかな展開が可能な程文章力がついたこと以外には理解しがたい事である。しかしながら、筆の運びの量としても物語Aは、九頁におよび物語Dは僅か二頁にも満たない。しかも物語Aの内容は流れるような文章で、この好色茶番劇を一気に読ませてしまい、伊勢物語の九十九髪の老女の段章を源泉としてはいるものの、それは新たに烏滸物語としてあざやかに換骨奪胎されており、加えてその物語の内部構造そのものが、完璧と称すべきみごとさで、それ自体がきわめて高い完成度を示し、かつ、それ自体の完結性を有している(7) ぐらいであるから、紫式部が駄作者とは考えにくい。この意味でも物語Aは、物語D執筆以後に書かれたとしなければならない。
 更に重要なことは、物語Aでは肉体関係を有したと考えられる源氏と、かの内侍であるのに、物語Dでは、源氏と祖母おとどでは、肉体関係を暗示する言葉も、好色性を帯びた関係すら存在しないのである。その基本は、親子関係にも似た親愛の情であり祖母おとどという名称自体、おばあちゃんとおとどという貴婦人の敬称であるから、日本人の所謂、内なる関係であり、肉体関係を有することは、タブー視される名称であり、愛称である。物語Aが先に書かれたとすれば、物語Dでは、肉体関係を暗示する様な事柄さえなくなるという様なことは、絶対にあってはおかしいのである。また、物語Aを先に書き、肉体関係を持たせれば、後の物語Dで肉体関係を否定する様な祖母おとどという愛称も使えないであろう。この点を説明する論理は、物語Dを先に書いたとする以外全く見出せない。
 そして後期挿入が成り立つのは、物語Dの中に、曖昧性が存在し、それ故に物語Aの中で好色性を持たせたとしても、何とか辻褄が合う場合か、物語Dとは無関係を装い物語Aを書き、そこで好色性を述べ、更にあとで、物語Dと物語Aとを結び合わせる何等かの挿話や、挿入を行い、ある時間間隔を置いて、段階的に読者の理解を変質させる場合か、の二つ以外に考え得ない。
 そこで祖母おとどと、年いたう老いたる内侍とを比較すると、年をとっている事と、内侍であるという事、桐壷帝に仕えた事などが共通するのみで、両者を同一視することは不可能である。更に名称で検討した如く、物語Cがなければ物語Dと物語Aとを含む源典侍物語は、その統一性を欠如することになる。
 以上の如くであるから、物語Dが先に書かれ、祖母おとどと類似した年いたう老いたる内侍の物語Aを挿入したとしか考え得ない。その挿入した時に紫式部自身、「祖母おとど」=「年いたう老いたる内侍」と考えていたかどうかは定かでない。物語Bは、物語Aを前提としており、物語Aのあとに書かれたとして差し仕えない。この時期に於ても、まだ物語Dとは連結されていない。物語Cは、物語A、Bの内容からして当然、かの内侍と同一であることの上に、突然としてそれは、祖母おとどであることが示される。ここで初めて物語Dは、物語A,Bと連結され、「祖母おとど」=「年いたう老いたる内侍」となるのである。
 以上のことすべて総括すると、源典侍物語の執筆順序は、物語D、A、B、C、の順であり、物語A、B、Cは、ある意図をもった紫式部の後期挿入と結論される。
 この執筆順序であれば、物語Aの年いたう老いたる内侍が、物語B、Cでかの内侍という指示代名詞で示されているにもかかわらず、物語Dで、この指示代名詞が使われず、源内侍と、固有名詞で呼ばれていることも理解される。一般的には、固有名詞が先に使用され、物語が進むに従って、指示代名詞が、使われるのが普通であり、物語の現在の巻序通りでは最後になってしまう物語Dになって、突然固有名詞が出現するのは、いかにも不自然である。更に、現在の順番で読む場合、物語Cになって初めて、かの内侍と同一人物として祖母おとどの上が登場するが、それまでの物語で、祖母おとどという人物については、何らの記載も暗示もない。かの内侍という呼び方で充分であり、その系列の呼び方以外に適切なものはない筈である。かの内侍にはいかにさぐっても、肉親関係を間近に暗示する「祖母」という意味はないのである。この不合理についても、執筆順序D、A、B、Cであるならば、物語Dで祖母おとどという意味を明らかにして登場しているから後筆の物語Cで、祖母おとどが出てきたとしても、何とか辻褄を合わせた理解ができるのである。

2 祖母おとどの原型ー物語拡大の手法

 源典侍物語と考えられている物語D、A、B、Cを、構想の面から考えた場合、主人公自体が最初から同一性を持っていたか否か、疑問が生じていることは既に述べた。物語Dの主人公である祖母おとどは、年をとっていて、桐壷帝に仕えた年老いた内侍に着目して、好色性を付け加えたのが、年いたう老いたる内侍である。この様に紫式部の物語拡大の方法の一つとして、後に書き加えて行く時に、先に書かれた人物像に、更に特徴を付加して物語を拡大してゆく手法があると考えられる。物語Dに於ける祖母おとどは、それ以前の形としてどの様な人物像として語られたのであろうか(表3)。もしこの様な人物がそれ以前の物語中から拾い出されるとすれば、この手法は、かなり確かなものとなる。
     おばおとど
表3 祖母殿の原型

巻名  節 源典侍
物語
桐壷帝との関連 年 齢 執筆
順序
桐 壷〔一三〕   上に侍ふ
三代の宮仕に伝はりぬるに ないしのすけ
典侍
紅葉賀〔一三〕    〜〔一六〕  A ↓→→→→→→→→→→→
↓上の御梳櫛に侍ひける
↓ 
→年いたう老いたる
 
 
典侍
 
内侍
 葵 〔一五〕  B   内侍のすけ
 葵 〔四〇〕  C ↓ないたう軽め給ひそ 
↓→→→→→→→→→→→
 
→祖母殿の上
 
内侍
賢 木〔一八〕   ↓(桐壷帝崩御)
やがて尼になり給へる
  ないしのかみ
尚 侍
2?
朝 顔〔一一〕  D
祖母殿と笑はせ給ひし
尼になりて
今しも来たる老のやうに 源内侍 
  のすけ

 祖母おとどの原型を「院のうへ(桐壷帝)は、祖母おとどと笑はせ給ひし」(物語D)と書かれているからといって、桐壷帝から考えて、祖母にあたる人(又はそれと同等の愛着を持つ人)とするのは早計である。桐壷帝が愛称を使った時既に東宮及び源氏がおり、しかも桐壷帝に孫はいなかったので、祖母と呼ぶ場合は、桐壷帝から考えて母又は父帝の時代の人という意味と考えるべきである。しかも、実母でもないのに祖母の愛称で呼ばれているのであるから、桐壷帝に親しく仕えてもいたという二面性をも有する。
 この様な内侍は、桐壷の巻〔十三〕にある「上にさぶらふ内侍のすけ」が、まさにあてはまるのである。一院、先帝、桐壷帝にと「三代の宮づかへ」をしており、一院は桐壷帝の父であるから、この内侍は桐壷帝が祖母おとどと呼ぶにふさわしい年齢であろうし、藤壷のことを奏上する如く桐壷帝に親しさをも感じさせる人物である。源氏にとっても、このときすでに母(御息所)及び実祖母は亡く、この内侍が母代り、祖母代りを勤めたとも推測され、源氏に、藤壷と母御息所と、「いとよう似給へり」桐壷〔十四〕と告げる役すら担う人物である。「上にさぶらふ内侍のすけ」は源氏にとっても、桐壷帝にとっても、祖母おとどと呼ぶのにふさわしい人物である。「なのりいづるにぞ、おぼしいづる」朝顔〔十一〕という言葉でもわかる様にその頃の源氏の年齢(七〜十二歳)から考えて、この内侍の記憶は年齢とともに希薄となったとしても想起されると考えられ、実生活でやや疎遠な間柄となっていても、名前も、そういえば、「源内侍のすけといひし人」と思い出す程なのである。三代に仕へ、充分年をとっていたうえに、その頃より二十年近い歳月がたっているにもかかわらず「いましも来たる老いのやうに」言うからこそほほえまれるのである。この三代に宮仕へした内侍こそ祖母おとどの原型と考えられるのである。
「院の御思ひに、やがて尼になり給へる」内侍のかみ(賢木〔十八〕)とは内侍のすけと官位が異なり、又源氏がこの時既に二十四歳になっていると考えられ、祖母おとどと会った時は三十二歳であることから、尼になっていることも、源内侍であることも充分に記憶されていると考えられるので、同一人物とはしがたい。しかしながら、桐壷帝の「内侍のすけ」を物語執筆継続中に紫式部が「内侍のかみ」と混同し、桐壷帝崩御時には、尼にさせてしまう。そして物語Dを書くに及んでは再び、「内侍のすけ」に戻るとともに、尼であるということが、付け加わったまま残ったと考えれば、尚より一層、源典侍物語の構想の変遷も納得されるのであるが、結論は保留したい。(表3)
 更に、「女御・更衣あまたさぶらふ」(桐壷〔一〕)の女御・更衣という語も、「このさかりにいどみ給ひし女御・更衣」(物語D)と使われ第一部中に、他の一ヶ所を加え、三ヶ所にしかないことも、上にさぶらふ内侍のすけが祖母おとどの原型とする考え方を補強する証左である。このことは、物語D作成時には、桐壷の巻が、存在していたと推定せられ、「乙女前後までいった時、再び戻って桐壷を書いた」とする青柳説は、そのままでは採りがたいのである。又武田氏の如く、源氏物語の起筆が桐壷の巻であり、原型源氏物語で現在の巻順であるとするのも安易すぎると考えたい。
 紫式部が何故、物語Dを書く時桐壷の巻を参照したのか、桐壷の巻と朝顔の巻との密着性を考えると、このあたりの巻前後で、桐壷に戻ったとする青柳説も一理あるのである。筆者の説は、起筆は現在の桐壷の巻の一部分「輝く日の宮」であり、朝顔・乙女前後までいった時、再び戻って桐壷の巻の他部分「壷前栽」を加筆した。現在の桐壷の巻は、執筆時期の異なる二つの部分から形成されており、青柳、武田両氏の説はある意味で正しく、ある意味では、誤りなのである。詳論は、別稿で論ずる積もりである。

3 「隠ろへごと」論との相違ー物語Aの制作次元

 物語Aは、源典侍物語の内では最も多くの人に論及せられているところで、他の巻との関係で、その制作次元が考えられている。それ等の説は、物語Aを後期挿入として位置付けてはおらず、又源典侍物語全体をふまえて考察していないので、本論と異なるところが生じている。しかしながら、源典侍物語を「隠ろへごと」として捉える源典侍論(7) は示唆に富むものであり、今後の源典侍論を発展さすため、後期挿入の立場から、その相違を述べておく。
 物語Aは、源氏の容姿を引き立てる役に登場しているにすぎないそれまでの頭の中将が、源氏に拮抗する姿勢となり「いどみ」合いが語られるという点で末摘花と最も類似した様相をみせている。又、源氏の容姿についての礼賛もなく、登場する主役の女性という点でも一方は、老女房であり、他方は零落の醜い女君である。若紫、紅葉賀の巻に登場する本筋の女主人公との相違がはなはだしく、空蝉や夕顔に近いとすれば、空蝉・夕顔・末摘花・源典侍の物語を同系列に位置付けることも可能であろう。しかし、物語Aが紅葉賀の巻と同一制作次元と考えられないとすると、事情が違ってくる。巻毎の制作次元を考えるのでは処理しきれない面が生じるので、巻に制約されない制作次元をも考えねばならなくなる。そこでは帚木、空蝉、夕顔、末摘花の巻々という考え方のみではなく、空蝉、夕顔、末摘花、源典侍の四つの物語としてとらえ、源典侍物語と他の物語との間の相違について考えておく必要がある。
 空蝉は、帚木、空蝉、夕顔、末摘花、関屋の各巻に登場し初音に続く。夕顔は夕顔の巻で亡くなっても末摘花巻、玉鬘との関係で玉鬘十帖へ続く。末摘花は、蓬生、玉鬘、初音、行幸、若菜上の各巻と続く。源典侍は、紅葉賀、葵、朝顔の巻に登場する。以上の如く、空蝉、夕顔、末摘花は、玉鬘系のみの巻々に登場し、源典侍は紫上系の巻にのみ登場するという違いがある。そして、源典侍ものがたりは、他の三つの物語(空蝉、夕顔、末摘花)になんの影響も与えないのみならず、紫上系物語である若紫、桐壷物語にも全く無関係で進行する。しかしながら物語には若紫(物語Bー葵(十五))や末摘花(物語Cー葵(四十))が語られており紫上系、玉鬘系両方の話を含むのである。
 このことから源典侍物語の執筆の時期を紫上系、玉鬘系との中間、玉鬘系の物語の執筆時期と考えると、それぞれそれ以後の物語に影響し、かつ同時期の物語を含むのが常識であるから、源典侍物語A、B、C、が紫上系からも玉鬘系からも独立であることはありえない。源典侍物語A、B、C、は、玉鬘系と考えられている、末摘花を含み、玉鬘系物語に影響を与えないということで、玉鬘系物語のあとに後期挿入せられたと考えられる。当然、紫上系物語にとっても後期挿入であるから、何等の影響も与えないことも理解される。ただここで、源典侍物語が朝顔の巻まででそれ以後におよばないのは、後期挿入の時期があとになればなるほど、挿入に困難が生じ、物語に是非必要とされるもの以外は、ある範囲内で物語を終らせざるを得ないからであろう。考えても、源典侍物語は、「隠ろへごと」程度の体験を源氏に賦与するのみで、源氏の物語としては枝葉末節と考えられるのである。
 では「隠ろへごと」(7) としては、源典侍と末摘花との物語に相違はないであろうか。両方の「隠ろへごと」をなんとか捉えた頭の中将の感懐と源氏の叙述を比較すると、源典侍の場合、頭中将は、「この君(源氏)のいたうまめだち過ぐして、常に(頭中将)もどき給ふが妬きを、つれなくて、うちうち忍び給ふ方々多かめるを、いかで見あらはさむとのみ思ひわたるに、これを見つけたる心地、いとうれし。」という。末摘花の場合は、頭中将が源氏に「もろともに大内山を出でつれど」と詠みかけたりし、それを源氏は、「かうのみ見つけらるるを、ねたし」と思うというように叙述してある。であるから、その相違を問題としないときには「こうした末摘花の巻の一部分がすでに書かれていたとするなら老典侍挿話の中の、頭の中将の感懐のことばは、まったく意味をなさない。前後矛盾のさまを露呈していることになるだろう。」(7) そして、老典侍挿話は、末摘花の巻の書かれる以前には既に制作されていたものと想定される(7) のだが、はたしてそうであろうか詳細に検討しよう(表4)。

表4「隠ろへごと」相互比較「睦れ」と「挑み」

    末 摘 花(睦れ) 源 典 侍(挑み)
情事の意志と
行為
源 氏
 
相 手
意志(少し有)  行為(無)
 
意志(無)    行為(無)
意志(有)    行為(有?)
 
意志(多有)   行為(有?)
三人の居場所
   と行動
源 氏
相 手
 
頭中将
命婦の局 →→→↓
寝 殿    →同乗帰宅
 
寝殿の透垣→→→↑
局→→↓
局 →局にて添い寝→騒動
 
局近く→→→→→→→↑









発覚前 源 氏
 
頭中将
 
 
 
 
ただならで、……あとにつきて
 
  暴露の意図(無)
見つけられむことははづかしければ
 
いかで見あらはさむ
懲りぬやといはむ
  暴露の意図(有)
発覚時 源 氏
 
頭中将
ねたしと思せど
 
心も得ず思ひける
いと口惜しく
 
見つけたる心地、いとうれし
発覚後 源 氏
 
頭中将
 
すこしをかしうなりぬ
 
かう慕ひありかば
一つ車に乗りて
この帯をえざらましかば、と思す
などてかさしもあらむ
物隠しは懲りぬらむかし
さるべき折のおどしぐさにせむ

 末摘花の場合、頭中将に露見したのはただ源氏が末摘花邸にしのび居たということであって、源氏すら末摘花の琴の音をそば耳たてているだけで、「物やいひ寄らましと思せど、うちつけにや思さむと心はづかしくてやすらひ給ふ。」のである。「かうのみ見つけらるるをねたしと思せど、かの撫子は、え尋ね知らぬを」とは、かの撫子との対比から、肉体関係を持たなかったこの様な(かうのみ)ありさまを見つけられただけだったので、しのび行ったことだけを見つけられたのは「ねたし」だけれども、肉体関係のあるかの撫子、またはゆくえ不明のその娘のことを知られていないのは、頭中将との関係でも、もっけの幸いである。と源氏は思ったのである。
 頭中将としても「うちよりもろともに罷で給ひける、・・・・引き別れ給ひけるを、何方ならむとただならで、われも行く方あれど、あとにつきてうかがひけり。」であって、どこに行くのかと普段と違うので好奇心も手伝って頭中将としては行く先はあったのであるが、そっとあとをつけただけで、源氏の情事を執拗に詮索しているわけではない。そして「振り棄てさせ給へるつらさに・・・かう、慕ひありかば・・・」であって、決して源氏にいどみ合ってはいない。源氏の方でも頭の中将のその「つらさ」を言われても、「ねたけれど」であって、そんな頭の中将を見ていると、「すこしをかしうなりぬ。」である。つまり、源氏の方にも、融合する気持ちはあっても、挑み合いする気持ちは少しもみえない。跡をつけるとは「人のおもひよらぬことよ」と憎むのも本当の憎悪の感情ではないことも素直に読めば、理解されるのである。そのあとも、頭の中将と「ひとつ車に乗りて・・・笛吹き合はせて大殿に」仲良く帰ってゆくのである。
 それに反し、源典侍との場面ではその初めから、頭中将は、「この君の、いたうまめだち過ぐして、常にもどき給ふが妬きを、つれなくて、うちうち忍び給ふ方々多かめるを、いかで見あらはさんとのみ思ひわたるに、」と、情事の暴露について意図的であり「これを見つけたる心地いとうれし。」と、やっと念願がかなったことを述べている。「少しおどし聞えて・・・懲りぬやと言」ってやろうという作意すらある。「やをら入り」来て、太刀まわりのあと、源氏は、「いと口惜しく、見つけられぬること」と思いつつ臥すのであって、翌朝のやりとりも、頭中将から送られて来た、その夜の証拠品も「いかで取りつらむと心やまし」くであって源典侍から誤って返された「この帯を得ざらましかば、と」、頭中将との「挑み合い」が如実に表わされている。
 そのことは源典侍物語の最後の節で、「やむごとなき御腹々の親王たちだに、上の御もてなしのこよなきに、わづらはしがりて、いとことにさり聞え給へるを、この中将は、さらにおし消たれ聞えじ、と、はかなき事につけても、思ひ挑み聞え給ふ。この君一人ぞ、姫君の、御一腹なりける。帝の御子といふばかりにこそあれ、われも同じ大臣と聞ゆれど、御おぼえ殊なるが、皇女腹にてまたなくかしづかれたるは、何ばかり劣るべき際と覚え給はぬなるべし。人がらもあるべき限り整ひて、何事もあらまほしく、足らひてぞものし給ひける。この御中どものいどみこそあやしかりしか。されどうるさくてなむ。」と紫式部はまとめあげているのである。(表4)
 以上、総括すると末摘花では、肉体関係が発生・発覚せず、源氏に対し頭の中将は、睦れの関係であり、源典侍では、肉体関係が発覚し、源氏に対し、頭の中将は、挑みの関係となっている。
 この事は、物語Aと帚木の巻との制作次元を考える際、やはり注意する必要がある。「宮腹の中将は、中に親しく(源氏に)馴れ聞え給ひて、遊戯をも、人よりは心安く、なれなれしくふるまひたり。」も「夜昼、学問をも、遊びをも(源氏と)もろともにして、をさをさ立ち後れず、何処にてもまつはれ聞え給ふ程に、自ら、かしこまりもえおかず、心の中に思ふ事をも隠しあへずなむ、睦れ聞え給ひける。」(帚木〔四〕)も、末摘花で示されている源氏と頭の中将との関係と等しく、睦れの関係であって物語Aで示された挑みの関係ではない。頭の中将は、従来指摘されている如く、源氏の容姿、風貌、才能のすばらしさを強調するための端役、引立てるための小道具役から、主要人物として、その筋や構成に対して積極的に働きかける位置をとる人物へと、格上げされるのであるが、主要人物として描かれる場合も、源氏との関係ですぐには対等とはならず、一旦睦れの関係に移行し、さらに挑みの関係ー対等自立へと変化していったと考えられるのである。
 とすれば、帚木〔四〕と物語A(紅葉賀〔十六〕)との、頭の中将紹介は、重複するものとは考えられず、帚木〔四〕以前に物語Aが書かれたとする根拠はなく、頭の中将の役割変化からすれば、帚木〔四〕は、端役から睦れの関係への変化であり、紅葉賀〔十六〕は、睦れの関係から挑みの関係への変化を意図したものであり、両者はあいまって、端役→睦れ→挑みへの変化を十全に説明するものである。帚木〔四〕の紹介よりも物語Aでの紹介が詳細となるのも、以前の役割を取り除き、かつ、新たな役割賦与のためそれだけ叙述が多くなるためである。
 以上の如くで、源典侍挿話(物語A)は、帚木、夕顔、末摘花の系列には属さず、この制作次元は単なる「隠ろへごと」としてとらえる説とは異なり、帚木の巻以後さらに末摘花の巻以後に書かれたとせざるを得ない。

4.葵の巻の巻名由来ー後期挿入の技法

 現在の巻名である葵は、「はかなしや人のかざせるあふひゆゑ神のゆるしの今日を待ちける」「かざしける心ぞあだに思ほゆる八十氏人になべてあふひを」の歌から採ったとされているから、物語Bが葵の巻に後期挿入されたとすると源氏と源典侍との和歌の贈答の部分は、それ以前の葵の巻には存在しないことになる。とするとこの巻の命名は加筆挿入後におこなわれたと考えねばならなくなる。加筆後の命名とすれば、加筆挿入前の葵の巻(前葵の巻と呼ぶ)は、命名されていたか否か、命名されていてとしたら、前葵の巻名と葵の巻名とは、異なったものと考える方が良いのか、それとも同一と推測されるのか。流布から命名までの期間が、流布から後期挿入までの期間より短いとすれば、既に前葵の巻名は周知の事実であり、作者も当然知っている可能性が高くなる。とすれば後期挿入時に於て、その巻名は、後期挿入する筆者に如何なる影響を与えたであろうか。
 現在の源氏物語の巻名は、作者である紫式部自身がつけたのではなく、読者の間でいつの間にかつけられたとされる(脚注2) 。執筆単位が一巻ごとであり、現在の巻序通りに流布したものとすれば、流布から巻名の定着までの期間を問題にすることは、何ら重要な意味をもたない。更に、巻名の由来についても、現在通説となっている巻の中にあらわれた語や歌の句に拠ったとする説で何ら支障はない。しかしながら、源典侍物語の様な後期挿入に於いては、新たな視点で巻名の由来や、後期挿入時挿入前の巻が如何なる名称で呼ばれていたかを考察する必要が生まれて来る。後期挿入に於いてはどうしても、筋の展開から、不自然さが生ずるので、できる限りその不自然さを減少させる必要性があるのである。その為の手段があるとすれば、出来る限り採ったと考えられるし、又いかなる方法があったのかを知っておくことは、後期挿入の部分を見出すのに有効であることは論を待たない。
 現在に於いても巻名は、象徴的な命名が主であり、端的にその巻の内容を説明はしていない。巻の本文中に現在の巻名が存在しなくても、その巻を象徴する巻名がつけられているのは、たとえば、若紫が紫ゆかりの若草を意味することで明らかであろう。周知の如く、紫とは藤壷のことであり決して紫の上のことではない。若い時代の紫の上の物語であるという内容説明を示すのではなく、藤壷に似た姫君としての紫の上を象徴するのである。この言葉は、寛弘五年十一月の式部日記中に「あなかしこ、このわたりにわかむらさきやさぶらふ」と公任のことばとして記されている。少なくとも、寛弘五年までには命名されていたと考えて誤りはないであろう。そして若紫、紅葉賀、花宴 (脚注3) 前葵の巻と続くのであるから、前葵の巻の巻名も若紫の巻の命名とあまり時を経だたずして付けられていたと思われる。このとき、紫式部が、源氏物語執筆途中であったろうか。
 周知のごとく、島津久基氏(10) は「夕顔の君が式部日記に出て来る小少将をモデルとしたものであり、夕顔が物の化に襲われて死ぬ場面は、寛弘五年十二月晦日の条に見える引剥事件の実感を素材としたものでなかろうか」と述べている、事実の描写が先行して物語がこれを素材として文学化したと考えられ、夕顔の巻は寛弘六年以降の頃執筆となるはずである。さらに実在のモデルが死亡する以前に夕顔の巻の内で死亡させることは、小少将との関係から考えられないため、紫式部日記最後の寛弘七年一月十五日の頃に小少将が登場しているから、夕顔の巻はそれ以降に執筆されたとされる。とすると紫式部は源氏物語執筆途上でそれ以前の巻の巻名を見聞きしていたことになる。前葵の巻の巻名が寛公五年の頃とすれば物語Bの挿入時期はそれ以前と考えられるのか、それともそれ以後かを次に考えてみよう。
 末摘花の巻は、青柳、武田両説を採っても夕顔の巻以後であり、更に物語Cは、末摘花を思わす記述から末摘花以降に執筆されたと考えられる。物語A,B,Cは源典侍の好色戯画化を目的としているから、物語A,BはCとあまり違わない時期に書かれたと考えて良いであろう。とすれば、若紫の命名が行われた寛弘五年以後、物語Bを執筆するまでには、2〜3年の期間があったと考えられる。つまり、紫式部は、物語Bを後期挿入する時、前葵の巻の巻名を知っていたと結論して良いであろう。
 では前葵の巻はいかに呼ばれたと推測されるであろうか。物語Bは、物語Cを含めても葵の巻に占める本文の量は48頁中、わずか2頁であり、物語B,Cを取り除いても、この巻の内容に少しの不都合も生じえない。大殿の御女が妊娠中に祭見物がもとで六条御息所と車争いとなり、それがもとで物の怪騒動に発展し、遂には夕霧を生んで間もなく取り殺されてしまう、という筋を中心とし展開されることには変わりがない。
 とすれば、前葵の巻においても象徴され付けられる巻名も、現在の「葵」の巻名と同一となるのではないだろうか。それとも源典侍との和歌の贈答中にある「あふひ」がなければ巻名は付けられなかったであろうか。答えは否である。かの大殿の御女が亡くなったのは賀茂祭の際の車争いが原因である。賀茂の祭が賀茂葵ということで、葵祭と同一であるから「葵」という言葉は、容易に導かれてくる。
 そればかりではない。「葵」という巻名は、単に和歌の「あふひ」から採られたとするよりも葵祭の「葵」から由来すると考えた方がより象徴的に巻を言い表わしていると考えられる。和歌中の「あふひ」は「逢う」とかけてあるのであるから、これより巻名が由来したとすると、現在の葵巻は、「逢う」ことを象徴していることとなる。巻全体としては死も含めて「別れ」であって、肉体関係の生臭さが漂うという感触ではない。葵祭の「葵」であるとすれば、それは、はなやかな祭のイメージとは対照的に物語中の車争い、ひいては物の怪、そして大殿の姫君の死、源氏との悲しい「別れ」が象徴的に導かれるのである。
 紫式部は、前葵の巻が「葵」と呼ばれていることを知っていて後期挿入時、和歌の内に「葵」とかけた男女の「あふひ」を使用したと推測されるが、それでは何故、巻名の、祭、植物、の「葵」と男女の「あふひ」とをかけたのであろうか。通常では植物の「葵」と「あふひ」のかけ言葉と解釈されているが、それのみでは不充分であり、巻名の「葵」ともかけたことを認識することによって始めて、紫式部の技法が一段と明確となるのである。三重・四重のかけ言葉は、前葵の巻を象徴する名称、後期挿入の中にある言語、葵の巻の名称が同一の「あふひ」という共通項によって一体感が生じ物語Bの後期挿入の違和感を減じる役割を担っているのである。すでに巻名が葵となっていたので、挿入部分(物語B)に「あふひ」という文字を使用することにより以前からその場所に挿入部分が存在していたかのように見せる紫式部の工夫を考えるべきなのである。