5.執筆の時期ー後期挿入の意図ー

 前項までに考察した如く、桐壷の巻に書いた三代に仕えた内侍を、朝顔の巻では尼になった祖母おとゞと発展させ、更に好色性のある年いたう老いたる内侍として、紅葉賀に別に登場させ、葵の巻でそれを祖母おとどして、源典侍を完結させた紫式部の意図は如何なるものであったのか、物語Bの挿入時、後期挿入の不自然さを減少さす工夫さえ行った紫式部が、この源典侍物語を執筆し、加筆挿入するに際して、いかなる意図も持たなかったとは考えにくい。何等かの意図が働いていたことが推測される。そしてその意図とはいかなるものであったのかを次に明らかにしてゆこう。
 それには先ず、源典侍という名称が物語D中に登場する不自然さを考えることから始める。葵の巻名での考察でも示された如く、紫式部の聡明さからすれば、決して源典侍なる名称が不必要にも付加されたものであるとは考えられない。源氏物語の他の巻でも、役職名に具体的に氏名をつけ呼んでいる人物は少ない。少数の例として、籘典侍の場合もあるが、惟光の娘であるという出自は、はっきりしているから、現実のモデルがあったとしても直接的には同一視されない。かつ五節として夕霧にみそめられているのであるから登場人物として悪い印象は持たれないのである。主要人物ですら、頭の中将であり、藤原の中将ではない。大殿であって、氏名はたとえ藤原氏と考えられても、はっきりさせていないのである。
 この点から、源典侍と言う名称を使用したことについては、端役である故にさらに唐突さが増す。更に物語Dから、源典侍なる名称を除けば、源典侍物語ではなくて、年いたう老いたる内侍の物語となって、特定人物を指さず、一般的な物語となる。とすれば、源典侍なる名称を使用したことは、年いたう老いたる内侍とか祖母おとどの物語を執筆したのではなくて、源典侍の物語として順次書き加え改変して現在の物語とした紫式部のある意図が働いていたとせざるを得ない。とすれば源典侍像の変貌を見直して見る必要が生ずる。
 三代に宮仕えした内侍は桐壷の巻では、藤壷のことを奏上し桐壷帝に喜ばれたであろうし、源氏にとっても、祖母代りを勤めたと考えられ、決して嫌われたり邪魔もの扱いにはされていない。積極的な評価こそされ、読者に与えるイメージは良いものであったはずである。しかるに祖母おとどへと変遷するにあたっては、年齢をとりすぎ舌付きも悪くなった上に、源氏の恋路に水をさす役割となっている。つまり、長い間の宮仕えに対する嫌味を付加されている上に、本人自身が、状況判断も充分に行い得ない人物として表現されている。物語Dには源典侍のイメージにとって決してプラスではなく、マイナスのイメージを付加する意味が存在するのである。次の物語Aでは、好色老女という更にひどいイメージが付加される。そして物語Bでは好色茶番劇のあとですら「逢う」ことに未練を述べる人物とされてしまうのである。しかしながら、物語A→Bへのイメージダウンは、好色性という点からは同じであり、人物像の変遷としてはあまり意味ある変化ではない。物語CはBとなんら変化していない。
 源典侍物語は以上の如く、三代に宮仕えした内侍→祖母おとど→年いたう老いたる内侍と変遷することにより、大きく考えて2度、イメージダウンさせられるのである。このことは、実際の源典侍の動向といかに結びつけて考えれば良いのであろうか。
 角田文衛氏によれば、「源典侍とは、源明子のことであり、右大弁藤原説孝(紫式部の亡夫の兄)の妻であ」り「寛弘四年五月に辞表を出してゐる。」しかし「この時は慰留されなほ暫くその職にとゞまってゐたやうである。たゞ彼女に替わったのが同じく源氏の『源典侍』であるため、いつ明子が辞職したかが日記などから究明できない。」(4)
 又、紫式部が、初宮仕えすることによって、源典侍の夫の説孝は、寛弘二年十二月以来一年間参内を停止せられていたが、放還せられて、参内を許され、右大弁としての事務をとっている。紫式部の宮仕え自体、源氏物語とは無関係ではない筈であるから、夫との関係からも源典侍にとっては当時の後宮サロンにいる人々以上に源氏物語の存在を気にしなければならなかった筈である。
 その様な状況で、源典侍物語Dが書かれたとすると、長い間の宮仕えに対する嫌味を言われ、又本人自身が状況判断すら充分に行なえない人物であると誹謗されたにも等しく写るであろう。宣孝の兄であるから、既に年齢も五十代を越えており、源典侍も当然それなりの年齢に達していたであろう。とすればそのままの宮仕えを続けることは不可能となったであろう。彼女は、当然、道長に辞表を提出したと考えられるのである。辞表提出は、寛弘四年五月であるから、その契機となったと考えられる。物語Dは、少なくともこの時期より、ほんの僅か前に書かれたと推定される。
 そして、(1)源典侍は道長に慰留され、その職に留まっていたが、再度源氏物語の中に於いて(2)好色な老女として更に変貌させられ、(3)源典侍のイメージダウンが行われた。誰が考えても、あの様に好色戯画化されればその職に留まることは不可能である。辞表を提出し、受理されて辞職するという一般的な手続きすら行い得ず、出仕もできないまま退職していかざるを得なかったであろう。最終的には源典侍が辞職するという形で決着がついたであろうから源氏物語の源典侍物語も終焉したと考えられるのである。
 著者の説以外の執筆順序・時期を考えてみると、(イ)現在の巻序通り執筆されたとしても、(ロ)青柳・武田両説に立っても、A→B→C→Dの順に書かれたとされる。執筆の時期については青柳説からすると紅葉賀、葵の両巻は若紫グループに属するから、物語A,B,Cの執筆された時期は宣孝の死ぬ前で当然宮仕前となる。物語Dについては、宣孝の死後であるが、宮仕前か否かは定かでない。又、武田説においては全て紫の上系に属するから、物語A,B,C,Dは、宮仕前に書かれたということになる。
 とすると、現在の源氏物語が、宮仕え前に完成したとする説にしろ、少なくとも紅葉賀の巻までは、完成していたとするにしろ、青柳・武田説のごとく、宮仕え前に物語A,B,Cが書かれたことになるので、紫式部は、未だ宮仕えもせぬうちに、兄嫁の源内侍を辞職にまで追いやることを意図してこの物語を執筆したということになってしまう。
 何故なら意図せず不運にも源典侍の辞職ということにまで発展してしまったとしたら、物語Aは源氏物語の始めの方であるから後の物語B,C,Dでその好色戯画化を修正して、紫式部自身が、不注意により侵した兄嫁に対する名誉棄損を自ら取り除いてもよいはずである。が、作者であれば充分可能であったにもかかわらず、修正は行わなかったことになる。とすれば紫式部のとった行為あまりにもあこぎすぎるのではないだろうか。この点からも、著者の説の方が理解しやすい。又たとえその意図があったとしても、現行源氏物語で書き始めからわずか七巻目にして宮中にまで影響力を持つまでの源氏物語になっていたのであろうか。武田説では三巻目で青柳説では二巻目で、即ち源氏物語のその書き始めから有名になってしまい、その上絶大なる筆害を持っていたことになってしまうのである。
 又、宮仕え後に源明子(兄嫁)といさかいが生じ、それがもとで源氏物語上で、戯画化し、もののはずみから辞職まで至ってしまったと仮定して考えると、当然、物語Aは宮仕え後の執筆とせざるを得ない。となると青柳説も、武田説も成り立ち得ず現行の源氏物語が殆ど全て宮仕え後に執筆されたということことになる。この点からも著者の説の方が納得しやすい。
 物語Dで源典侍の辞表提出を行わせた上に、道長に慰留されれば、更に追い討ちをかけるが如く物語Aを加筆挿入し、遂には辞職までに至らしめた紫式部と、説孝および源典侍には一体如何なる確執があったのであろうか。現在迄のところ、それを明らかにするところ迄は、研究は進んでいない。「男子にてもたらぬこそ幸なかりけり」と紫式部に歎いた父為時のこの時の仕官の問題を見てみる。
 花山天皇の時になると、為時は四十歳(984年)近くの年齢ながら式部丞・蔵人に補され、その時、「遅れても咲くべき花は咲きにけり 身を限りとも思ひけるかな」と詠んだ。(985年)しかし、喜びもつかの間、翌986年には劇的な花山天皇の退位とともに、為時はたちまちその官職を失ってしまう。そして、「往時情を傷ましめ、覚むれども眠るに似たり、繁木は昔より開く摧け折るること早く、不才無益なるものは性霊虚し」と詠み自嘲に深い実感がこめられている。(987年)
 これ以後十年間も散位に捨ておかれた。再び職を得て越前守となったのは、長徳二年(996年)正月のことで、それもはじめ下国の淡路守に任じられたのを不満で、申し文を天皇に奉って訴えたのちの格上げである。
 長保三年(1001年)帰京後は、再び官職なく浪々の身であった。その間のことを、彼は次ぎのような律詩で述懐している。

  門閑無謁客
「家旧門閑只長蓬 時無謁客事条空  公去尉塵長息  氏安貧宵不遍・・・」

  春日同賦閑居唯友詩
「閑居希有故人尋 益友以詩興味深・・・・」

 まさに平安時代の宮仕え人の境遇と心境を言い表わしているではないか。(11)
 さて、紫式部は、寛弘二年十二月末に、命婦として宮中に参内、弟の惟規はその功で寛弘四年正月には蔵人に補されている。彼女の初宮仕えと式部の親族の仕官は無関係ではなかった。が自らの肉親の地位は紫式部にとっては充分なものではなかった。
 人づきあいの煩わしさを厭い、あらゆる雑務を避けて自己の殻に閉じこもりがちな紫式部が、盗賊が侵入した際、「『殿上に、兵部の丞という蔵人呼べ呼べ』と恥もわすれて口づからいひたれば、たづねけれど、まかでにけり、つらきことかぎりなし。」(紫式部日記)と猛然と起こって殿中を奔走し、自分の弟惟規に、盗賊追補の功名を立てさせ、自家の栄達を願ったにもかかわらず、不在であったことを歎いているのであるから、紫式部にとって弟惟規の地位は不満足なものであったと推測される。
 義兄嫁は典侍、義兄は右大弁として道長の事務をとっている。義兄ですら、自らの源氏物語を介して参内を許されたのに、父は無官、兄は低い身分とは。潜在意識が紫式部の筆を滑らせた。「源典侍」と実名を入れてしまった。寛弘四年のころであろう。源典侍は一旦辞表を出す。そして寛弘五年三月父為時は蔵人左少弁に任ぜられる。
 さらに、寛弘五年十月敦成親王家家司の人事が発表された時、紫式部の実家からは、極めて遠い親戚が一人加えられたのみで彼女が最も期待していた弟惟規の名は見えなかった。「かねてもきかで、ねたきことおほかり」と無念の思いをこめて書き残している。さて「かねてもきかで」とは誰から聞くのであろうか。やはり説孝であろう。説孝はその情報すら流さなかった。ねたきことは、源典侍物語Aを書くことにより鬱積を減少し、七十歳に近い為時は、左少弁から再び越後守に転じられた。しかし惟規にまでは及び得なかった。
 世渡りの下手な父為時と甲斐性のない弟惟規とに一家を任せておけないという家門に対する過剰というべき責任感を読み取るのである。少女時代からたびたび耳にした「口惜しう、男子にて持たらぬこそ幸なかりけれ」という父の愚痴嘆息は、強い軛となって、彼女の生涯を束縛したのである。
 源氏物語と紫式部日記とは紫式部を介してまさに一体のものであるはずであり、この論で部分的には証明ができたものと思う。とにもかくにも紫式部は、自分の作品である源氏物語を使って、一度ならず二度迄も自分の意図を全うしようとしたのである。
 序論で述べた如く、源氏物語全体から紫式部像の骨組みを作るべきであるが、後期挿入説は、未だ源氏物語全体を覆っていない。ここでは、源典侍物語との関係での考察であって、全体に及ぼせるか否かは、定かではないが、後期挿入という執筆方法の持つ異常性とこの意図はまさに軌を一にするものと考えられるのである。