父より早く越前より帰京した理由とその行為から導かれるものは何か

 

1、はじめに

 長徳二年、父藤原為時が越前国守として赴任するとき、式部も同行し、二年にも満たないうちに一人で帰京したことは周知であるが、その理由について深く考察されたものは殆どない。式部帰京の前後について記述されたものを年代順に列挙すると以下の如くである。
1.「家集によれば、為時の任地、越前にも行っている。越前に何年いたか、明らかでない。帰京後、二十四、五歳であろうか、右衛門佐なる藤原宣孝に嫁いだ。」(旧・日本古典文学大系:源氏物語解説 昭和33年)
2.「・・・すでに老境に踏み込んでいて、おそらく妻を伴っていなかったと思われる父の身辺の世話をすることが、二十四歳の娘の仕事の一つであったのだろうと思われるが、やりきれなくなったのでもあろう、父に先立って帰京した。・・・いわれているように、もし急に帰京することにでもなったのであるならば、それは藤原宣孝との結婚問題がからんでいたのかもしれない」(旧・日本古典文学全集:源氏物語解説 昭和45年)
3.「優しく、田舎の生活に誇りを持ち、敬虔にもなって帰ってゆく彼女にはきっと幸福な生活が待っていたのであろう。宣孝との結婚のために単身帰京したのだとする諸家の説に私も従いたい。・・・それにしても、父の許を離れて一人旅を決意するところに、なみなみの娘には見られぬ勁さと行動力と、この結婚に寄せる彼女の期待の大きさが知られるのである。」(紫式部・岩波新書:清水好子著 昭和48年)
4.「越前国へ下国した式部は、在京中から求愛されていた宣孝と結婚するために、長徳四年春、父の任期満了を待たずに帰京した。」(新・日本古典文学全集:源氏物語解説 平成6年)
5.「為時の越前守赴任に式部も同行した。・・・この同行は老齢となった父の身辺の世話のためとみられるが、式部がいまだに独身を続けるのは、母親不在の家庭にあってしだいに主婦がわりになったためかもしれない。・・・・長徳四年春、式部はにわかに父をおいて、単身帰京した。結婚を決意したからである。」(源氏物語ハンドブック三省堂 鈴木日出男編 平成10年)
6.「私は父と共に越前に下ることになった。母も姉もおらず、父の世話をするのは私一人だからだ。・・・・(中略)宣孝との結婚のため、私は京の自宅に戻った。結婚は長徳四年の春だった。」(私が源氏物語を書いたわけ:山本淳子著 角川学芸出版 平成23年)
 ざっと並べてみたが、1.2.については殆ど説明がなく、その他は、殆どが下国の理由は父の世話のためで、帰京は結婚のためであるとの説である。3.はあまりにも式部の本当の心情からはかけ離れている。式部は宣孝との結婚に「期待の大きさ」があったのであろうか?はなはだ疑問である。4.5.6とも宣孝と結婚のためとしている。為時の漢籍の能力について多くは言及しているが、任地での活躍とは結び付けていない。父の世話がメインの理由とされるなら、急に帰京したのはの世話が嫌になったのか?それほど父を思うならば、もっと高齢になってからの越後への赴任の時、ついて行くのではないか?などと新たに疑問が生じる。
 「宣孝から寄せられた熱心な求婚の歌文は、北国のわびしい風土で弧愁をかみしめる式部の心を揺さぶったにちがいない。」(鈴木日出男)とあるが式部歌集のどの歌が式部を揺さぶったのだろうか?式部からの返歌のほとんどが宣孝のからかいに対して冷たく拒否しているようにしか読めない。最初は嫌悪していた宣孝とどうして結婚する気になったのかの理由は十分には述べられていない。 諸説が認めるように、式部の越前への離京は当時として異例であった。
その異例を1.離京に際して 2.宋人との漢詩のやり取り 3.突然の帰京 4.心変わりの結婚について列挙し、それらを全体的に説明できる解釈を構築する必要がある。
実際のところは、式部を心配した父為時が式部に同行をうながし、式部はもまた老父を心配するとともに宋人への興味から同行したのであろう。だが何故急いで帰京したのか?その理由こそが尤も重要なことである。家族と共に赴任した越前から一人で帰京した異常さは彼女の深層心理を洞察することによりはじめて明確に納得のいくものとなる。

2、為時が越前へ赴任した経緯

 式部の父藤原為時は、花山天皇が皇太子時代、御書始め(977)の副侍読を務めるほど著名な漢学者であったが、天皇になってわずか2年(984〜986)で退位したため、寛和2年(986年)官職を離れ、その後十年ほど官職には付けなかった。長徳2年(996年)の除目でようやく官職に就いたが、それが淡路守だったため切々とその憂いを漢詩にしたため奏上した。『古事談』によれば、その時の漢詩が優れていたため、一条天皇が感心し、為時が越前の国司に振り替えられたという。
「古事談」巻一-二十六より
 「一条天皇の時代、源国盛が越前守に任ぜられた。その時に藤原為時は女房にことづけて漢詩を献上した。その詩には『苦学寒夜、紅涙霑襟、除目後朝、蒼天在眼』(寒さに耐えて学問をする冬の夜、涙は血となって袖を濡らした。除目に不首尾だった春の朝、天は青々として我が目に染みた)とあった。天皇はこれをご覧になり、お食事も召し上がらず、寝所にお入りになり、涙を流してお泣きになり、臥してしまわれた。道長殿が参内して天皇のご様子がこのようであることを知り、すぐに源国盛を召し出して越前国守の辞表を書かせ、為時を越前国守とした。源国盛の家中は皆声をあげて泣いた。国盛はこれにより病にかかり、秋に播磨守に任じられたが、病は癒えず、遂にこの病によってお亡くなりになられた」
今昔物語集巻二十四-第三十にも少しニュアンスは異なるが同様のことが記されている。
また『権記』や『小右記』によれば、前年の長徳元年(995年)9月に若狭に宋の商人朱仁聡が来着する事件が起こり、その後若狭や越前に逗留している事から、その交渉相手として漢文の才を持つ為時が選ばれたとも言われている。 越前への離京については、田舎に行くのは全ての女性に抵抗感があったはず。紫式部の年齢から結婚適齢期を大幅に過ぎているのに結婚相手を探せない越前の田舎に父親が連れて行ったか、式部は何故OKしたか。 「婚期のかなり遅れた娘をさらに四年という長い任期の間、田舎に連れて行く為時の真意もやや解しかねる。普通ならば、近くにいて仲も良い兄の為頼にでも式部の世話を頼んで娘を京に残しておき、的綱結婚相手を一日も早く見つけられるようにしておくところだろう。」「何か別に式部に離京を決心させる積極的な理由もあったのではないだろうか」(今井源衛)
さらには、為時には式部の亡母とは別に通い妻も子供たちもいる。生活のお世話なら無理に式部を同伴する理由など見つからない。
 負の理由として「何か彼女の一身上に都に居づらい思いをさせる原因」として「何らかの男性との交渉が当時破綻しつつあったのでは」と察することも可能だが、それには式部が男女関係に重きをおいていた根拠を示さなければ邪推に過ぎない。式部集からすれば宣孝を冷たく拒絶しているのは式部のほうであり、他に男性とのやり取りはない。破綻ではなく煩わしい宣孝との交渉を打ち切る意味で都を離れるのなら筋が通っている。
 今井源衛氏は前段で「式部も離京をむしろさわやかに受入れているらしい」と述べている。「さわやかに」であるから正の理由を探すべきであろう。
 承元2年977年式部8歳、父為時文書生ながら東宮読書初めの儀に副侍読という晴れの役を勤めた。時の東宮師貞親王の世話役義懐、東宮亮の藤原惟成、そして一条大納言為光、さらには具平親王の邸にも出入りしていたらしく、親王周辺の文人であった。華々しい中にあって式部14歳、永観2年8月、東宮が即位して花山天皇となると同時に式部丞・蔵人に補任、10月には式部大丞に昇進。翌年の春、彼の上官の蔵人少弁の道兼の栗田邸の宴で
 遅れても咲くべき花はさきにけり身を限りとも思ひけるかな
と詠んでいる。式部にとって父為時の華々しい姿を目に焼き付けたであろう。
 不幸にして花山天皇の退位とともに、たちまち官位を失ったが。父ほどの漢籍の素養を持ちながら以後十年の散位に捨て置かれていた。紫式部も長きに渡りやきもきしたが、長徳2年996年正月、淡路守が回ってきた。この時、父為時は本来の漢学の実力を示した。申文を天皇に奉って訴えた。かの有名な「苦学の寒夜は紅涙巾を・・・」の名文句入りの漢詩である。前回と違って周囲のお偉方の力を持って得た官位ではない。明らかに小国から大国への国守に昇進したのは彼自身の漢文力であった。式部の鬱積は晴れた。やっぱり漢籍は学ぶべき立身出世の武器であった。今や摂関家は良房系となってしまったが大国の守には成れた。そして今回は特別の任務がある。宋人との交渉相手として為時が漢文の才をもって選ばれているのである。
式部は、為時の漢文のレベルをいかなるに見ていたのであろうか?自分を教え、はるか先に行く父為時の実力をいかほどのものと見ていたのか、いや望んでいたのか?為時が式部丞に補任される2年前の天元5年982年丹波康頼は新しい形式の医学全書の編纂を開始して3年を経た永観2年984年中国医書200部を引用する『医心方全三十巻』を完成している。古くは空海の逸話も知っていたはずである。
長徳2年夏、為時は文章生である惟規を残し、父を誇りに思い宋人とのすばらしいやり取りを娘心に期待している紫式部を連れて越前に赴任した。

3、為時と宋人とのやりとり

 当時漂着した宋人は越前敦賀の松原駅付近に設けられていた「松原客館」に集められていた。岡一男氏の「源氏物語の基礎的研究」(第一・二部 東京堂 1954年)から引用すると

「潮流および地形の関係から敦賀湾をかかえた越前国では、沿岸の防備を固めることが特に要請されていた。そして越前国に関する限り、為時はその最高責任者であった。・・・
 『日本紀略』長徳元年九月条には、
六日己酉。若狭国言上。唐人七十余人、到著当国。可移越前国之由、有其定。と見えている。・・・また渡来した宋人たちの頭株は、朱仁聡と林庭幹であり、その中には才人の姜世昌なども混っていた。これらの宋客は、間もなく越前国に移され、かなり長期間滞在することとなった。彼らは、むろん、国府所在地の武生ではなく、敦賀の松原駅付近に設けられていた『松原客館』に滞留していたのである。『宋史』によると、朱仁聡以下は貿易商人であり、たまたま風に遭って日本に漂着したものらしかった。・・・・・・」
「可成当路の神経を悩してゐたが、為時は宋人と詩を献酬して、彼等の懐柔に務めたらしく、「今鏡」に依ると、
「去国三年弧館月、帰程万里片帆風」或は「画鼓雷奔天不雨 綵旗雲聳地生風」等の詩は越前在任中の作としてゐる。(中略)「本朝麗藻」に依ると、為時が大宋の客姜世昌に与へたといふことであるが(中略)。「本朝麗藻」の為時の原詩は、英語を覚えたての中学生が、始めて西洋人と会話したような、うひうひしさ、無邪気さのある詩だが、宋史には悪口を言って、「世昌以其国人唱和詩来上、詞甚雕刻膚浅無我取」と評してゐるのは気の毒である。」
 このときの宋史は後世の作であるから、式部がすぐに読みえないが、それよりもこの宋人とのやりとりの様子は直ぐに式部に伝わったはずである。幼きころから父に漢籍を教わり、皇太子の副侍読を務めるほどの人物として父の漢籍の能力を信じ、尊敬もしていたであろう。しかし、その尊敬は、実際の宋人の前にもろくも崩れ去った。こんなにも父の能力はたどたどしかったのか・・と。父は文章生であったのだから、貴族の一般教養以上だった筈であるが、宋人に笑われるような能力であった。

4、並はずれた空海の文才

 少し時代が遡るが式部の時代より200年前の遣唐使時代、三筆と言われるうちの空海と橘逸勢の漢籍に関するエピソードを見てみよう。当然、式部ほどの人物なら、空海のことは知っていたと思われる。
 ここで空海の漢籍の才能、文才を考察してみよう。加藤精一氏の「弘法大師空海伝」から引用し、要約すると
「密教経典に関する明快な理解を得るために中国に渡りたいという大師の念願は、朝廷の許可を得て、いよいよ実現することになった。延暦二十三年に入唐求法のための勅許が出たのである。大師は二十年問の予定で入唐する」
「当時の航海術は極めて幼稚で、風の様子をみて出港し、暴風に遇えば忽ち沈没したり引き返したりした。遣唐使にしても留学生たちも死を覚悟の渡航であった。大師が同行した遣唐大使は藤原葛野麻呂であり、延暦二十年八月に大使に任命され、二十二年に渡航を試みたが成功せず、翌二十三年送行の儀を朝廷から受け、四月十四日、難波津のはとばから船に乗り、十六日に出発している。」
「延暦二十三年七月六日、越前松浦郡田浦から四船が同時に出港した。しかし翌七日戌の刻(午後八時)暴風に遇い、第三船と第四船は「すでに火信に応ぜず」、「恐らく沈没してしまったのであろう。葛野麻呂と大師の乗った第一船も荒波にほんろうされ流され、三十四日の後に八月十日、中国の福州長県長渓県赤岸鎮の已南の海口に到着することができた。」
「しかし、意外なことに、福州に新しく観察使兼刺史として任命されていた閻済美は、葛野麻呂が日本国の遺唐大使であることを信用しようとしなかった。彼は再三にわたって書を差し出して事情を説明したのだが、天皇の親書を持っていないということで疑いを解かず、ついには船中を検査し、封印し、一行を下船させて砂上にいるように命じたのである。そこで葛野麻呂は、大師が文章にすぐれていることを知っていたので、書状の代筆を大師に依頼した。ここで大師は、大使葛野麻呂のために「福州の観察使に与うるの書」を作って示した。福州の役人はこの大師の書状を見て、すっかり態度を変え、笑顔をうかべながら直ちに船の封を解き、慰問の挨拶を述べ、更には、日本国の大使が来唐した旨の知らせを長安の都に奏上した。もちろんこの時に、大師の書状も添えられて唐の朝廷まで届けられたものと考えられる。これより長安へ向かって出発するまでの三十九日間は、福州から食糧などを給付され、借屋十三烟を作って住まわされ、観察使である閻済美は直接一同をおとずれ、かつ力使四人を支給してくれたのである。」
 つまり、遣唐大使である葛野麻呂が福州の観察使兼刺史に何度も書を出して、日本の天皇の使いであることを説明したのだが全く信用せず、罪人扱いでさえあったのを、空海が代筆した文書を差し出したとたんに観察使兼刺史の態度がガラッと変わり笑顔で慰問の挨拶を述べ、長安へ向かって出発するまでの三十九日間は、福州から食糧などを給付し、借屋十三烟を作って住まわせ、かつ力使(世話係)四人を支給してくれたのである。空海の書いた「福州の観察使に与ふるが為の書」が天皇の親書に相当するほどの価値を持っていたことは、如何に空海の文章能力が優れているかがわかるであろう。
 また、上田雄氏の「遣唐使全航海」(草思社 )からも空海の部分を引用すると、
「以上の空海の文によれば、漂着後、現地の官憲と意思が疎通せず、大使が福州の長官に送った文書はすべて握り潰され、不審船の漂着として、船は封印され、人は海浜の砂上に降ろされる、という酷い扱いを受けたらしい。このとき、大使は「切愁の今なり」と言って、空海に州の長官宛ての奏上文を代筆することを依頼し、空海がそれに応じて「福州の観察使に与うるが為の書」を起草。この文書を受けた観察使は、初めて外国の大使一行であることを認め、ころりと態度を変えて、仮屋十三軒を建てて一行を収容するとともに、長安の政府に報告書を送ってその指示を仰ぐ手だてをとったようである。
『御遺告』に記されたこのような経緯は、空海の偉業を讃えるため、相当に潤色されていると思われるが、第一船の往路の航海中に、一介の留学僧である空海の文才と能筆が大使にも知られるようになっており、それが漂着地での惨憺たる状況から救われる大きな力になったことを示している。」

   そのほかにも空海の文才と能筆を示す逸話を同じ「遣唐使全航海」から引用すると

 「『旧唐書』には「貞元二十年(804)使を遣わし来朝してきた。留学生 橘 逸勢、学問僧空海等が同行してきた」と記し、『新唐書』には「貞元年間の末年(804)に桓武という王が使者を遣わして朝貢してきた。学生橘逸勢、僧空海は、滞留して学業を修めることを願い、二十余年(二十余月の誤りと思われる)の歳月がたった」と記している。
 日本の天皇の名も年代も確かなので、この使節が唐朝に正式に認められていたことがわかるとともに、使節の名も記録されていないのに、多数の留学生、留学僧のなかで橘逸勢、と空海の名が両方の唐書に出ているので、彼らが現地で大変強い印象を与えたことがわかる。」
強い印象の程度は旧唐書や新唐書に彼等以外の人名が記されているかどうかを調べれば、その強さがいかほどのものだったかがわかるはずである。
 さらに引用すると
「今回の遣唐大使の藤原葛野麻呂は、長安滞在中に渤海国から宿衛(人質)として長安に滞留中の渤海国王子(のちの第八代の王、言義と思われる)の訪問を受けて会談している。
 この渤海国王子が大使を訪ねてきた目的は、十年前の延暦十四年(795)に日本に派遣された第十三回渤海使呂定琳の一行が、出羽国の夷地志理波村に漂着し、夷人に襲われて却略されたのに際して、日本政府が手厚く保護し、平安京に迎え入れて国賓として待遇し、その帰りには新船を建造し、送使御長真人広岳らを附して送還してくれたことに対する謝意を表明するためであった。そしてこの会談のお膳立てをしたのは、渤海国王子の随員であった文人外交官王孝廉と日本の遣唐使に随っていた留学僧空海であった。」

空海はこの襲撃事件の担当者ではありえないし関わりすらないはずである。にもかかわらず、お膳立てするにはそれなりの知識と意思疎通が充分計れる能力があったはずであり、その能力には驚嘆せざるを得ない。

「この会談がきわめて友好的で意義深いものであったことは、藤原葛野麻呂が滞在中にもう一度会いたいと希望していたものの、唐の監使の目が厳しくて実現しなかったので、空海に手紙を代筆させて、渤海国王子に届けさせたことによってわかるのである。
(中略)
 こうして、長安の都における偶然の出先外交は一度だけに留まり、大使の再会の希望は果たせなかったが、その代わりに空海が書信を代筆して送ったことにより、そしてその原文が『性霊集』に収録されていたからこそ、そのことが判明するのである。
 その後、この王子は帰国して渤海国の第八代言義王となるのであるが、彼が八一四年(弘仁五年)に派遣した遣日大使は文人外交官である王孝廉であった。」

 空海が、本来二十年は滞在しなければならない留学僧でありながら、何故二十余月で帰国の途につけたのかであるが、一つは当初四船で出発した遣唐使船のうち第一船(最澄乗船)と第二船(空海と大使が乗船)のみ唐に着き、第三船は沙汰やみ、第四船が一年余後に再度唐へ渡って来たというチャンスがあったためと、空海の行動力と驚異的な文才のなせるわざであった。

 引用を続ける。
「空海も橘逸勢も短期の請益生ではなく、長期の留学僧、留学生として日本が唐に中請しての滞在であったから、僅々二十ケ月ほどの滞在で留学を切り上げて帰るのは、本来、違法であった。また仮に帰国を願ったとしてもその手段は無きに等しいものであった。
 ところがこの場合は、たまたま一年遅れで高階遠成が入唐したので、奇跡的に帰国できる機会が降って湧いたのである。そこで空海と橘逸勢は、まずは遣唐使高階遠成の了承を取り、彼から正式に唐帝に申請してもらって、その許しを受けたのである。
 空海の「本国の隋に与えて共に帰らんと詔う啓」(『性霊集』巻五)によると「(長安において)中天竺国の般若三蔵お呼び恵果大阿闇梨に逢うことができ、その直接の教えを受けて寝食を忘れて勉強した結果、十年かかる学業を一年で成し遂げて、密教の神髄に到達することができました。この上は一刻も早くこの教えを持って帰り、天皇の(留学の)命令にお答え申し上げたい。これ以上長く唐土に滞在しても、徒に年齢を重ねるだけです。どうか身勝手な願いを聞き入れて下さい」という陳情文であり、高階遠成にしても長期留学僧をわずか一年で連れ帰ることには戸感いがあったと思われるのに対して、強引に説得する気概の感じられる文章である。
このとき橘逸勢も空海に頼んで「橘学生、本国の使に与うる為の啓」を起草してもらい、帰国を願い出ている。それによると彼の場合は唐語を習熟しなかったために、学業が頓挫してしまった。一方、音楽(琴)と書は学んだが、その間に月日が経って学資を使い果たしてしまった。これ以上、無為に滞在しても得るところはないし、国家の恥にもなる。天下国家を治めるために必要なのは儒学だけではなく、音楽のような芸も大切である。だから唐で学んだ琴を天皇の前で演奏したいと思う。というのが理由であるが、いずれにしても、思いもかけない日本の使節が長安に来たのを見て、急激に郷愁が募ったが故の申請であったことは疑いないであろう。」

 遣唐使への陳情文の説得力たるや、法をまげうるほどであった。また、橘逸勢のために
も代筆したのである。当時遣唐使の大使は第一級の貴族であり、又、橘逸勢も唐へ行く前から能書家として知られていたが唐語を習熟しえなかったとある。このように通常の貴族の一般教養として、漢籍は読んで理解しえるくらいであり、唐人と会話したり、唐人を感心させるほどの文章を書けるレベルには達していないことがわかる。空海がいかにして高い能力を身につけたのかは不明であるが、並はずれて高かったことは様々の逸話が証明している。紫式部の父為時が空海に遠く及ばなかったことは残された漢詩や逸話から容易に推測できる。

 

5、紫式部の生き様の崩壊 

 為時が越前守に任ぜられた経緯は充分に知っていて、誇りに思ったであろうし、越前で行なわれるであろう宋人とのやりとりに漢籍の学問が発揮されるであろうと期待していたであろう。都から越前の田舎に行くのに支えとなったのは、幼少時からの漢籍への思い入れであったろうが、今や式部は為時の力量をはっきり悟った。漢学者のレベルは宋人とやり取りできるほどではなかったのだ。幼少時から父を尊敬し、学んできたことはこの程度だったのだ。
後に、こうした漢学者への哀惜と揶揄は源氏物語少女の巻にも反映されている。夕霧の「大学寮の試験の予行」の部分(日本古典文学全集源氏物語巻3-29P)に
「大将盃さしたまへば、いたう酔ひ痴れてをる顔つき、いと痩せ痩せ
なり。世のひがものにて、才のほどよりは用ゐられず、すげ
なくて身貧しくなむありけるを、御覧じうるところありて、
かくとりわき召し寄せたるなりけり。身にあまるまで御かへ
りみを賜りて、この君の御徳にたちまちに身をかへたると思
へば、まして行く先は並ぶ人なきおぼえにぞあらんかし。」 とある。
この漢学者が偏屈者で、才能の割に用いられず、人づきあいも悪く、貧乏であったと描写しているのは為時がモデルであったと言えるだろう。
 紫式部日記に、幼少時、式部が兄弟の惟規に比べ漢籍の習得力が著しく優れていたため、「親は『口惜しう。男子にて持たらぬこそ幸なかりけれ』とぞつねに嘆かれ侍し」とわざわざ記している。彼女の性格形成に大きな影響を及ぼした父の心情を記さざるを得なかったのはなぜか。女子で残念だ、残念だと言われ続け、男の子でないために自分は不幸だという父を持つ。母親は既にいないとすれば、女子としての価値観を教える人はなく、男子の価値観のみが日常に感じられる。父の最も大きな喜怒哀楽は、漢籍にまつわる世間との交わり、事柄、我が子への漢籍伝授であり、愛情に乏しい毎日は、当然のことながら漢籍を学びその素養を父に認めてもらうことで、父娘の愛が育まれていたであろう。漢籍が出来ればできるほど、男子だったらなあと嘆かれ、漢籍ができなければ、忘れられるような境遇。彼女は、たとえ女子であってもこれくらいはできると益々漢籍にのめり込んでいったであろう。それなりに漢籍の面白さにも目覚めていったであろう。それゆえ女子としての情感が乏しいが、男子的見方の備わった、漢籍的観察眼を持った娘に成長した。二十代後半で藤原宣孝に求婚されるまで、殆ど恋愛の痕跡もなく、紫式部集の和歌を見ても女性的な軟らかさや情感は少ない。また宣孝との和歌の贈答を見ても最初のうちはかなり嫌悪している。
越前に滞在している時に、宣孝から求婚されたと推測されるが、紫式部集百三十余の和歌のうち宣孝との贈答が十首あり、その中に注目すべき一首がある。
「文の上に、朱といふ物をつぶつぶとそそきて、「涙の色を」と書きたる人の返り事
 紅の涙ぞいとどうとまるる移る心の色に見ゆれば
 もとより人の娘を得たる人なりけり。」
 宣孝は紙の上に朱色の点々を書いて、「紅の涙」を演出した。紅の涙とは、為時が淡路守に決まった時、「苦学寒夜、紅涙霑襟、除目後朝、蒼天在眼」と言う漢詩を奏上したが、その中の語句である。この漢詩を帝に奏上したおかげで為時が越前守になれた。この事実は都では有名な話であった。宣孝は意識してか、しなくてか、暗に紅の涙で望みをかなえてと、為時を揶揄っているのではなかろうか。「紅の涙ぞいとどうとまるる」は、宣孝への式部の返歌である。揶揄の気持ちを察したからこそ、紅の涙はうとまれると言ったのではないだろうか。紅涙によって得た官職を揶揄する男をどうして受け入れることが出来ようか。そこで、「紅に染めし心も頼まれず人をあくには移るてふなり」(古今集・雑体)等の古歌を背景にして、涙ではなく、移る心の色と変えて、「紅の色に染まった心とて変わるのです、ですから貴方の心など信用できません」と正当に返歌したのである。ここでは、父をかばう気持ちが読み取れ、宣孝への嫌悪がある。しかし、もしもこれが父と宋人のやり取りの後であるならば、父の能力が高いとほめられた紅涙の漢詩そのものがうとまれることになる。この歌からはそこまでは読み取れないが、「うとまるる」という言葉は相当の嫌悪感である。父への落胆をもえぐる紅涙の演出、二重の嫌悪となったはずである。この歌が作られたのが宋人とのやり取りの後か先かは明確ではないが、一応は単純に宋人とのやり取りの前と考えられる。というのは彼女の性格として、もしも父と宋人とのやり取りの後であるならばもっと違った激しさで応答したのではなかろうか。
 この歌の後で父と宋人のやり取りがあったとしよう。宣孝への嫌悪をも凌駕するほどの父への落胆であり、父への落胆だけでは済まなかった。父への愛情表現としての漢籍、また漢籍そのものへの興味、それまでの彼女の人生の中心の大黒柱が倒れたのである。学んできたことのレベルを知ってしまった。誇り高い彼女には耐えられない、人生そのものの瓦解である。これ以上父のそばにはいられない。居ても学べることの範囲は知れている。これ以上越前に留まり何を無為に過ごすことがあろうか。友と文のやり取りも途絶えがちな田舎に、もうこれ以上は居られない。こう思ったに相違ない。とうとう娘一人で京へ帰る決心をする。一人で身寄りのない京へ帰るとは当時としては相当の決心である。

6、宣孝との関係

 式部集で、宣孝とのやりとりと思われる和歌は28番目から37番目までと全部で10首ある。これらの和歌で式部が心から慕っていると感じられるものは少なく、わずかに36、37の二首のみが二人の気持ちが通じ合っていると感じられる。和歌をたどりながら、式部の心情を推し量ってみよう。

  年かへりて、「唐人見に行かむ」といひたり
  ける人の、「春は解くる物と、いかで知らせ
たてまつらん」といひたるに
28 春なれど白嶺の深雪いや積もり解くべき程のいつとなき哉

宣孝が、春になれば氷はとけるものなのですから、氷のような貴方の心も、とけてくるものだと知らせたいと言ってきたことに対し、白山の雪はが解けるどころかまだ降り積もっていますよと返歌している。当分とけることはありませんと拒否している。

  近江の守の娘懸想ずと聞く人の、「二心なし」
とつねにいひわたりければ、うるさがりて
29 水うみに友呼ぶ千鳥ことならば八十の湊に声絶へなせそ

宣孝が近江の守の娘に懸想しているのに「浮気心はありませんよ」と言ってくるので、うるさくなって、琵琶湖で友を呼ぶ千鳥のように、いっそのことたくさんの湊でお鳴きになったらいかが、(あちこちで女に声をおかけになったらいかが)と返している。

  歌絵に、海人の塩焼くかたを描きて、樵り積
  みたる投木のもとに書きて、返やる
30 四方の海に塩焼く海人の心からやくとはかかるなげきをや積む

 ここで式部の心が少し動いていることが読み取れる。完全に拒否しているならば、歌絵などわざわざ書かないし、また嘆きもしない。すっかり結婚をあきらめていた私に、そして田舎暮らしに嫌気がさしている私に、どうして動揺を与えるの?田舎暮らしをやめる口実にあなたを利用しようかしらとさえ心が動いてしまいますわ。宣孝さまが好きではないけれど、私の環境を変えようとしている人であることは確かですから迷ってしまうのです。と心情を吐露している。

  文の上に、朱といふ物をつぶつぶとそそきて、
「涙の色を」と書きたる人の返り事
 31 紅の涙ぞいとどうとまるる移る心の色に見ゆれば
  もとより人の娘を得たる人なりけり。

 5の紫式部の生き様の崩壊、でも記したが、式部の心が少し動揺したことを敏感に感じ取った宣孝がさらにたたみかけるように「血の涙が出るほど貴女を思っています」と表現してきたことに対し、私の動揺につけ込むなんて本当にうとましいことと返歌している。式部がほんの少し動揺したことに対し、自分自身に言い聞かせるように、「もとより人の娘を得たる人なりけり」すでに結婚している人ではありませんかと記している。それでも少しずつ心は溶けて行きつつあったことに対し、宣孝はいい気になってさらに式部のプライドをずたずたにすることをする。

  文散らしけりと聞きて、「ありし文ども、取
り集めてをこせずは、返ごと書かじ」と、言
葉にてのみ言ひやりたれば、みなをこすとて、
いみじく怨じたりければ、正月十日ばかりの
ことなりけり
32 閉じたりし上の薄氷解けながらさは絶えねとや山の下水」

 式部からの手紙を他の女に見せたことを知って激怒した式部は、今までの手紙全部返して下さらなければお返事いたしませんと言葉だけで伝えたところ、みな返しますよとひどく恨んで来たので、この歌を書いて送った。
ようやく私の心の氷が解け始めていたのに、手紙を他の女に見せるなんて、かすかな私の心をも全部断ち切ってしまおうとの心ですか?と。
そして暗くなってから宣孝から返事が来た。

  すかされて、いと暗うなりたるに、をこせたる
 33 東風に解くるばかりを底見ゆる石間の水は絶えば絶えなん

  「今は物も聞こえじ」と、腹立ちければ、
   笑ひて返し
34 言ひ絶えばさこそ絶えめなにかそのみはらの池をつつみしもせん

 宣孝より、春風によって貴女の心は解けてきたと思ったのに、底の見える石間の流れのように浅い貴女の心が見え見えです。貴女との中など絶えてしまえばいいのだと「今はもう何も言わないぞ」と宣孝が怒るので、式部は笑って返事をした。
もう手紙もださないとおっしゃるのなら絶えてしまっても結構ですわ。貴方の御腹立ちにご遠慮いたしませんわ。余裕の式部からの返事に宣孝は夜中になって

  夜中ばかりに、又
35 たけからぬ人かずなみはわきかえりみはらの池に立てどかひなし

と宣孝から返事がきた。気が弱い人数にも入らない私のことですから、いきり立って腹を立てても何の甲斐もありません。私の負けです。と。式部の勝利である。それはそうだろう。式部は本気で宣孝を愛したり執心していないのだから、別に中が途絶えても、少しは動揺するだろうが、さほど心に響かないのである。これをきっかけにようやく心が通い合った式部が、桃の節句の前に次の歌を贈っている。

 桜を瓶に立てて見るに、とりもあへず散りけ
 れば、桃花を見やりて
36 折りて見ば近まさりせよ桃の花思ひぐまなき桜惜しまじ

 桜の花を瓶にさしたら、人の気も察せずにあっという間に散ってしまった、こんな桜の花を惜しんだりするまい。庭に咲いている目立たないが長持ちする桃の花を折って近くで見たら、見まさりしておくれ。それに対し宣孝からの返歌

  返し
37 ももといふ名もある物を時のまに散る桜には思おとさじ
 桃は、長寿の意味を持つ百(もも)と同じ音を持つのだもの、美しくてもあっという間に散る桜よりみくだしたりはしませんよ。
 目立たないけど折って見たら、見まさりしてくれとは、女として男に対するかすかな不安が初めて表れていると読める。あんなに強気だった式部もさすがに少しは女性としての気持ちがあったのだろう。女性的心情に初めてなったとも言える。それに対し宣孝も桃の花を大切にする気持ちを詠んでいる。ようやく気持ちが通い合って読者もほっとする。ここで宣孝との歌のやり取りは終わっている。この後、夫として通わせた後、歌のやり取りは無かったのだろうか?やりとりはあったが、式部が歌集には載せていないのだろうか?結婚後、宣孝が亡くなるまでの2年間、恋しいとか、貴方がいなくてさびしいなどと言う歌は全くない。

7、清少納言への批判は、紫式部のカタストロフィー

清少納言への批判は、自分自身の漢籍のみならずそれまでの生き方のねじれに深く関わったことがらであったための感情爆発である。 式部のこのような体験から、紫式部日記の中の清少納言への異常なまでの敵対心の表現はなぜなのかを解明する事が出来る。