源氏物語解体新書

〜視覚と嗅覚の深淵な世界から〜

上田 裕一・上田 英代

第2章 禁色(三島由紀夫作)の悠一 現代小説の中の『薫大将』

(1)「男の愛はたちばなの香り」

 村山貞也「人はなぜ匂いにこだわるのか?」(1989)では男性のフェロモン的香りの具体例を揚げている。氏はコミュニケーションの学徒として五官によるいろいろな性質の情報処理について考え、まずそれを触発する「色」の具体例を考察した。その後、この著書では「匂い」のいろいろな性質の情報(インフォメーション)の入力と情報処理と出力に関心を寄せて記載している。彼は、「匂い」の意味の章に続く人の「におい」の章で、母の香り、女の香りの次に男の香りと順次節を立てをした。男の香りの項では、『源氏物語』にみる「匂い」と「薫り」、男の愛はたちばなの香り、夢の中までにおうポマードの3つテーマで香りを語る。人の「匂い」であるから当然フェロモンの香りの記載がされていると期待される。

第1項は『源氏物語』にみる「匂い」と「薫り」であるが、本書の主たる検討項目なので、他の男の香りを読み解いてフェロモン的香りの正体を突き止めてから第3章で詳細に検討する。

第2項の「男の愛はたちばなの香り」では、堀辰雄の『ほととぎす』を取り上げている。

十世紀の頃、藤原道綱母が記した自叙伝『蜻蛉日記』は、女流日記文学の先駆であり、源氏物語より早く、紫式部にも影響を与えていたといわれている。

 日記は、「あるかなきかの心地する」当時のはかない貴族社会のー夫多妻の生活を、弱い女の立場から、リアルに描いている。夫兼家との結婚に多大な人生の望みを懷いたのに、兼家の大勢の妻たちに対する嫉妬と夫への非難、夫の通いが遠のく不安と失望、そして母性愛の悩みを、克明に綴っている。
 堀辰雄は、この蜻蛉日記をもとにして『かげらふ日記』と『ほととぎす』という作品を書いてぃる。『ほととぎす』では、主人公である「私」は「夫が他の女に産ませた撫子という少女を慈しみ育てている。
 この、まだ幼い撫子が美しい姫であると聞いて、若くて、上品で、情熱的な公達、頭の君が、たびたび、撫子を求めて、通いつめてくる。「私」は、撫子がまだ幼いことと、夫の許しがないことを理由に、頭の君を、撫子から遠ざけようとする。
 たちばなの香りが緑の先から漂ってくるー夜、撫子を訪ねてきた頭の君は、突然、「私」の御簾に手をかけて、「私」に近づこうとする。そのとき、「私」は、頭の君の体から、先ほどは、縁の先からにおっていたと思っていたたちばなの香りが起ちのぽるのを感じた。
「私」は、頭の君の非礼をさとしながらも、夫の足も遠のき、すでに老いたと思っていた自分のなかに、まだ、どこやら女の生命が、若い美しさが残って燃えているのを感じた。
 若い頭の君が、すごすごと遠ざかると、たちばなのにおいも遠のいていった。たちばなのにおいは、頭の君が、撫子に対して懷いていた愛の香りであった。「私」はそれを、うっとりし蘇らせながら、自分もいつか、そのたちばなの香りを、年甲斐もなく一杯に吸い込んでいたときめきを感じた。
 一方、頭の君も、自分が求めていた女が、御簾の向こうにあって、見ることもできなかった撫子だったのか、美しい夫人であったのかわからなくなってしまう。やがて頭の君は、ある人妻をさらって行方知れずとなる。

 女を愛することによって立ち漂う、若い男の香りを伝えている小説として見事であった。
と。男の若い女をモノにしようとして発散する香りが、年老いたなーと感じている「私」にときめきを与える。まさに男性フェロモンの女性への効果としてよいであろう。さらに、「私」もときめきが女性フェロモンを発して、若き頭の君を混乱させ求めたのはどっちなのだと混乱させ、ついには、ある人妻をさらってしまう行動まで起こさせたとの深読みも可能だ。その意味で「ほととぎす」は男性が発し女性に、そして女性が発して男性に対して、フェロモンの作用を的確に表現しているとも考えられる。  村山氏の要約を、フェロモン作用として置き換えてみたが、これを確かめるためには、「ほととぎす」のなかで、他のくだりでフェロモン作用と思われる記述を洗い出して見る必要がある。両者が近づいた場面、その場面を回想するくだりに香りの記載はないのか。そしてどのような香りなのか。頭の君は「橘」の香りであるが「私」のかおりはどんなものか表現されているか。
「私」に明らかなフェロモンが発生しなくとも、拒否されて、頭の君は自らの薫りを発生して自らの香りを嗅いで狂って人妻をさらったという解釈も可能かもしれない。さらに、その香りが複数者から確認されているのか。また、風向きで頭の君→「私」には流れるが、逆の「私」→頭の君への香りのながれは不自然さが伴うのだが、どう表現されているのか検討するために原文を拾う。

四月の末になり、橘《たちばな》の花の匂の立ちだした或夜、だいぶ更けてからだったが、私は自分にいろいろの事を言ってよこされる頭の君を、同時に私はその簾の外側から、それに近づいた頭の君と一しょに縁先きに漂っていたにちがいない橘の花の匂がさっと立ってくるのを認めた。私はその匂を認め出すと、急に自分の心もちに余裕が生じでもしたように、一層きびきびと、「夜更けて、いま頃になると、いつも余所《よそ》ではそんな事をなさるのでしょうけれど――」と言い足した。さっきの橘《たちばな》の花の匂はそちらから頭の君が簾《みす》の近くまで持ち込んで来たのにちがいなかった。
 私はふと、その一瞬前の何んとも云えず好かった花の匂を記憶の中から再びうっとりと蘇《よみがえ》らせていた。それがそのまま暫く私を沈黙させていた。頭の君は何かすねたように、橘の花の匂の立ちこめている戸外へお出になって往かれた。


のくだりである。  結論としては、橘の香りで村山氏の読みもそうだが、フェロモンとは読みすぎであろう。

(2)「夢の中までにおうポマード」

 第3項の「夢の中までにおうポマード」では三島由紀夫 禁色を取り上げている。
 三島由紀夫の作家的地位を確実にしたといわれる長編小説『禁色』のなかに、ポマードのにおいに男を嗅ぎ、それを夢のなかにまで漂わせる恭子という女の感覚が描かれている。

 元伯爵鏑木家の舞踏会で、外務省に勤める夫を持つ恭子は、若き美しい青年、悠一と 踊った。以来、恭子は悠一と会っていなかったが、注文していた青竹色の舞踊靴のでき た日、その店で悠一に再会した。そして悠一をお茶に誘った。恭子は、もう、ほとんど 舞踊会の日のことは忘れていたはずだった。が、いま、徐々に思いだした。 ・ ・ ・ ・

 「あのときこの青年の体が、獸のように威厳にみちた様子で女の体を暗い窓際へ押し やったことを。彼女のェ恕を乞う彼の眼の烈しさが、むしろ野望の眼差のようにみえた ことを。やや長い揉上げ、肉感的な頬、不平を呟きかけてやめたような若者らしい初心 な唇。・・・もう少しで彼の的確な記憶が蘇る筈だった。彼女は小さな詭計を案じた。 灰皿をこちら側に引き寄せて置いたのである。そこで吸殼を捨てるときに青年の頭は彼女の目近に若い牡牛の頭のように動いた。恭子はその髪のポマードの匂いをかいだ。若々しさの疼く匂いである。この匂いだった!この匂いはあの舞踏会の日から一度ならず、夢の中でまで匂ったのである。
 夢の中のその匂いは、或る朝、醒めてのちも執拗に恭子にまとわりついた。都心に買 物があったので、良人が外務省に出勤してー時間ほどのあと、まだ遅い勤め人で混雑し ているパスに乗った。彼女は強いポマードの匂いをかいだ。彼女の胸はさわいだ。しか しその青年の横顔をさしのぞいたとき、夢の中のポマードと同じ桙閧漂わせながらも、似ても似つかない横顔に失望した。
彼女はそのポマードの名を知らない。が、たびたび同じ匂いは、混んだ電車や店のなか でどこからともなく漂って、彼女に故しれぬ切なさを味わせた。」


 「夢の中までにおうポマード」に仕上げたのは何か?中村氏の「SASO」を思わせる。 『沙棗の香料を中国から入手して使ってみた。また、人をひきつけるフェロモン作用を持つと報告のあるヒト体臭成分アンドロステノールを配合した』。ポマードを底上げしているのは悠一の体臭であり、アンドロステノールと同等の作用を持つと推測される。とすると、恭子と悠一との2人の関係には性に絡みつく行動・思考・感情にフェロモンが及ぼしているであろう描写があるはずである。それらの性関係へと向かう動揺・流れ・吸引・喜び、そして、もがき、ささやかな反発・性へ引きずり込まれまいとする無駄な抵抗などがどのように表現されているかを読み取ることで『人へのフェロモン作用』が明確になる。
『禁色』の仕掛け人の老作家俊輔が、男色の悠一を操って、自分が支配できなかった女、恭子への復讐を遂げていく下りはなかなか精緻な筋立てがされている。まず俊輔は悠一を恭子に紹介する。以前の舞踏会で恭子を見て是非踊りたいと、わざわざ奥さんを連れて来ていないなどと美人局をする。そして鏑木夫人、妻の康子も会場に居るのでバレばれるのを期待して、あえて5曲を連続しておどる設定を実行させる。 悠一の香りをキャッチする機会は、この場合、まず紹介された時、次は踊っている時であるが、香りのことは書かれていない。思いを寄せてくれる相手は若く美男子であり、ダンスは『好色な準備運動に他ならぬところの今様の実用ダンス』であり、シナ服で下腹部がピタリと接触し5曲もホールドしたら恭子も色好くなるはずである。そしてホールドでは下腹部の皮膚感覚のみならずやや女性が半身となり背の高さから胸のどちらかというと右肩前方、つまり腋の下に鼻が向いている。嗅覚が作動しやすいのだ。
 悠一の発する香りがもともとわずかなのでキャッチできないのか、悠一が興に乗らないためすくないのか、三島氏があえて書かないのか、ここだけでは判断できない。踊り終わって戻った卓で、夫婦同伴を知った恭子は

 「はやく行っておあげあそばせ、お可哀そうよ」と恭子が言った。この勧告は、理性も 失わず礼儀にも叶ったもので、悠一は恥ずかしさのあまり真赧になった。廉恥心が情熱 の代用をなす場合が屡々ある。美青年は自分でもおどろくほどの勇気で立上って恭子の傍らへ身を寄せた。話があるからと言って彼女を壁際に導いた。恭子は冷たい怒りを目 のいろに湛えていたが、もし悠一が自分の動作のはげしさが語っている情熱の質量に気づいていたら、この美しい女がおのれの意思からではない憑かれたような様子で椅子から立上って彼に従った理由が呑み込めたろう。悠一は持ち前の暗い瞳がますます真情の印象を深める申分のない思いやつれた風情でこう言った。
「嘘をついて申訳ありません。でも仕方がなかったんです。本当のことを言ったら「五つもつづけて踊って下さるまいと思ったからです」
 恭子はこの青年の中に宿る正真正銘の純潔さに目をみはった。女らしい犧牲にまで達した寛恕の心に自ら涙ぐんで、彼女は大いそぎで悠一を恕したが、彼の妻の待っている 卓へいそぐ後姿を見ているうちに、この感じやすい女は、彼のうしろ姿の上着の微細な皺までも諳んじてしまった。


 恭子の傍らへ身を寄せ、彼女を窓際に導いたということは、興奮して空気の流れをともなう動作を悠一が行ったことを意味する。つまり香りは恭子を包んでしまったはずである。ここでも書かれていない。だが三島は、

「この美しい女がおのれの意志からではない憑かれたような様子で椅子から立上って彼に従った理由」と書くことで暗示はしている。「おのれの意志からではない」とは、美青年だから、思いを寄せているから、無論昔だました老人の勧めからではない。美はその形態が視覚から入力され美しいと判断する意識が働くから意志につながる。思いを寄せてくれたという感情も次の行動を起こすときは意識的である。ただ嗅覚がその行動を導いたとするとその動きは「憑かれたような」感じを周囲に与え、「椅子から立上って」しまう。その自発性を感じさせない行為はまさに「彼に従った」如くとなる。まさにフェロモンの香りが暗示されている。「話があるからと言って彼女を壁際に導」いたとしても初めての相手で、しかも自分と踊りたい気持ちで新婚の妻を連れずにきたというコスイ作り話がばらされたのに、気品高い恭子が従うだろうか。毅然とシャッタアウトしたであろう。だが悠一はすでに20分以上も「はげしい動作」を行っており、さらに導く前に悠一は「恭子の傍らへ身を寄せた」のだ。その行為で「おのれの意志からではない憑かれたよう」に壁際に導かれていったのだ。その無意識的男女の行動はフェロモン作用と推測される。悠一に導かれた時、その行為に対しての恭子の意志、感情は何も書かれていないことこそフェロモンの作用があったとの証左である。

 恭子は、悠一を恕したが、彼のうしろ姿の上着の微細な皺までも諳んじてしまった。 何故、諳んじたのか気品高い恭子にとって悠一の上着のしかも背中の皺がなぜ諳んじる必要なのか、皺の模様が面白いのか、何か特徴があるのか。ここに描写されていることは強烈な意志でも感情からでもない。恭子自身も納得も、理解も、同意もしていない。にもかかわらず諳んじてしまう。この体験は鮮明に記憶されるはずである。

  その後、二人が会った時の情景は村上氏がフェロモンの香りとして取り上げた部分に表現されている。

この匂いはあの舞踏会の日からー度ならず、夢の中でまで匂ったのである。
たびたび同じ匂いは、混んだ電車や店のなかでどこからともなく漂って、彼女に故しれぬ切なさを味わせた。


とすると、舞踏会後もそこで嗅いだ香り、そして女の体を暗い壁際へ押しやられた体験は 「夢でも、一度ならず、現でも、たびたび」思い出している。 にもかかわらず

 その日一日、穂高恭子は青竹色の舞踏靴のほかに考えることが何もなかった。・・・・・
先達ての舞踏会で彼女に只ならぬ風情を示した美青年のことはきれいに忘れていた。


夢という無意識の中でも匂って来て、バスの中では偶然に薫ってきて、まとわりつかれて、胸はさわいでしまう。にもかかわらずきれいに忘れている。覚えているのに忘れている。なぜだろう。
記憶には記銘と想起の2方向がある。記銘されていても意識的には想起できない心理状態は実際にある。恭子は、思い出すのだから匂いにまつわる体験は記銘されている。眠りに入れば脳の意識をつかさどる新皮質は働かない、つまり意識が働かなくなる。人の場合、意識はほぼ常時、古皮質から湧き上がる本能的な情動を抑圧している。「人は動物と異なり本能のままには生活していない」大本の仕組みである。だが昼間意識が明瞭な時は抑圧されていても情動は減弱は有ったとしても消滅はしない。意識が緩んだ時や睡眠中には抑圧の結界が消失、檻が破れ意識に登る。似た現象はコンピューターにある。Foreground JobとBackground Jobである。脳の場合、左脳がForeground Job、右脳がBackground Jobである。日常生活で問題を抱えいろいろ考えたが未解決のまま、次の作業に移らざるを得なかった時、左脳の作業が右脳に作業場所を移すことがある。左脳とは独立して右脳はJobをつづける。Jobが終わった時(解決策、回答などがでる)、右脳は左脳に割り込んで突然として、問題解決したことを通知する。意識を司っている左脳は『閃いた』と感じる。
これらの機構は新皮質間での働きであるが、情動をつかさどる間脳からの影響を受ける大脳辺縁系(古皮質)も新皮質に影響を及ぼす。その時は、意識している状態で次々に情動に揺り動かされていく。また意識が途絶えている夢で心の深部に抑圧されている情動が表失しやすい。そしてその情動が性に纏わるものであるときは、目覚めた時覚えていても、そのこと自体を記銘はしているが想起しないようにする。人が性に動かされることを名誉とは感じないがゆえに、本能から独立すべく努力するのが人間らしいと思いたいがゆえに。
  恭子の場合、バスの狭い空間に入った時偶然に嗅ぐ羽目になって、香りの主を探してしまい人違いとわかる。こんな体験が続いているのに、『美青年のことはきれいに忘れていた』と恭子に想起させられていたことさえ忘却させる。香りに対して無意識の防衛が働き意識的に思い出させることをブロックする。これこそが

恭子には、どうやってみても自分の感情の底へ降りてゆけない焦燥感

をかもしださせているのだ。感情の底は悠一の香りで動揺し本来の情動が発動しようとうごめいている。バスでこの匂いと実感しても似ても似つかぬ横顔に失望している限り実働にはいたらない。
恭子は靴屋へ入りがけに悠一と顔を合わせた

靴を早く見るほうに心がいそいでいたので、この偶然にもさしておどろかず、通りー遍の挨拶しかしなかった。

 恭子のいいわけである。悠一の匂いが襲ってきたはずである。バスの中と同じような探し回る行動は不必要だ。香りの主は目の前に居る。さて恭子はどんな行動をとるのだろうか?悠一の匂いがかすかで判別しにくいほど薄いのか、たとえば薄いとしよう。結婚する前に思いを告げようとし、しかも妻は来ていないとごまかしってでもダンスを申し込んできた美青年とはち合わせしたら、暖かい心うきうきした会話がはずむはすである。好きであるがゆえに悟られまいとしてよそよそしい態度をとってしまうのとおなじ心理だ。『私は靴を見に来たのよ、あなたに会うことなど考えていないわ、そうよ早く靴を見たいの。だから通り一遍の挨拶よ!私のメインは靴なのよ、あなたに左右されないわ。』
 こだわりがなければ偶然でも、ちょうど良かった素敵な舞踏靴ができるの、一緒に見て、見せてあげる、評価を聞かせて・・などなど素敵な場面展開となるはず。

青竹色の舞踏靴の出来栄えは、幸い恭子の御意に叶った。・・恭子の瘧が漸くにして落ち着いたのである。

 なぜ、話が出来栄えの良い舞踏靴に及ばないのか、次の舞踏会での履き心地、皆からの賞賛。ましてや悠一に出来栄えを追認させてもいいはずである。話がもりあがってもいいのに、落ち着いてしまう。恭子の「瘧』とは何であろうか?
メインの行事は終わった。悠一との出会いはほんの付け足しだなんだけど気取って余裕を感じさせるように

彼女はふりむいて微笑した。そこにはじめて一人の美しい青年の姿を見出した。

悠一は美しい、恭子は靴屋へ入りがけに悠一と顔を合わせたのだ。たとえ青竹色の舞踏靴の出来栄えに気が回っていたとしても美しい青年の姿が目に入ったはずである。なぜ『ふりむいて微笑した』のか。なぜ『そこではじめて姿を見出した』のか?しかも美しい悠一の姿ではなく、『一人の美しい青年』と表現したのであろうか?
 ふりむいて微笑したのは、恭子ですらその意味を理解できていない。『靴の出来上がりを気にしていたのは分ったわね、すぐに貴方に手を出したのではないのよ。私のこころの比重は靴にあったのよ。靴のことがうまくいったのよ、だからこれからあなたにかかわれるわ。あなたのことをずーと心にかかっていたことをもみ消せたのだから』こころが解放されたからこそ、悠一が新鮮に感じ「はじめて」、そして新たな以前の悠一ではなく心が迎えた「青年」として、その「姿」を見出したと感じたのだ。先ほどの『瘧』は悠一に溶けたいけど溶けない自分へのいら立ちである。それが溶け出してきた。

恭子の幸福は越度のない献立表を見るように思われた。

三島の感性を全面に出した素晴らしい表現である。献立表は特別の美味しい料理を作って食べて実感するほんの入り口なのだ。そこで既に幸福を感じ、落度のない献立表であるから出来上がりは保障されているようなものだ。出来あがる前に献立表を見ているだけで美味しそうな料理が食べられそうで、幸せ感が沸いてきて食べるに先に立って涎がたれる。

私の生涯の不安の総計のいわば献立表を、私はまだそれが読めないうちから与えられていた。私はただナプキンをかけて食卓に向っていればよかった。今こうした奇矯な書物を書いていることすらが、献立表にはちゃんと載せられており、最初から私はそれを見ていた筈であった。

三島は「仮面の告白」でも説明つきで同様の表現を行っている。

そこで彼女は飛躍をした。

三の丸に到達した彼に合わせて、自分も飛躍して従来のこころの制限をはねのけていこう。本丸は近いとの実感である。恭子の流儀にはないことなのに、わざわざ傍らへ寄って、

「お茶でもお喫みにならない?」
とやすやすと誘ってしまう。
彼女の目もとは火照っていた。

そして遅仕舞の一軒をみつけて立寄って卓に座るが興奮が押し寄せる。なんとか冷静にと言わずもがなの「奥様はお元気?」から始まったが、「今日もおひとり?」と”も”と出てしまった。前回は、一人ではなかったことを、その場で「嘘をついて申訳ありません。」と謝っているのだから、「今日はおひとり?」と”は”を使う場面である。“も”を使うのなら、「今日もお二人?」のはずだ。それでは恭子の奥底は満足できない。希望はお一人だ。前回の続きの「今日もお二人」と恭子の望みの「今日はお一人」とがごっちゃになって「今日もお一人?」となってしまった。恭子は無意識に期待しているから”も”となってしまった。その曖昧な問いに、悠一は、理解できないまま「ええ」と生半かの返事をした。  恭子はさらにねじれて自己制御できなくなった。「わかった。このお店で奥様とお待ち合わせなんでしょう。その時間まであたくしがお相手すればよろしいのね」と。  靴屋で「お茶でもお喫みにならない?」と誘ったのは恭子、どの店に行こうとは悠一は言っていない。妻と約束しているのなら、行きつけのとか、知っているお店だから探すこともない。なぜ恭子は「この店で」と言ったのか。閉めてしまう店が多くて遅仕舞の一軒をみつけて入店したのも恭子は直前に味わっているのだ。約束ができている「この店」と思うことはむりである。明るいお店を回避したことが恭子の言葉になったと言うのか。それは返って、奥様と合わせるとまずいと感じるほうである。辻褄の合うネガティブの疑問符で悠一の行動、心情を探ったのだ。だが恭子の疑問符付きで確認したいのは、誘ったのは私よ、こないだのようでは厭よ、奥さん無しよね、で心の奥底の期待である。

「僕ほんとうにひとりですよ。・・」
と聞くと
「そう」−−−恭子は語調に警戒を解いた。

語調に警戒でもない、ここは「語調が優しくなった」のだ。恭子は何に「警戒」しているのか?どこかに彼の妻が居るのかと勘ぐっている警戒か。ぴんとこない。前回の事を再現されるのではないかと「不安」なのだ、うそではないようにとの願いを直接表現できずに強い口調になっているのだ。
「あれ以来お目にかかれなかったわね」が証明している。「あれ以来ですね、お目にかかるのは」であって、「かかれなかった」は裏に「『かかりたかったが』かかれなかった」が隠されている言葉である。

この続きに、こともあろうに
恭子は徐々に思い起こした。
とある。思い起こしたのは「何か」? そしてそのことが想起されたのは本当に「徐々」なのか?
この後の下りは、本項の初めにコピーさせてもらっている。
壁際に押しやったこと?強烈な印象で「徐々」ではない。
目の烈しさ?野望の眼差し?揉上げ?頬?唇?・・・。視覚的な要素は既に目の前にスッキリと存在している。思い出すまでもない。

・・・もう少しで彼の的確な記憶が蘇る筈だった。

として小さな詭計を案じたのは、悠一の発する「匂い」を嗅ぎ易くすることだった。若々しさの疼く、一度ならず、夢の中でまで匂った、執拗に恭子にまとわりついた、彼女の胸はさわいだ、同じ桙閧漂わせながらも、似ても似つかない横顔に失望し故しれぬ切なさを味わせた、この匂いだった!
 後ろに移動(この匂いの特徴は、匂いの本質を隠すことにある。いや意識的にも無意識的にも隠さざるを得ないのである。恭子は悠一と踊って香りをキャッチしてから、そのフェロモンの作用を無視せざるを得ないがゆえに、行動・思考・感情が言い訳しながら性の誘惑に負けていくのである。
恭子が舞踏靴のほかに考えることが何もなかったのは、偶然なのか?どう読者は思っているのか、また作家の三島氏は「単なる偶然で、恭子が舞踏靴に興味を示した」としたのか。実際のモデルがいて彼女の行動を写したのか。彼女が語ったのか。誠に興味深い。
金無垢の舞踏靴が気に入らなくなったのか、次回は青竹色の舞踏靴にしたいとの思いも書かれていない。青竹色にこだわっているのが何なのかがわからない。舞踏会での悠一の匂いを中心に据えると見えてくる。恭子にとっては匂いが芯にあり、舞踏が上に乗り、そして舞踏靴、その色へのこだわりへと進む。) 恭子の行動・思考・感情を誘導して性に引きずり込むことを意味している。すなわち悠一の香りはフェロモンである。それが、続く文章で明確に示している

・・・そうである。この匂いである。

だが、この後の恭子の行動が不可解である。

恭子は別の目つきで

とはどうしたことだろう。納得した時の恭子の目つきとは別の目つきとは一体どんな状態なのか、

悠一をまじまじと見た。

どのような感情を持ってまじまじと見たのであろうか?

三島は、「仮面の告白」のなかで、近江が1年生を蹴散らして遊動円木を独占して揺れ動かしているのを三島が見ていて不安に襲われた時、内なる均衡が破られる不安であるとして、

二つの力が覇を争っていた。自衛の力と、もう一つはもっと深く・もっと甚だしく私の内なる均衡を瓦解させようと欲する力と。この後のものは、人がしばしば意識せずにそれに身をゆだねることのある・あの微妙な・また隠密の自殺の衝動だった。

と述べている。「禁色」のここでは自殺ではなく、性の衝動と見れないことはない。 まじまじと見ている別の目は自衛しようとする恭子であり、匂いに支配されかけている恭子が同時に存在し、瓦解し始めた自衛する恭子にとって明らかに悠一は支配者である。

この青年の上に彼女の支配をたくらんでいる危険な権能、王笏のように眩い権能を見出したのである。

ここまでは、なんとか三島の使っている言葉と行動に納得がいく。だがこの後

ところでまことに軽躁なこの女は、男という男が当然なもののように身につけているこの権能を滑稽に感じた。

なんで恭子が軽躁なのか、なぜまことにと強調されるのか、そして自らに示した権能をどうして滑稽に感じるのか?お茶でも飲まないと誘ったのは恭子だし、今日もお一人、このお店で奥様と、既に気持ちが動揺し自衛できなくなっていることで、軽躁なのか?
とすれば、悠一の権能は滑稽ではなく献立表をもとに料理を始める好きなことではないか。
そもそも、「軽躁」という字句の本来の意味は何か。三島は言葉にこだわる作者である。「軽」は、少し、程よく、普段よりは、上ずってなどであり、「躁」は躁鬱病の躁で、陽気、うきうき、飛んでいるのだから、恭子の軽くウキウキした感情状態を言っているはずだ。無論ウキウキの元は「この匂いである」。ここは、匂いに支配されていることを軽くは認めるがすべてではない。全面降伏までにはまだささやかな抵抗がある。「別の目つき」をする自分を奮いたせる。悠一の示した「この権能を滑稽に感じた」とする。しかしすでに「この匂いだ」と自己の崩壊過程に突き進んでいるのに、まだあきらめずに滑稽と感じるなど「まことに軽躁なこの女」と言わざるを得ない。と解釈したい。

そして恭子のこうした誤解に符節を合して・・・暗渠を矢のように流れている烈しい水音をきく気地がする。

ここでも、恭子の感じていることのほうが、誤解でそれに合わせて見ていると、どんどん瓦解させようとする力が心の奥底の暗渠に音を立てて流れていく。自衛の恭子にここかしこに破れ目ができた。

あれからどこかでお踊りに・・。奥様はダンスがおきらいなの?

恭子は何を聞いているのであろう。なぜ奥様に、ダンスにこだわっているのだろう 均衡は既に破られているのに。

何という雑音だろう!・・・恭子は悠一と水の中で語し合っているような気がした。・・・ 近づこうとする心には、相手の心が遠くみえる。

もはや白旗を揚げざるを得ない。自衛している恭子は悠一から雑音で阻害され、聞こえても音がわんわん響いてしまって悠一との接触が結界の内外に隔絶された気分となった。

恭子はわれしらず感情を誇張した。
「一度踊ってしまったら、あたくしにはもう用がないという顔をしていらっしゃるのね」


全面降伏である。先の「あれ以来お目にかかれなかったわね」では恭子はまだ自立していたが、ここまで来ると、悠一の優位は確立し、恭子は悠一の側女に等しい恨み事を言ってしまった。どうも、このフェロモンと言ってよいと考えられる匂いは、異性の意識に影響を与えるがその作用の本質を覆い隠すという特徴があるとすら思える。先に述べたように動物とは違い人間であるがゆえに性・性欲に流されることは意識的にも無意識的にも隠さざるを得ないのである。
恭子は悠一と踊って香りをキャッチしてから、そのフェロモンの作用を無視せざるを得ないがゆえに、行動・思考・感情が言い訳しながら性の誘惑に負けていくのである。
「第十章 嘘の偶然とまことの偶然」 の初めに、恭子は青竹色の舞踏靴のほかに考えることが何もなかった。と始まる。偶然なのか?どう読者は思っているのか、また作家の三島氏は「単なる偶然で、恭子が舞踏靴に興味を示した」としたのか。実際のモデルがいて彼女の行動を写したのか。彼女が語ったのか。誠に興味深い。金無垢の舞踏靴が気に入らなくなったのか、次回は青竹色の舞踏靴にしたいとの思いも書かれていない。青竹色にこだわっているのが何なのかがわからない。舞踏会での悠一の匂いを中心に据えると見えてくる。恭子にとっては匂いが芯にあり、舞踏が上に乗り、そして舞踏靴、その色へのこだわりへと進む。と私には読めるのだが、読みすぎであろうか。

恭子の白旗に対して、悠一はつらそうな表情の演技を持って反応した。恭子は再び取り繕いをした。何しろ恭子の観念では、「彼女と附合のある人たちの間でしか、ロマンスというものは起りえない」のだから、悠一との場合は少なくとも知り合いではなかった。恭子にとって例外である。それまでのロマンスは「予想できるもの」であり「八百長のロマンス」でしかなかったのだ。玉砕までになんとか共通の知り合いを見つけねばと名前を揚げていくうちに「とうとう悠一の知っている名前が現れた」。杉浦玲子で結び付いた。親しく玲ちゃんと呼んでいる恭子の級友で無二の親友である。悠一とは従姉であった。不治の病で死ぬ間際の病床で悠ちゃんこと悠一に実のらぬ淡い恋を日記に書き綴って、亡くなる前に恭子にその日記を託した。当然恭子は悠ちゃんに「前以て恋をしていた」

「あなたが悠ちゃんだったの」
恭子があまり大胆にみつめるので、彼はきまりわるい思いをした。


このときの恭子の感情はどんなだったのだろう、玲ちゃんが恋した悠ちゃんがここにいる。何という玲ちゃんの引き合わせか、無二の親友の果たせなかった恋を数年の時間を置いて 玲ちゃんに代わって私が果たすのね。恭子は玲ちゃんの恋を引き継いだ。
「すでにして彼女は恋をしていた。恭子の浮薄な心のうごきも」、もっともで

「死んだ玲子の情熱の証人を目前に見ると、彼女は何かしら自分の感情に確信をもつことができたのである。」

と、恭子の内部でのアクセルにブレーキは取り除かれた。そして、このあと彼女はあと半歩踏み出せば足りると思った。」何を期待して半歩踏み出すのだろう?書かれていないがフェロモンが向かわせる行為に至ることであろう。だが

恭子はのみならず誤算を犯した。悠一の心は以前から彼女のほうへ近づいている。 「今度どこかでゆっくりお話したいわ。電話さし上げてもいいこと?」

自分の感情の底へ降りていけない癖が出てしまった。上品ぶって、お話し、今度、ゆっくり、電話などと今の好位置を放棄するという誤算を犯してしまった。予定合わせのやり取りでも、

次のあいびきの約束を今から决めねばならない成行を喜んだ。・・・・悠一と今度逢うためには、何か秘密と冒険の要素が加わるべきである。

と。悠一が承引すると、秘密と冒険は未来から現時点に有と迫った。

・・・女はますます甘ったれて、今夜は家まで送って来てほしいと言った。青年が渋ると、その困った顔を見たかったから言っただけだという。そうかと思えば、遠い山脈の尾根を見るような目つきで、彼の肩のあたりをじっと眺めたりした。話しかけられたさにしばらく黙り、またひとりで喋りだしては孤独を感じた。

恭子はフェロモンの作用を実行したくとうとう恭子は、卑屈な物言いを怖れなくなった。眉態にまで及んだ。

「奥様はお仕合せね。あなたはきっと大へんな奥様孝行なのね」
そう言いおわると、疲れ果てたように椅子の上で体をずらせた。狩の収穫の死んだ雉子の姿をそれが思わせた。


自宅まで送ってと欲したのは甘い誘い。狩の収穫は男が獲物を求めでは女を仕留めたことを暗示し、撃たれて死んだ雉子は恭子だ。後は男に食べられるだけ。恭子の心の奥底では帰るのかこのまま次の進展を期待しているのかどちらなのかは次の行為で明らかにされる

恭子は急に心はやりを感じた。今晩家に来て彼女を待っている筈の客に会うまいと思ったのである。

急な心はやりはなぜ起こったのか?
有楽町界隈の靴屋に来たのが7時。靴のでき具合をみて満足し、悠一をお茶に誘い、店が閉まりそうなころ合いで何軒かさがす。そして二人の関係は佳境に入る。今晩の来客は何時に会う予定に決めていたのか?舞踏靴のことしか考えられない一日を送り、夜の7時に靴屋に行く。その後来客の予定などたいしたことではなかった。だが、靴屋で悠一に会ってしまった。このまま悠一とままならぬ関係になった時はスッポかせば客は何と言うか分らない。心はやりは、悠一が雉子に手を出す前に、すばやく悠一に気づかれずに断らねばなばらない案件となった。期待が高まるだけ焦って心はやりがする。
電話が終わって、心はやりは収まった。

(そとは)雨である。生憎と雨具の用意がない。彼女は果敢な気持ちになった。

雨具もないのに果敢な気持ちになったとはどういうことであろう。果敢とは、「図太い、大胆な、冒険的な、向こう見ずな」などなどの意味であるが、気持ちが図太くなったとはどういうことなのか。万全の対策が出来、気が大きくなったと解釈できる。悠一とままならぬ関係が出来たとしても大丈夫と心の安心が図太く感じたのであろう。
 この後、鏑木夫人の出現で頓挫したが、悠一との結びつきが確認できたし
「・・・悠ちゃんタクシーを拾って下さらない」とこれ見よがしに2人の間柄を鏑木夫人に見せ付けた。越度のない献立表でここまで料理が始まったのだから、次にはおいしく食べられるのだから、今日のところはこれまでと「・・・何の言葉も残さずに立ち去った。」 悠一にとっては、「悠ちゃん」と呼ばれたので面喰って・・とあるから、二人のやり取りで明らかに恭子のほうが深まりは強い。恭子の亡くなった親友の思い出も、ダンスも、靴も、何もかもが香りにブレンドされて恭子に迫った結果である。すべてを包み込み個々の匂いを際立たせて自らの作用に引き込むジャコウを彷彿とさせる。
恭子は、肝心の舞踏靴を置き忘れて帰ってしまった。この一点だけを見ても強力なフェロモン作用を見てとれる。本日の唯一の関心事が舞踏靴で、それを確かめ取りにいっているにもかかわらず悠一と会ったことでケロッと忘れ持ち帰っていない。店をでる際の鏑木夫人とのやり取りでも自らが「心の裕り」を感じている。悠一の香りに酩酊して忘れたのか

二人とも恭子の忘れものを、ただの一足の靴だとしか考えていない。その実恭子が置き忘れたのは、悠一に会うまで今日一日の彼女の生活の唯一の関心事であった或るものだったのである。

と表現している。文面通り、「或るもの」は靴ではない。舞踏靴のこだわりそのものが悠一の香りに引きずられた事を示す象徴だったとも思われる。「唯一の関心事」をと思わせているが実は別にある。それは何であろうか?「もの」とすれば実体があるはずだが文章の中で見つけきれない。ひょっとして三島は「忘れ物」を使ったのでそれに引きずられて「もの」とつづったのか。「もの」以外では、恭子のやり残した残留思念などは鏑木夫人に勝ちほっこって店を出たのだからやり残した「事」や「思い」は当然ある。そのことを三島は言っているのか?
「・・・悠一に会うまで今日一日の彼女の生活の唯一の関心事・・・」は悠一の匂いではなかったか。意識していないが心の奥からの真実の叫びとして、その言葉の奥底に真意があるのだと暗示しているごとくとれる。心の奥底に複雑に絡みあった思いがさらに言葉に表現される過程でまた変更され屈曲されて表出してくる。言葉に吟味に吟味を重ねる天才的な三島だからこそ、その細部の動きを読み取れるまでに洗練されて作品と仕上げている。驚嘆せざるを得ない。
 この後、鏑木夫人はお詫びにと仕立てやで悠一の寸法を測らせる。次の文章で三島が鏑木夫人の髪を梳いた行動をへたなサル芝居としているのか、

洋服を作ってくれることで、一寸した月並みな「与える喜び」に酔っている女の顔を、彼は猿のようだと思って眺めた。正直のところ、どんな美人も女である限りこの青年には猿としか見えなかったのである。
 鏑木夫人は笑うことで敗れ、黙ることで敗れ、喋ることで敗れ、贈物をすることで敗れ、時々盗むように彼の横顔を見つめることで敗れ、朗らかさを装うことで敗れ、憂鬱を衒うことで敗れていた。近いうちにこの決して泣かない女が、涙で敗れることにもなるにちがいない。・・・悠一が上着を乱暴に着るときに、内かくしから櫛を落とした。悠一よりも仕立屋よりも先に、夫人がすばやく身を傾けてこれを拾った。拾ってから、彼女は自分自身のこのへり下り方におどろいた。
「どうも」
「大きな櫛ね。使いよさそうね」
 鏑木夫人は持主の手にかえす前に、二度三度あらあらしく自分の髪を梳いた。梳く櫛に引かれる髪は、女の目をやや引きつらせ、その眼尻にはりつめた潤みを光らせた。


悠一は鏑木夫人の顔を猿のようだと思っている。悠一が落とした櫛を拾うところから自分の髪を梳く動作までの事を、三島はサル同様の行動として表現しているのか、それとも何らかの意味を込めて紹介しているのか?咄嗟に拾ってしまって鏑木夫人は「自分自身のへり下り方に」驚いている。そればかりかその櫛を使って自らの髪を梳いている。こんなことを貴婦人が、いや、女がするのだろうか?普通はいくら心が傾いたとはいえ人の櫛は使わない。女の櫛を使う不精な男はいるかもしれない。それと逆のことを鏑木夫人がするのだから、猿みたいに滑稽な行動として三島には映ったのであろう。だが男の櫛にはポマードが付いている。内ポケットに入れているのは何かの時に櫛梳るのだから濃厚である。使えば女の香りにポマードの匂いが上乗せされる。女が男の使うポマードの移香をもらうことは、深い男女関係を外にわざわざ知らせること同じだ。だからこの梳る行為は滑稽や奇妙以前に厳禁なのである。
 一つ前の第九章で三島は、移香について既に書いている。同性愛的性行為の相手に

「悠一は学生の髪に顔を埋めた。油をつけない髪のヘアー・ローションの香りが快かった。」

そのあと、自宅に戻り康子と活動写真を見に出かけ、狭い椅子で自然と悠一の彼の肩に凭れかけ
ふと顔を離して、聴耳を立てる犬のような聡明な目になった。
「いい匂いだこと。へアー.ローションをつけていらっしゃるのね」
それは別段、女の匂いではなかった。


いつもと違うがなにか安心感がある。雌の移香りではないのでナチュラルにいい匂いと言えた。これが雌の匂いだったら、おんなの追及がはじまるであろう。逆も真なりである。女の香りを漂わせる男はモテルが、男の香りを漂わせる女は性的だらしなさ、不倫、淫売などなどの悪評でありヤリマン、共同便所とさげすまされる。おんなが一番嫌う醜聞となるのだ。鏑木夫人のとった行為はサルみたいではすまない意味を持っているのだ。
 無意識のうちにこのような行為をしたとすると、その行為にはもっと深い行動の仕組みが隠されていると考えられる。その仕組みとはフェロモンのなせる技である。

梳く櫛に引かれる髪は、女の目をややひきつらせて、その目尻にはりつめた潤みをひからせた。

まさか、引っ張られた髪の痛さに目が潤んだのではあるまい。「はりつめた」「悠一を見る河田の目に欲望の潤んでいる」とも表現している。

 その後、康子が妊娠2カ月との診断を受けた11月10日までに恭子とは3回会っている。 1回目は靴を返して、めずらしい手巾を2枚渡した。恭子はうれしくて洗ってはいつも交互に愛用している。2回目は河豚料理やで3回目は俊輔の差金どうりに鏑木夫人、恭子、悠一の鉢合わさせて、ハンケチと瑪瑙の耳飾りの小物で女同志の邪推・嫉妬の嵐を巻き起こさせた。


 悲痛なまでに悠一からの電話を待っている恭子に悠一は対応しない。その結果さっさと新しい恋人を作って、亭主との別れ話に進んでいるとの俊輔の話。そして悠一を忘れることのできない焦燥と俊輔は見抜いていて、恭子に電話するように指示する。
 電話を受けた恭子は、

・・いつが都合がいいのわるいのとしばらくすねた。しかし、悠一が電話を切ろうとすると、あわてて約束の場所と時間を言った。
 約束の日に悠一は十五分もおくれて恭子の待っている店へ行ったが、恭子はじれて店の前の舗道に立って待っていた。いきなり悠一の腕を抓って、いじわると言った。・・・
 とある街角まで来ると、一台の新型ルノオが停まっていて、運転台で煙草をくゆらしていた男が、ものぐさそうに内部から扉をあけはなした。 ・・・・このたびの浮っ調子に、丁度蹠を灼けた鉄板の上で灼かれて跳ねまわる人の軽佻に似たものを、嗅ぎつけた人は一人もなかった。

「禁色」の中で、これぞフェロモンの作用を表現している章は「第二十二章 誘惑者」である。三島の筋立ては巧妙だ。その流れにフェロモンの作用で補完していくとより小説の元になったモデルを映し取って文学的表現にした三島の精緻さが浮き彫りとなる。その筋の運びと裏に隠されたフェロモン作用を見ていこう。
初めは例のごとく俊輔の手紙による指示である。悠一はこの行動指令に魅力を感じて実行した。恭子が悠一と待ち合わせたのは、宮城の中にある国際テニス倶楽部のクラブ・ハウスである。テニス友達が皆帰って、恭子は一人で椅子に残った。フェロモンの作用はここから始まっている
香水ブラック・サテンの香りは・・・、彼女の上気した頬のまわりに、軽い懸念のように立迷った。少しつけすぎたかしら、と彼女は思った。紺の布地の手提から、手鏡をとり出して、見た。鏡は香水の匂いを映すことはできない。しかし彼女は満足してそれを蔵った。

「舶来品」がまだ貴重だった時代である。香水をつけすぎたと思って、手鏡で調べるなどオカシイから、三島は「匂いを映すことはできない」とはっきり述べている。そのあとで「満足して」と繋がると説明がつかない。

穂高恭子は今ではちっとも悠一を愛していないと謂ってよかった。
愛していないとなると、そんな相手と会うのにつけ過ぎるぐらい香水を振りまいてアホーだなと思えてくる。さらに
『もう一ト月半も会っていない』と彼女は考えた。『それが昨日のようだ。その間一度もあの人のことを考えたことがない』
と愛していないばかりか考えたこともないとなると、なんと支離滅裂な女なのだろうと思ってしまう。瑪瑙の耳飾で嫉妬に狂い、「(悠一が)愛情とは申さなくとも友情さえお持ちならば、あらぬ疑いにかられている女の苦しみを、お見過ごしにはなるまいと思って」手紙を出した恭子がである。 このあたりを三島は独特の解釈を披露する。恭子の性格的義務として「自分の心を決して見張らない」ようにしている。だから「その心の深い部分で、かなり誠実な自己欺瞞の衝動が、突然燃え上がってまた掻き消えたが、それは彼女自身も気づかれずに過ぎた」と文学的解釈を読者に強いてる。
 悠一とダンスを踊ってから、夢の中でさえ実感させられた匂いは深く恭子の意識下に刻まれ、忘れようにも忘れられないばかりか無意識に捜し求めてしまう魅惑的な匂いとなってしまっている。次の偶然の出会いで意識的に求めた「この匂い!」と再確認できた。プレゼントされたきれいなハンカチはこの匂いが恭子を支配していく方向と同じだからうれしいのである。次の逢引の河豚料理屋のお座敷で、畳に落とした瑪瑙の耳飾は逆方向の事柄だから「あらぬ疑いにかられて」「女の苦しみ」味わうことになる。次のデートの誘いでも、「都合がいいのわるいの」と優柔不断さを見せても、悠一が電話を切ろうとすると会う約束の日時を言ってみたり、約束の店に15分遅れていくと、店の外で待ってていきなり悠一の腕を抓って、意地悪と言ったりする。もっと端的なのは付き合っている男に新型のルノウを運転させての別れ際に
「今日のことお怒りにならないでね、並木さんはただのおともだちよ」
といってしまう。まさにあなたは特別な人よ、と白状している。すべては恋するオトメの表現である。その恋するオトメが会っていない一月半の間、恋しい彼のことを考えたことがないということがあろうか!!恭子が悠一の事で動揺のしっぱなしである。
 恭子が意識的に自我を働かせて抑圧しようとも、悠一の香りは夢にまでかぐのであるからこの一月半に「突然炎え上がって」きたであろう。だが「また掻き消えた」のではない。記憶はされているが、意識的な想起がブロックされているのである。すべてが悠一の匂いが起こさせていることと読むと十全にそして言葉ひとつ一つが意味を持ってくる。
 ルノオで悠一と同席したのも後部座席である。恭子は助手席でも不自然さはない。いや返って付き合っている並木への配慮も考えれば助手席が適当である。そうでないので並木に対してあまりに残酷である(1ヶ月半後に恭子は並木に捨てられたと実感しているくだりがある)。助手席と後部座席では匂いの濃度が違う。ルノオが左ハンドルで歩道から乗せるには後部座席が適当だったこともあろう。それを考慮したとしても、匂いに誘導されて恭子はためらっている悠一を促して車の後部座席に乗せ、隣に坐った。むろん匂いは嗅げる。待ち合わせに遅れて「いじわる」と言ったのも匂いを待っていたのにこんなに遅らせるなんて「いじわる」がぴったりとくる。これ以外に「いじわる」の言葉をどう説明できるのか。むろんちょっとしたやり取りだよで済ますこともできる。そこにはなんら言葉の連続性や神秘性がない。三島だからこそ「いじわる」と表現できたのである。
 クラブハウスでの待ち合わせの初めに、
テニスをする。着物を着換える。食事をする。テニス友達と雑談する・・ と淡々と述べた後、一人で残ったときなぜ香水が出てくるのか。すぐに会うことになる悠一の匂いが関与しているはず。これから会う悠一の薫りに誘導されて恭子自身も関心が薫りのことに向かう。香水は舶来品のブラック・サテンである。無意識のうちに使いすぎてしまう。香りが立迷うと、付け過ぎようと悠一の香りに誘導される危険性を察知しているがゆえに意識が忠告を発する。しかし匂いの導く方向と逆にはしない。匂いとは関係のない鏡を見る動作でお茶をにごす。
鏡は香水の匂いを映すことはできない。 この動作は、香水を付け過ぎたことに対して、無意味な動作で代償しただけである。
「彼女は満足して」その動作をストップした。「満足」は匂いの誘導に従ったので情動脳から感情脳へ与えられた御褒美である。
この後の服装など身だしなみには、恭子の感情が入っていない。つまり匂いの誘導には関係がないから感情が表現されないのである。
・・・一ト月半。恭子は何をして暮らしたのだろう。無数のダンス、無数の映画・・・ まるで、試験が控えていて、その勉強から逃れるためにいろいろやりたいことがあって勉強に集中できないと言い訳するわがままな子と同じ心理的行動である。さて、恭子は何を回避しようとしているのか。回避したらうれしいのかうれしくないのか。回避的行動は恭子に味気ない感情を誘発する。そして無数の気まぐれ。匂いに誘導されることを大脳皮質による意識も意思も、大脳辺縁系による感情も逃げようとするが、脳幹に作用している情動としての匂いの誘導はいかんともしがたい。ただ人間が本能を抑圧してきているがゆえに素直に性行為に向かう情動は人間として認めることができない。しかし基本的な匂いに誘導される情動に素直に行動しない限り、すべては軽はずみで、その場限りで、無味乾燥なことと感じてしまう。そのあたりが十分に表現されていると思えるのである。
彼女の生活はこんな無数の小粋ながらくたに充ちていた。
としても当然である。
さあ、なんとも思ってもいないはずの悠一が現れた。
恭子は松影の中を歩いてくる悠一の姿を見出した
この後、悠一によって惹起される恭子の感情の揺れを三島は見事に表現している。
丁度頃合の自尊心を持っている彼女は、青年が時刻に遅れず、わざと決められたこんな不便な待合せ場所へやって来たのを見るだけで、すっかり満足して、悠一の不義理を恕すに十分な口実を見つけてしまった。
じつにうまい文学的表現である。だからこそ影に隠れている香りの作用を考察できる。
まず、恭子が「口実を見つける」必要があったのか、そしてあったとしたら何のための口実か。この言葉がなくとも、「不義理を恕した」で十分なはずだ。不義理はなにか「1ヶ月もほったらかし」のことであろう。そして不便な場所に時刻に遅れずきたことが恭子の意にかなったから恕したのだ。だが、これだけでは「すっかり満足して」の坐りが悪い。愛してもいない、なんとも思ってもいない人が不便な場所に定刻にきたところで感動などは無い。まして「満足」するにはもっと過酷な条件をクリアーしたときである。いくら不便といても宮城の中にある国際テニス倶楽部なのだから庶民にとっては望んでも入れない雰囲気のところだ。宮城ですよ、広々としているのであって不便なと思うこと自体不自然だ。あっ、来たね程度か、こんなクラブに来れるなんて素敵でしょと言ってしかるべきであろう。
  「やって来たのを見るだけで、すっかり満足して」はどうして起きたのか。ここは単純に恭子が悠一を見ただけで「すっかり満足」をしたのであって、定刻、不便などは前言の愛していない、なんとも思っていない、考えたこともないと思っている自分に対してすべてひっくり返す名目に使ったまでだ。つまり匂いの誘導に従うための単なる口実であり、無意識のうちに自分の思いを悠一のほうに向くきっかけにしたまでだ。だからこそ『口実をみつけてしまった』と。
 少し猛獣みたいなところが出てきて・・笑っている口に肉食獣の歯の白さを見出し・・近づいて来る若い孤独な獅子のように・・爽やかな風の中を駆けて来た人のような生々しい印象があった、となるとまさに襲いかかる肉食獣を歓迎している。
恭子を見つめて、たじろがない。視線はたぐいないほどやさしく、しかも無礼に、簡潔に、彼の欲望を物語っていたのである

かれの欲望を恭子は目の当たり実感した。そして恭子は考えた。
『収穫はみんな私のところへ来るわけだ』
なにが!? 彼の欲望とは何だ。なにを収穫と言っているのか。
恭子は、悠一という肉食獣が欲望を露わにして私に向かってくる。彼は鏑木家からはフリーとなったので、肉食獣は私のものだ、彼の欲望を独占できると言う収穫が手に入ってくると納得したのだ。
「きょうは悠ちゃん、お暇なの?」
とつい先走ってしまった。匂いの誘導に流されれば彼の帰宅時間が気になる。時間の制限がなければ、今日は目いっぱい匂いの誘導するところに時間をいっぱい使える。意識することなく言葉に出てしまった。そうでなければ、ここでの会話の並びは
「ええ一日暇です」
「・・・何の御用だったの? あたくしに」
「別に。・・・ただ逢いたくなったから」
「お上手」
二人は相談して、映画や食事やダンスの極く月並な計画を考え出し

となるほうが当初の確認と今後の誘いと話の流れが自然である。まずあった時は「・・・何の御用だったの? あたくしに」であって、誘ったほうが声をかけるのならよいのだが、恭子から問うのはそれなりの期待感があるからである。何への期待か。この後、悠一の状態は「・・・今日の悠一には、妙な言葉だが、たしかに「実感」があった。自分が希うような姿に化身した人間の確信のようなものが、今日の彼には見られた。」であり、恭子にとっては「この実感は、いわばこの実質の賦与は、恭子にとってとりわけ重要だった。今までこの美青年は、官能性の断片から出来上っているように見えていたからである。たとえばその俊敏な眉、深い憂わしい目、見事な鼻梁、初々しい唇は、恭子の目にいつも悦びを与えた」とする。そして「あなたって、どう見ても奥さんがいらっしゃるように見えないわね」と言葉に出てしまう。裏を返せば「居らっしゃらないものとして実行しますよ」となる。「恭子はどんな不合理をも物ともせず、どんな背理にも目をつぶって、いつも自分が相手から愛されているという確信を忘れなかった。」にもかかわらず「自分が並木に捨てられた」 と理解し「悠一も、鏑木夫人に捨てられたのだと考えたが、そう考えることがこの青年に対する親しみを揩キばかりであった。」と同病あい憐れむのごとく感情はあり、悠一がやさしく気を遣い、「ほかの女には目もくれずに恭子一人を見飽かないその風情を見ては、恭子は至極当然のような気持がした。つまり幸福だったのである。」と悠一に傾いている。確実に恭子のこころの上部構造のガードはほころびていく。
それでもなお、三島は
・・・冗くもいうように、恭子はもはやちっとも悠一を愛していないと言ってよかった。
と念押している。
それに続く数寄屋橋近傍のM倶楽部の描写で「大賭博で手入れがあった」M倶楽部に屯している米人やユダヤ人を、「利鞘をかせぐ」、「阿片取引」、「経歴には、東洋という黒いインクの汚点の一行が残る」、「小さな醜い光栄の臭いを免れない」連中だとしている。そこで上げられた地名の多くは支那のもので否定的なイメージ与えている。
このナイトクラブの装飾は万事支那風で、恭子は支那服を着てこなかったことを残念がった。
と表現する。昼のテニスの練習に支那服を着ていくのか?昼と夜をごっちゃにする恭子ではあるまい。着てこなかったではなく、着換えてこなかったならまだましだ。何で装飾を見て着物に関心が移ったのか?まさか数人しかいない日本人の客である新橋の芸妓が支那服で似合っていたからとは言わないであろう。はたして『支那服』は装飾と同一の方がいいとの外見だけでのことであろうか。いいとしても残念の思いは生じない。装飾と一致していないので自分の美意識が満足できずに残念と思うところまで達しないと使えない。どうして恭子の頭に『支那服』が浮かんだのか、そして『残念がった』のか
むろんこの時までに恭子は悠一の匂いを感じている。クラブではダンスが目の前にある。ダンスと言えば鏑木家の慈善パーティーでのダンス。あの時感じた下腹部の接触感覚。それが思い出されて『支那服』と思ったのであろう。この性の情動に上部構造は正直には同意しがたく、外装の類似性をカモフラージュに「着てくればよかった」と方向を変えさせた。下部構造は外装にあった支那服を着たところで悠一が喜ぶのかも疑問だし二人に関係がないと感じ取ってさらに修正した。あの接触感覚を求めていることを上部構造に気づかないように「着てこなかったことを残念がった」と否定的に表現して何で残念だったかを不明瞭にして、性的情動を生き伸ばさせた。
二人は呑んだり、食べたり、踊ったりした。
とさりげなく「踊ったりした」とつづけた。そのダンスによって
二人とも十分若くて、恭子はこの若さの共感によって良人を忘れた。
と普通は「呑んだ」でアルコールが回って「良人を忘れた」となるのだが、「若さの共感」に因るとする。ではアルコール酩酊以上に良人を忘れさす作用をもたらした「若さの共感」とは何か。次にどんなに美味しく「食べた」たりしても、良人を忘れるとの表現はあり得ない。残るは「踊ったり」が本命である。三島は「呑んだり、食べたり、踊ったりした」と繰り返しのされる動作を表現している。先ほど述べたように悠一の匂いで恭子はメロメロの状態である。前回のようにただ5曲連続してホールドしたまま踊ったのではない。魅惑的な香は少し離れたり接近したりで強弱が生じる。接触しては離れ、離れては接触する。香と下腹部の心地よい接触の繰り返しに、さすがの恭子も良人を忘れたとまで言ってしまうことになった。
 ここまで恭子が性衝動に誘導され「良人を忘れた」となるとさすがに揺れ戻しが起きる。つまり恭子の行動は性道徳に反しているが故に抑制がかかり良人のことが浮かび上がる。ここまで高かまってしまうと性衝動を消すのも大変だし、良人を裏切る心理的障害も高まる一方だ。どちらに傾くのか。
こういう特別の理由がなくても、彼女にとって良人を忘れることは造作もなかった。目をつぶって忘れようと思うと、良人の前でさえそれができるのである。丁度自在に腕の関節を外してみせるあの見世物師のように。
と良人を忘れるほうを選んだ。だがこの論理展開は奇妙だ!!良人を裏切ってもよいと思えるような特別な理由が起こっているのに、その理由がなくてもと一般化し、性行動に突き動かされるている状況を温存してしまった。良人の眼の前でもほかのことに注意が向き良人のことを忘れてしまうなど当り前であろう。つまりここでは良人を忘れることに論旨を置いて、性衝動を不問にした。だがその筋違いの言い訳で十分なのか、三島は続けて
しかし悠一がこんなに積極的に、喜ばしく愛の身振を示したことは、これがはじめてである。彼がこんなに雄々しく彼女に迫ろうとするのを見たのははじめてである。
と良人を忘れた言い訳のすぐ後で「はじめてである」を強調する。なぜだろうか?喜ばしい愛の身振りは初めて会った鏑木家主催の舞踏会で踊ったとき、そして窓際に導かれたときに示されている。恭子は第二回目のときも
恭子はのみならず誤算を起こした。悠一の心は以前から彼女のほうへ近づいている。
と思ってたのだ。雄々しく彼女に迫ってくると感じたことすら、明るいうちの今日のデートの屋外のテニス倶楽部で最初から味わっている。そればかりではない彼の欲望という『収穫はみんなわたしのところは来るわけだ』と実感しているにもかかわらずだ。 貞操が誘拐されるうれしい危機感に対して筋違いの言い訳では軽すぎるのだ。放置すら修正を迫られたのだ。これまでの実感・実態と異なっても無理やり「はじめてである」と強調するのは仕切り直しまで後退させて妻としての操を立てたのだ。
こういう態度に出られると却って熱のさめるのが恭子の常だ
つまり迫ってくる男に興ざめするのが今までの私、恭子だ。と我に返る
が、今の恭子は、たまたま自分の漂うような状態に相手が忠実に答えたのだと思っていた。
相手が初めて迫ってくるけど私は大丈夫。迫って来ているので「仕切り直し」で事をすすめるところまで後退した。
『私が愛さなくなるときっと向うが夢中になるんだから』
と。さらに、燃え上っているのは悠一であって人妻である私は身をくずさず妻としての貞操をまもっているとしている。でも「愛さなくなっている」は前には愛していたことを含んでいる。これは一体どういうことか。仕切り直しまで後退しながらも深いところにある情動は本音をきずかれないように暴露しする。
―――彼女は少しも嫌悪をまじえずにそう考えた。
その結末を否定の否定で肯定として、好意的にわざわざはじめての事として迫ってくる悠一に対応する。
恭子の呑んだ臙脂いろのスロウ・ジンは、その踊りに酩酊の滑らかさを与え、青年に凭れながら、羽毛よりも軽い自分の体が、ほとんど床に足をつけて踊っているとは思われなかった。
嘗て競技会で三等をとった悠一のダンスは大そう巧く、その胸はまことに誠実に恭子の小さな柔かい人工の胸を支えていた。・・・恭子はといえば若者の肩ごしに、・・・卓上の蝋燭の火にゆらいでいる、磨硝子の上の小さな緑や黄や紅や藍いろの竜を見た。
「あのとき、君の支那服に、大きな竜の模様があったね」踊りながら悠一がそう言った。

やっと相手の悠一の口から支那服が発せられた。三島は
こういう暗合は、ほとんどーつのものになった感情の親近からしか生まれない。
とする。素晴らしい表現である。ほとんど一つのものになった「感情」から生まれたのではない、「親近」から生まれたのだ。親近を追加してその先にある性的一体感をも暗示している。だからこそ
この些細な秘密をとっておきたくなって、恭子は、今丁度私も竜のことを考えていた、とは打明けず
に、白いサテンの地紋が竜であったと具体的に述べるだけで済ました。
悠一の次の手は顔→唇へと誘惑の手は伸びてゆく。まず顔をほめる
「・・・僕、君のちょっと笑った顔が大好きなんだ・・・」
20初めの男が30過ぎの素敵な女性に「君」とはなんとアンバランスなことか。恭子のプライドは無くなっている。
 このお世辞は恭子の心琴に深く触れた。・・・
褒められた女は、精神的に、ほとんど売淫の当為を感じる。

と、仕切り直しののっけから勝負は着いていた。人間は体の周囲に密着して自らが仕切っている固有空間を持っている。その空間には他人は入れさせない。ところがダンスはその空間をなくすことで男女の共同した動きに美を醸し出すものだ。恭子の固有空間は気持ちよく破られている。次は当然皮膚というからだの表層が自他の境となる。布を介した皮膚感覚も共有している。残るはネイキッドの接触である。それは
そこで紳士的な悠ーは、ほかの外人のスポーティヴな仕方を模して、ふとした微笑の唇を女の唇に触れることを忘れなかった。
と何なく突破した。二人は皮膚感覚を共有する関係に深まったが軽かった。だから恭子は駄々をこねる。触れただけでは蛇の生殺しだ、期待はもっと大きい。
恭子は、軽やかなのであって、決してだらしがないのではない。ダンスと洋酒と、この植民地風な倶楽部の影響は、恭子をロマンチックにするには足りなかった。
でも軽く一線を突破しても飛躍するまでには至らない。接触を広く深くしなければ足りないのである。だが感情は動揺して自律性を放棄し始めた。
ただ彼女は少しばかりやさしくなりすぎ、涙脆いほど同情的になりすぎていたのである。
彼女はしんそこから世の男という男を、可哀想な存在だと思っていた

(三島は、彼女の宗教的偏見であると断言している)。
彼女が悠ーの裡に発見しえた唯ーのものは、彼の「在り来りな若さ」であった。美というものは本来最も独創から遠いものである以上、この美青年のどこに独創的なものがありえたであろう!
どっぷりとロマンチックにははまっていない恭子の仇花的思考である。そして性への揺り戻しである。
・・・恭子は胸苦しいほどの憐憫に慄え、男の中の孤独、男の中の動物的な飢餓、すべての男をいくらか悲劇的に見せているあの欲望による束縛感に対して、多少赤十字風な博愛の涙を灌ぎたい気持になった。
匂いとダンスのホールディングが解かれると当然のごとく性への誘導力は弱まる。
ところがこんな大げさな情感も、席にかかえると大分静まった。二人はあんまり話すことがなかった。
だが、話すことが無くなるのは性交への進行を阻害するものではない。皮膚の接触を広く深くと進む時の軽いくぼみみたいなものだ。人のいない環境では深みにはまるのであるが、人前なので広げる以外にはない。悠一はテクニッシャンだ。
手持無沙汰な顔をしていた悠ーは、恭子の腕に触れる口実を見出した
二人は腕時計に視点を向けたが、このような状況になると時間感覚にも影響が出てくるらしい。無論上部構造の働きにも狂いが生じてくる。三島はここを説明なしで理解させる。
今何時、と恭子がきいた。
十時十分前・・ショウを見るためには、なお二時間の余も待たなければならなかった
「河岸を変えましょうか」
「そうね」

と、女性の場合帰宅時間が気になるから聞くのが当然でここまででは、上部構造の狂いは見つけられない。しかし河岸を変えるのはプレイボーイの尋常手段である。それにやすやすと同意する恭子はもっと深い接触を望んでいるとも分析できる。つまりこの時には帰る時間をおぼろげながら恭子の頭にはあるはずなのに、残り時間が2時間余りあるからと言って河岸を変えると帰宅時間がもっと遅くなってしまう。帰宅時間が遅れてももっと接触を深めたいとの暗黙の同意に思える。
―――彼女はもうー度時計を見た。良人は今夜は麻雀で午前零時にならなければ帰宅しない。それまでに帰っていればいいわけである。
今は10時10〜15分前。ショウの始まる時間は「二時間の余」だから12時開演。とすると12時前には帰へることになるから開演の時には店にいないのである。「待たなければならなかった」は不適切で要らないか「開演までは居られない」の方が正解となる。開演まで2時間待たなければならなかったと判断したのはだれか?悠一か恭子か?それとも単にショウの始まる時間を暗示するためか?恭子は時計を見てから思ったのだから、悠一だけでなく恭子も同様の判断したであろう。帰宅のことを考えてみると、おおむねあと1時間後の11時頃に店を出て11時半には自宅に着く、帰ってから服も着替えるであろう、酩酊もさますことも必要であろう、悠一による高ぶりを収めるにも時間を30分ぐらい持つ。良人の帰宅を気持ちの余裕を持って上手に迎えられるはずである。シラフだとすると二人で居られる時間は1時間ちょっとと判断するはず。恭子の酔いは明確である。ここは恭子の酩酊状態を上手に表現していると見る。それと同時に暗黙の同意は思いから帰宅が遅れる可能性の高い行動へと深まっている。
恭子は立上った。すると軽いよろめきが酩酊をしらせた。悠一が気がついて、その腕をとる。恭子は深い砂の上を歩いているような心地である。
ここは恭子の酔いを感知している悠一は場所を変えて、二人の皮膚感覚を広げ深めていく深謀遠慮を実行しているのだ。恭子も悠一もそれぞれ別々に性行動へ導かれていく。そこに作用しているのに悠一の匂いが関与していないはずはない。
自動車のなかで、恭子は莫迦にェ大な気持になって、悠一の唇のすぐそばへ自分の唇をもって行った。これに応えた青年の唇には、快い無礼な力があった。
恭子も誘いをかけるが、まだ「莫迦にェ大な気持になって」と無駄な言い訳を付加する。同意はさらに進んで接触前の接近行動をとるまでになった。そして悠一はしっかりと答えた。恭子の突き動かされる情動そして感情は相手である悠一が受け入れた。しかも快い無礼な力をもって答えてくれた。「快い無礼な力」とは唇からさらに深化するぞとの意思の表れである。恭子は感動して随喜の涙が潤んでくる。
彼の腕に抱かれたその顔のうえに、・・・涙だ・・・すると悠ーは唇をここに触れ、唇は女の涙を吸った。
感動の涙も好きな悠一に吸われた。悠一が認めた。感極まりなさは目から喉に移った
・・・よくききとれない声で悠一の名を畿度か呼んだ。
相手を求める感情の高まりは、タクシーの中だから大きな声では表現できない。やっと手に入れるであろう悠一の名前が抑制しても漏れ出てしまう。
・・・かすかに動いていた唇はまた忽ちあの無礼な力でふさがれようと待ち焦がれ、そしてそれは忠実に塞がれた。
もっと唇から深化した性的接触へ導いてほしい、それを今や待ち焦がれている。
しかし二度目の接吻には、了解ずみのやさしさがあった。
さすがに悠一である。口付けには応じても前回のごとく快い強引さや犯されるが如くの乱暴さを付加しない。
そのことがほんのすこし恭子の期待にそむき、
恭子の期待をすこし焦らすことで待ち焦がれる情動にゆさぶりをかけた。
「我に返った」ふりをする余裕を与えた。女は身を起して、悠一の腕をやさしく退けた。 恭子は椅子に浅く掛け、反り身がちの姿勢で、片手にかざした手鏡に顔を映した。目はやや紅く潤んでいる。髪はやや乱れている。顔を直しながら、
いったんはほんの少し我に返ったように、次の言葉を言ってしまった。
「こんなことをしていたら、どうなるかわかりゃしないわ。よしましょうね、もう、こんなこと」
こんなこととは性交へ至る道で、どうなるかわかりゃしないは性交してしまうことである。
そして、こんなことを続けていると進路変更は恭子自身では制御不能と感じている言葉である。そこにはすでに意思としての拒否はなく許容が隠されている。
彼女は硬ばった項を向けている中年の運転手のほうを盗むように見た。この貞淑な世間並の心は、運転台の古びた紺の背広の背中に背を向けている世間の姿を見たのである。
もうすでに、恭子が発した言葉には世間並みの貞淑な心に背を向けている。自動車の中での抱擁・口付けそのものが不道徳で世間並みから離反している。その中でまともに世間を体現しているのは車を運転している運転手である。彼の背中が恭子の行為を拒否している。
自宅に帰るといわない限り運転手の背中に拒否を感じてしまう。感じなくなるのには悠一の快い無礼な力がもっと必要なのだ。
築地の外人経営のナイトクラブで、恭子は口ぐせのように、「早くかえらなくちゃ」と操り返した。
はやくかえらなくちゃ、と繰り返して帰らないことは、(不倫に)溺れて口をパクパクしているのと類似している。いくら手足をバタバタしても望んでいる快い敗北がドンドン現実化してきている。
ここは先の支那風なクラブとちがって、諸事米国風のモダンな造作である。そう言いながら、恭子はよく呑んだ。
アルコールで上部構想をマヒさせる行為に拍車がかかる。悠一とのダンスのホールディングと匂いで恭子の最後のあがきへと突き進まされている。
とめどもないことをつぎつぎと考え、考えるそばから何を考えていたのか忘れてしまった。陽気になり踊っていると、ロオラア・スケートが靴の裏についているようのな心地がした。悠一の碗の中で、彼女は苦しげに息をついた、その酩酊の鼓動の急調子は悠一の胸に伝わった。
恭子は完全にギブアップだ。最後の一手は悠一に打ってほしい。そうすれば歓喜の白旗が揚げられる。そのことはホールディングの接触で悠一の下腹部へ、胸へ伝えている。
彼女は踊っている米人の夫婦や兵士を見た。また急に顔を離して、悠一顔をまともに見た。自分が酔っているかどうかとしつこく尋ねた。
恭子はしつこく尋ねているのだ、酔っている、酔っていないと。ではどちらの回答を悠一の言葉でしつこいほど求めていたのか。酔っているのか、酔っていなのか?下心ある男は酔っていないと言って自力で帰宅出来ないところまで飲ませる。相手を読み取れる男は酔っているから休めるところ、酔いを醒ませる静かなところに行こうなどと次のステップに上げる。経験の豊富な男は、酔っているから帰るけど、酔いを醒ましてから返すよと同意する余力を持ってステップを上げる。この段階にレベルアップすると後でラブアフェアーがあるのだから遅れて効いてくるアルコールの作用を考慮に入れなければならない。最高に美味しいのは上部構造、下部構造両者ともラブアフェアーこそ生き物として、女として必要不可欠な歓喜行動がとれる状態での男女関係である。しかるに泥酔では無感覚に等しく二人の積極的協調行動に伴う歓喜はなくなってしまう。さらには急性アルコール中毒で嘔吐の連続をもたらす。死にマグロ状態や中毒にしないようにアルコールの量に敏感なるところだが悠一は止めようとしていない。なぜなのか?
酔っていないと言われると、彼女は大そう安心した。
酔っていると実感していても安心したのは、わずかに残る世間的な上部構造のみである。
それならば赤坂の家まで歩いて帰れると思ったのである。
ちょっと前の、ロオラア・スケートが靴の裏についているようのな心地だったら、歩いてなど帰れないであろう。実感と意識のずれは確実に乖離している。
席に戻る。至極冷静になった心算になる。
接触感覚と匂いの引き潮現象である。減少していくと大切な情念が水漏れするのであろう
得体のしれない恐怖に襲われて、
もっと情念を燃え上がらしてと
いきなり抱き緊めてくれない悠ーを不服そうに見る。
求めているのは快い暴力的な力だ。だが悠一はさらには男の力を発揮しない。
見ているうちに、彼女は何か絆しめをのがれた暗い歓喜が自分の内部から昇ってくるのを感じた。
踊る、休む、呑むの繰り返して内部の性を求める情念は膨張し、香が減少しても見ているだけで行き着く先が浮かび、酩酊の進行で理性の束縛が無くなって、上部構造が認めたくないがゆえに暗く閉じ込められていた歓喜が上昇し体全体に満ち溢れていく。
この美しい青年を、愛してなぞいないと固執する心は、まだ目ざめていた。
としながらも
これほど深い受容の状態を、他のどの男に対しても感じたことがないような気がしたのである。
と今までに無い、上部構造と下部構造が一体化した受容状態が出来上がったことを認めている。主人も他のどの男の部類に入ってるはずである。
西部音楽の勇ましい太古の擦打が、失神に近い快い處脱を彼女に許した。
恭子は直接的な性器の結合が無くとも性的エクスタシーに達した。
ほとんど自然そのものともいうべきこの受容の感情は、・・・恍惚と薄暮に包まれようとするあの感情、恭子はそういう感情に化身した。
恍惚としたエクスタシーに夕暮れの始まりに感じる夕日に包み込まれるように揺れ動いていく抱擁エクスタシーも感じている。
おぼろげに背光の中に動いている彼の若い雄々しい頭部を、彼女は自分の上にひろがる上げ潮のような影のうちに涵してしまえるとはっきり感じた。
ついに悠一の頭部を雄雄しいと感じ、自分の上げ潮のように自分の外に広がる男の受容に包み込まれていく。
彼女の内部は外側へ溢れ出で、内部でもって直に外部に触れた。酩酊のさなかに襲われておののいたのである。
彼女の情念は内部を上昇し体の外まで溢れ、悠一の体をつつみこむが如く外の情念に触れた。二人での一体感が極限に達する中、これ以上は進めないので少しゆり戻しが来た。
しかし彼女は自分が今夜、良人のもとへ帰るであろうことを信じていた。
巧妙である。良人の帰宅前に帰るが良人のもとへ帰ると変わった。前者は物理的、後者は精神的。普通「良人のもとへ帰る」は良人をいったんは離反してまた心が戻る、頼りとすることを意味している。つまり前提としてある意味では裏切りが存在する。恭子の心は良人からはなれ悠一に移っている。しかもその心の帰宅も「あろう」と推測にしてしまっている。情動の所では戻らないこともありえると含みをもたせている。良人からの離反を恭子自身が認めているのだ。
『これが生活だわ!』とこの軽やかな心は叫んだ。
悠一と会わなかった一ト月半。恭子は何をして暮らしたのだろう。とは正反対だ。
『これこそは生活だわ!何というスリルと安堵、何という冒険のきわどい模写、何という想像の満足でしょう!今夜良人の接吻の味わいにこの青年の唇を思い出すこと、何という安全な、しかもこの上もない不貞の快楽でしよう!
恭子の心の離反は戻らないようだ。ここまでくるとまたちょっとした反語がでる
私はここでやめてしまえる。それだけは確実だ。
ナイトクラブへ向かう自動車の中で言った、「どうなるかわかりゃしない」自分ではとめられないと本音をだしていうのに、ここでは恭子は「やめてしまえる」と思っている。だがこの後で続いて出る言葉はなんら倫理道徳を問題にしてない。
・・・ほかのことはどうであれ、手際のよさにかけては・・・』
酩酊しているから意味不明である。
恭子は給仕を呼びとめて、ショウは何時からはじまるかと訊いた。午前零時からと納仕は答えた。ここでもショウが見られないのね。
とショウに絡ませて帰宅時間へ意識が向いた。が倶楽部が違えば11時に開演することはあるので違和感はない。だが時間感覚は麻痺を示している。
十一時半になったら帰らなくちゃ。あと四十分ね」
自動車でこの倶楽部に来る時間、倶楽部で席を取ったり店のボーイなどとの対応、注文してもってくるまでの時間、「早く帰らなくちゃ」と繰り返し、踊ったり、よく呑んだり、とめどもないことをつぎつぎに考えては忘れ、酔っているかとしつこく尋ねたりした時間をかんがえるとたっぷり1時間以上は過ぎていると思える。はっきりと酩酊のさなかであるから当然、時間感覚障害である。その上での40分?あと40分しかないのか、40分はあるのか恭子の思いはどちらであろうか。
そして悠ーを促して又踊った。
恭子と踊ったとき5曲で20分だから、たっぷりと2倍は踊れるから誘ったのだ。
音楽がやみ、二人は席へ帰った。
その思いは中断した。
米人の司会者が金いろの毛と緑柱石の指環のきらめく巨大な指で、拡声器の柱を鷲づかみにして、英語でもって口上をのべた。
ショウは始まってしまった。だが
 恭子は卓布に肱を支え、・・・それを見ている。・・・
ショウを見ていてそれが始まったとは認めていない。この後はことの運びが前後している。酩酊を如実に示している
不意に時計を見た。・・・「もうそろそろね」・・・、「どうしたんでしようショウがー時間早くはじまったなんて」・・・悠ーの左手の腕時計の上へうつむいた。「おかしいのね、おんなじ時間ね」・・・
ここでは、ショウが始まっているのは認めた。だが時計は11時を示している。何か変だとは感じているが、ここまで来ても
恭子はまた踊りを見た。
と思考回路はチグハグである。酩酊は進みよろめきながら立ち上がり、卓につかまりながら歩く。給仕に時間を聞き、12時10分と告げられる。悠一に
「あなた、時計を遅らしたのね」と言ったが恭子は怒らない。
この時間になったら帰宅が良人より遅くなる。恭子のそれまでの目論見は良人より先に帰って逢引きをカモフラジュし貞淑さを表すことであった。それを悠一は姑息的な手段で門限を破らされた。本来なら怒るはずなのに、怒らない。目論見が外れたからもっと時間が使えると感じたから怒れないのかもしれない。なぜ怒らなかったのか
「今からでも遅くはないわ。帰ることよ」
恭子は言葉の上で、貞淑さを振り巻いた。
青年は一寸真面目な顔つきになった。
それはそうだろう、彼の目論見が空かされた言葉を聞いたからだ。でも一寸は押した。
「どうしても?」「ええ、帰るの」・・・悠一の着せかけるコートを着た
恭子の望む快い暴力的な振る舞いはなかった。だが恭子は悠ーとー緒に車に乗った。15分間ぐらい薄かった匂いはまた濃度が高まった。すると街娼たちの姿を思い出した。なぜ娼婦なのか?当然、匂いが高まったことで娼婦の娼婦たる所以を自らも求めよとの指令である。あの悪趣味な色、あの染めたプルネット、あの低い鼻、と卑しめて見ても、
『・・・堅気の女はあんな風にほんとうに美昧しそうに煙草を喫むことはできない。あの煙草のおいしそうだったこと!』
「煙草」に引っ掛けて性的なことが出来る娼婦をうらやましがっている。堅気の女である私にはできない、おいしそうだ直に思っている
車は赤坂へ近づき恭子の自宅が真近になったことを知ると、
それまで無言でいた悠ーが、いきなり彼女を羽交い締めにして、頸筋に顔を埋めてそこに接吻した・・・
ギリギリまでに来て、悠一はあせって快い暴力を振るった。彼の野獣性が発揮された。
恭子は以前幾たびか夢の中で匂ったのと同じポマードの匂いをかぐことができた。
快い暴力にかおりが加わった。クライマックスに達した。だが
『こんなとき、煙草が吸えればねえ』と彼女は考えた。・・・・曇った夜空を見た。
と悠一は最後の一線を越えるまでの力強い積極的な行動は起こさなかった。待ち望んでいた野獣味ある快い暴力は恭子が煙草を吸うとゆう比喩的で待ち焦がれた身も心も裸にされなかった。ゆえに恭子は侘しさが突然として襲う。
突然、すべてをつまらなくしてしまう異様な空白の力を自分の裡に見た。今日は何事もなしに終る。
ここまで来ると最期の求めは恭子がする以外にない。誘いこむような動作が、
・・・彼女の指先は、若者の剃り立ての項に触れた。その粗い触感と熱い肌ざわりには、・・・焚き火のようなまなざしのような目ざましい色があった。
そして同意の言葉が悠ーの耳もとに、この上もないやさしい言葉で囁かれた。
「もういいのよ。家はとっくに過ぎてしまったの」
二人の関係で弱いほうが性的に受け入れる言葉を発するはずである。場所的にも時間的にも逃せば前髪があって後ろ髪がない。後は
青年の目は歓喜にかがやいた。柳橋へ、と運転手に口迅に命じた。・・・恭子はこんなたしなみを外れた決心をしてしまうと、
と続いて、連れ込み宿の部屋で
暗い部屋からもっと暗い部屋へ悠ーは入ってきた。恭子は頑なに目をつぶっていた。そうして、すべてが見事にはじまって、
快感の呻きをあげ
夢のなかに終った。すべてが紛う方ない完璧さを以て終った。
と性的結合を完結した。

凡てがー刻も早く終ってくれること心待ちにしていたのである。・・・悠一の面影は、あまつさえ目を閉じた恭子の思念のうちにあったので、今も彼女は、現実の悠一に触れようとする勇気がなかった。
とある。

などから、性行為の相手が取り替わったがこの点については小説としては成り立つがフェロモンの作用からは疑問である。フェロモンの作用のほかの面を探る。


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