「紫式部日記の消息文部分」
紫式部が一条天皇の中宮彰子の女房として宮仕えしたのは、寛弘2〜3年のことである。宮仕え生活で得た見聞や、感想を寛弘5年秋から寛弘7年正月までの間、日記文形式で書き綴っている。これが所謂紫式部日記であるが、その中に古くから手簡、または消息文とみなされている部分がある。全体の5分の1に当たり、その末尾に「御文にえ書き続け侍らぬこと・・・」と、結びと思われる一節があることから、誰か(親友、娘)に送った消息文が「竄入」したとも考えられている。
ここで紫式部は、同輩女房たちの容姿を無難な程度に誉め、次に人柄の善し悪しを論ずることの難しさを述べたあと、突然として斉院の中将の君の態度を批難する。それに関連して、斉院方と中宮方との気風を比較論評し中宮方の古上臈の女房の処世術の悪さをつき、叱咤激励する。続いて和泉式部、赤染衛門の歌についての批評を行ったあと、清少納言の才気や性格に特異な論鉾をつきつける。このあと一転して、式部自身の心境や人生態度、思い出などを語る。しかし斉院の中将の君に関する部分や清少納言に始まる部分を読んで奇異に感じるのは、批評される者のイメージが伝わってこないことである。文意とは別に斉院の中将の君の私信を盗み読みしての訴状や清少納言への歯に衣を着せぬ酷評からはかえって批評している側の紫式部のイメージが浮き上がってくる感じがする。文面の文字通り読むと、紫式部は執念深く残忍であるとも考えられ、彼女の持つ相手への憎悪や、その対応の卑劣さに驚かされる。偉大な源氏物語という作品から想像される作者像とは相容れない。それ故、その作品と作者との関係で古くから種々な苦慮や配慮がなされて来た。いわく、彼女の酷評は芸術家特有の鋭い感性と批評眼のなせる技であるとし、斉院方の歌の本質や清少納言の枕草子の芸術的批評を熱心に研究し、紫式部の言質を正当化する。また作家としての紫式部と作品である源氏物語の溝は深く、とても凡人では、その関係は理解し難いとし、作品論と作家論を分離する。はたまた、この部分が紫式部の性格を考える上で重要とは考えられても謎が多いため論及を中断し、この部分を敢えて無視して紫式部像を形成したりする。
誠に問題のある箇所であるが、このあとのこの消息文の結びの文中に「けしからぬ人を思ひ、聞こえさすとも、かかるべきことやは侍る」とある。つまり、不都合なと思う人のことを念頭において、あなたに申し上げるにしても、しかし、こんなことを書いてしまってよいものでしょうか、と紫式部自身反省している。親友にも打ち明けて良いかどうか判断に迷うが故のことであって、書いた内容を読みなおしたことであろう。そして、ぎりぎりのところでこの批判の内容を自分の判断として認知し、この消息文の受取人なら打ち明けてもよいと考えたと思われる。それでもなお、「夢にても散り侍らば、いみじからむ」と万一この消息文がはた目にふれましたら実に大変なことでしょう、とその及ぼす悪影響を危倶している。それがために、見ばえの悪い反古に書き散らしていることを理由に「御覧じては疾うたまわらむ」と消息文の返却すら求めている。 紫式部がこの様に語るとき、そこには虚飾も、虚偽もない。紫式部の考えや感情が直接的に表現されているはずである。斉院方の中将の君や清少納言への批判評が批判とすら映らず、かえって紫式部の性格や人間像が行間から伝わってくるのもこの間である。だからと言って、この消息文部分の斉院の中将や清少納言を語る部分の字句だけを取り上げて紫式部の性格を論ずることはさけなければならない。書き手である紫式部自身を理解してくれている相手であるからこそ打ち明けたのに、それ以外の人が見たら、誤解してしまうだろうという彼女の危倶がそのまま現実化されるだけである。それこそ「夢にても散り侍らば、いといみじからむ」である。また、解釈する側の好みに合った紫式部像を語りたいがためにこの部分を無視することは「残らず聞こえさせおかまほしう侍るぞかし」と語る紫式部の意志を踏みにじることになる。
この消息文部分から、紫式部の性格を論ずることは、彼女の意志を尊重することになるが、彼女の危倶する誤解を回避するためには、この消息文部分全体を考慮し、文面の字句を取り上げるだけではなく、迷いながらも公表せざるを得なかった紫式部の心情まで考慮に入れて解釈することが必要とされるのである。