その意味で「匂いのエロティシズム」の著者である鈴木 隆氏の体験した香りは人間におけるフェロモン作用と考えられる。その序章を引用する。 p8,9,10
忘れられないにおいがある。
はるか昔、私が高校生のころの話である。男子校の生徒だった私は、ふだん同じ年ごろの異性というものに接する機会もなく、ただ学校と家とを往復する日々を送っていた。あるとき、クラスの友人の家に遊びに行くことがあった。東京の郊外の多摩川に近い住宅地である。油絵を嗜むその友人はどちらかというと寡黙なたちで、教室では自分の家のことなどあまり話さないのだが、駅まで迎えに来てくれた彼に連れられて行った家はかなり大きなもので、庭の芝生がまぶしかったのを覚えている。
友人の部屋で画集を見たり、ドビュッシーのレコードをかけたり、昔の高校生らしいことをしばらくした後、たぶんお手洗いを借りに私が部屋を離れ、用をたして戻ろうとした途中のことである。
突き当たりの友人の部屋に通ずる廊下の左側の扉が少しだけ開いているのに気がついた。同時に、友人には大学に通うお姉さんがいるということを思い出していた。まだ姿を見かけていないが、そこがお姉さんの部屋のような気がした。部屋にいるのだろうか。胸の鼓動が高まるのを感じながら、その前を通り過ぎるとき部屋の中をのぞいてみた。すぐに人の気配がないのがわかり、大胆にも、私は立ち止まって扉をもう少し広く開げようとしていた。
・・・カーテンが半分ほど開きかかった室内は薄暗く、それだけに一層何か悪いことをしているような気にさせたが、好奇心で一杯になった私は半身を扉の開いた部分から中に入れようとしていた。ベッドの上の乱れた布団やなにげなく置かれたパジャマが目に飛び込んでくるのと、そのにおいを感じたのはほとんど同時だった。いや、においを感じたというより、そのときの印象はにおいに包まれたという感じだった。
それは、若い女のにおいと言ってしまえばそれまでだが、シーツの上に投げだされたしなやかな肢体のような掛け布団の姿と肌触りのよさそうなパジャマから漂う肌のようなにおいと、シャンプーの香りなのか化粧品なのか、髪の毛のにおいのようでもあるなんとも女っぽい香りがまざりあった、心地よい、からだから力の抜けていきそうなにおいであった。その快さに立ち尽くす格好になったが、人に見つかるのを恐れる気持ちが働き、あわてて友人の部屋に戻ったのだった。
なんとも女っぽい香りがまざりあった、心地よい、からだから力の抜けていきそうなにおい。その快さに立ち尽くす格好になってしまう香り。においを感じたというより、においに包まれたという感じ
もう一度あのにおいを嗅ぎたいと心の底から願ってはいたが、あの部屋に入る理由が見つからない。次第に、あのにおいが失ってしまった大切なものに感じられてくる。その後はそわそわと落ち着かず、話も上の空になってじき暇乞いをすることになった。部屋を出て、ここでいいよと帰ろうとするが、もちろん友人は玄関まで送ると言うので廊下を一緒に歩くはめになる。通りしな、わずかでもあのにおいが嗅げたらと期待したものの、あっという間に通り過ぎてしまった。胸の中が苦しいような、切ないような気持になったまま、友人の家を後にした。
もう一度あのにおいを嗅ぎたいと心の底から願ってしまう香り。その後、そわそわと落ち着かず、話も上の空になってしまう。わずかでもあのにおいが嗅げたらと期待してしまう香り。また嗅げないと、胸の中が苦しいような、切ないような気持ちになってしまう香り
友人のお姉さんは名を弥生さんと言った。その日から、私が弥生さんに恋をしたのは言うまでもない。しかし、当時二○歳くらいの、音大に通っていた弥生さんに思いを打ち明ける勇気などそのときの自分にはなかったし、だいいちまだ面識もないのだ。それに、私の想像の中の弥生さんは、あまりにも美しく大人びていて、とても手の届かない高嶺の花のようにしか思えなかった。切ない思いを胸にしまい込むより他はなかったのである。
においを嗅いだだけで恋をしてしまう。弥生さんは、あまりにも美しく大人びていて、とても手の届かない高嶺の花のようにしか思えず、切ない思いを胸にしまい込むより他ない。しかも、まだ面識もない、架空の弥生さんに恋をしてしまう。
友人には大学に通うお姉さんがいるということだけで香りの主を弥生さんと直観する。そこには不確かな状況証拠だということへの疑問もない。まさにこれこそフェロモンであろう。
今でも、あのときのにおいを思い浮かべることができるし、そのにおいを嗅ぐことを想像するだけで、なんとも胸のうちがくすぐったくなるような切なさと同時に、今でははっきりとエロティックなものとわかるある種の心地よさを覚える。あのにおいは、そのとき引き起こした私の胸のうちのざわめきの記憶まで含めて、決して消え去ることはないのである。
今でも、あのときのにおいを思い浮かべることができ、そのにおいを嗅ぐことを想像するだけで、なんとも胸のうちがくすぐったくなるような切なさをおぼえあのにおいは、そのとき引き起こした私の胸のうちのざわめきの記憶まで含めて、決して消え去ることはない
そして、大人になってはっきりとエロティックなものとわかったのである。初恋の思い出と同じく彼の人生に色濃く影響するエロチックな香りである。
ずっと後になって、その友人の結婚式に呼ばれたときに、私は初めて弥生さんと顔を合わせることになる。小さいお子さんを連れた美しい人妻がそこにはいた。けれど、その姿にはあのときの弥生さんのにおいと結びつくものが何もないような気がした。イメージと違った、という意味ではない。私がそのにおいを嗅いで自分の中に育ててしまったものと弥生さん本人とは、そもそもつながりのありようがなかったのだ。それが淋しいというわけではない。むしろ、ああそういうことだったのだな、という妙に納得したような思いがあるだけだった。
友人の結婚式に呼ばれたときに、初めて顔を合わせた弥生さんにはあのにおいと結びつくものが何もないことを知る。そっとわずかに忍び込んだ部屋が弥生さんの部屋だったのか、ほかにお姉さんや同居の女のひとがいたとも確かめられていない。にもかかわらず恋を終わらしてしまう。一人相撲のごとくああそういうことだったのだと納得してしまう。少なくとも調香師なら体臭はわずか数年の内に消失してしまうことなど認めないはずである。にも関わらず無意識に無視してしまう。彼が包まれた香りは意識下に働きかけその素晴らしい体験を想起することに抑圧をかける。
将来自分が香りやにおいの仕事に携わるなどとは夢にも思わずにいた時期に出会った、この異性のにおいの魅力。エロスの底知れぬ深さについてもほとんど何も知らなかったはずの、一七歳の私が初めて体験した、人生という闇の中でにおいとエロスがぶつかりあって閃光をきらめかせる瞬間である。結果的に、その後の私の人生がこのエロスとにおいをめぐって行き惑う営みに等しかったことに気づくと、我がことながら驚きでもあり、また不思議な気分にもなってくる。
奥が深く謎めいていながら、一方で替えようもなく魅力的なこのふたつの世界が、目に見えないところで通底していることを知り始めたのは、実はそれほど古い話ではない。それぞれ別個に私の興味を引いていたのが、ある日その隠された血の近さを疑い始めてからは、夢中になって秘密を追いかけ、そうするうち突然、冒頭の出来事が鮮明によみがえってきたのである。 そして今、私は『匂いのエロティシズム』という本を書こうとしている。
『匂いのエロティシズム』。想起することを抑圧しているだけではない。夢にも思っていなかった香りやにおいの仕事に携ったり結果的に、その後の彼の人生がこのエロスとにおいをめぐって行き惑う営みに等しかったことに気づいたり夢中になって秘密を追いかけ、そうするうち突然、17歳で初めて体験した出来事が鮮明によみがえってくるなど、彼の人生を無意識に決定していったとも言えるのである。
彼が17歳のときに包まれた香りは、本当に弥生さんが発散したものであろうか。それともその部屋を他の女性が使っていたのかつまり誰の香りかを確かめるのが『匂いのエロティシズム』の本質に迫る最短距離であろう。
弥生さんが張本人としても友人の結婚式ではまだ弥生さんは20代であろう、フェロモンは特徴ある体臭であるからそんな若い時に消失するのは不自然である。発散されるフェロモン量に日内的な増減があったりすることは考えられる。また種族保存が満たされたための減弱のこともあろう。その後の弥生さんとの接触がさらなるフェロモンの特徴をみつけることがでるはずだ。さらに友人は弥生さんの香りを知っているのか、弥生さんの御主人はどうなのか?
このようにフェロモン解明の入口に居るのに何とも歯がゆい。このチャンスを逃すと痛恨の極みとなってしまう。人間におけるフェロモンの作用(彼の言うエロモン)を極めていく鈴木氏なのに何か意識下で行動抑制が働いているとも思える。それはフェロモンそのものの作用なのか、意識がフェロモンに動かされていることをマスクしているのか。彼が言うごとく「人間とフェロモンとの特殊な関係が隠されている」としか思えない。「人間の生殖行動が、フェロモンを介してコミュニケートしている多くの生物種とは隔絶した複雑さをもつ」のは何故かを示している。
女性の香りといえば、たとえば満員電車の中で向き合っている女性が、えもいわれぬいい香を放っています。香水なのか体臭なのか、思わずり性的な高ぶりを経験した人も少なくないでしよう 。
このように人間の日常生活ではおとろえたといっても、匂いは性の面でかなり決定的な役割を果たしています、女性が男性をまどわす性フェロモンは、セックスのときに男性が好んで攻める女性の体の箇所から出ています。
わきの下、乳首のまわり、へそのまわり、そして外陰部、肛門の周囲です。どれをとってもセックスのときに、知らず知らずポイントにしているところだというのがわかリます。男が本能的にそこの匂いを求めているといっていいのです。
これらの箇所に共通しているのが、アポクリン汗腺が多く分布しているところです。人問の汗腺にはエックリン腺とアポクリン腺の二つがあり、暑いときにかく汗はエックリン腺で、これは性フェロモンではありません。男をまどわせる匂いを発するのがアポクリン腺で、上司に怒られたときにかく冷や汗、死ぬほど恥ずかしい思いをしたときにかく汗はこの腺から出ます。さらに性的に高ぶったときにかく汗もこの腺から出されるのです。
エックリン腺の汗が、水分と塩分なのに対して、アポクリン腺の汗は、脂肪酸や細胞のー部などの有機物がたくさんふくまれているため、当然、匂いがきつくなります。”わきが”の匂いはアポクリン腺の汗が分解した匂いです。これが性的欲望をかリたてる匂いの元で、ネズミは全身にアポクリン腺があるし、同じようにアポクリン腺(肛門周囲腺)が多いミンクやジャコウネズミ、ジャコウジカなどは、独特な香水のような匂いを発散します。
これが男性をまどわす匂いの正体ですが、もうひとつ、愛液も重要な役割を果たしています。愛液もタンパク質を含んでいて、膣中で分解されデーデルライン桿菌とあいまって強い匂いを発します。それがさらにアポクリン腺の汗とまじり、へそ周辺や乳首のあたりとはひと味ちがった、人によっては強烈な匂いとなります。1970年代前半フェロモン香水の第一幕は女性の膣の臭気成分を分析して再構成をした「コープリン」から始まっている。(卵巣を摘出したアカゲザルはこの膣臭がなくなるのでエストロゲン効果とされる)
これが男性を強烈にひきつけて狂わせてしまうのですから、人問の嗅覚がおとろえたといっても、性フェロモンに関していえば,その重要性は昔とあまり変わっていないということになるのです。
つまり、女性の香りは1.香水 2.体臭 3.愛液 の混ざったものです。
愛液であるが、アメリカの性学研究で第一人者のマスターズ博士とジョンソン博士が「愛液は膣の汗のようなもの」との仮説を発表したのは三〇年も前のことです。この説はむしろ医学界から否定されることが多かったのです。なぜならば、女性器の膣には汗腺のような分泌腺がなく、腺のない部分から液が分泌されることなど、医学常識ではありえないことだからです。ですが渡 仲三(元名古屋市立大学医学部解剖学教授)氏は子顕微鏡学の専門家で、細胞の写真を見て、この細胞は元気がいいか、眠っているか、あるいは病気になっているか、この組織はどうなっているか、といったことの”見る目”を持っていました。性的に興奮した状態の膣の粘膜を電子顕微鏡で見て、それを分析したのです。
電子顕微鏡によると、膣壁にしみ出してくる液は、じつは膣粘膜下の毛細血管から漏れた液が、細胞と細胞のすき間を通り抜けて出てくることがわかったのです。しかも、その液は膣壁に出るばかりか、細胞内にもー時溜まっていることが発見できたのです。
わかりやすくいえば、膣全体が水を含んだスポンジのような状態になっているわけであり、マスターズ博士たちが「膣壁から汗のように漏出してくる」といった説が裏付けられたのです。
やや専門的にはなりますが、決め手となったのは、普通の細胞には見られない「液胞」が膝壁の細胞の中に多数見られたことです。栄養分を吸収するために、消化管の細胞にもこういう液胞はできます。膣の場合は、膣壁にある毛細血管からにじみ出た体液が、通常は細胞と細胞のあいだをしみ出してくるのです。
ところがそればかりではなく、膣粘膜の細胞がその液を飲み込んで液胞として貯蔵し、吐き出していくのです。これがー般に「愛液」と呼ばれるものの大部分の正体なのです。このことを私たちの研究は、あらかた実証したといっていいでしょう。
100パーセント実証するには、さらに多数例の検証も必要ですが、膣壁に伸びている毛細血管が、薄くなって穴があいている事実や、愛液が毛細血管からにじみ出した体液であることを裏付けるリンパ球や遊走細胞がたくさん見っかっている事実など、われわれの実証が今後くつがえされることはまず考えられません。
厳密にはこれにバルトリン氏腺と子宮頸管粘液とが、加わったものを総称して「愛液」というわけです。女性の体の香りには、腋の下と膣からの香りが同時に生じてくる可能性がある。両方とも人為的にゼロとすることが出来ないのでアポクリン腺から出るフェロモンを女性の快い香りから探るのは愛液の上乗せがあるため断定するのに困難が生じる。その点、男性の場合は膣からの香りはないので、腋の下のよい香りの効果をフェロモン作用として追及しやすい。だがその作用がそのまま実行されると性行動・妊娠・出産へと導くものであるから、相手方の高等動物としての女性にとってはフェロモンの指令とおりの行動には慎重にならざるを得ない。まさにアクセルが踏みこまれているのに、ブレーキがかかっている状態となっているはずである。交わった男性との間に子供が出来たら喜ばれる環境にある時、交わることによってそれまで維持いた慣性的なレベルの幸が壊れてしまう恐れのある時、などなど女性の状況は千差万別である。また香りが誘発するであろう情動や行為に対して、それまでの性道徳的意識が許容するのかしないか、許容できる範囲はどれほどかなど、それまでの女性の性体験の広さと深さと質に左右されるはずである。さらに性に対しては社会的抑圧、交友環境からの抑圧、家族内抑圧などなど重層的に女性は縛られている。男性フェロモンを嗅いだからといって女性はしたくても即物的には行動出来ない。行為そのものも、動物的、不潔、汚い、いやらしい、怖い、恥ずかしい、痛い、出血などなどのイメージがある。保留項目でも純血、処女、結婚するまでは、好きな人と、生活力、相手の家族などなど。
フェロモンによってアクセルが踏みこまれているのに、様々な要因でブレーキがかかっている状態となっていても、意識も言葉も行動もストレートに表現することは本能を抑圧し精神文化を形成して本能すら壊してきた人類にとってはあり得ない。「いやよ、イヤヨも好きなうち」ならまだよい。いや、イヤと言った自分の言葉を聞いて、自分の感情がわずかに拒絶感が生じることもある。そこに、相手が乱暴に厭らしいことを強要したらどうであろう。折角のフェロモンも仇となってしまう。人間の場合、動物のようには直接的なそして寸刻を争う作用として、本能むき出しとはならない。しかしフェロモンによる作用は否定されない。ただ様々なアクセルとブレーキのありようでその表現方法、作用時間など千差万別となる。
女性はいまだ男子よりも性行為に結びつく行動をとりにくいので良い香りのする男性と接した場合のアクセルとブレーキを読み取りながら、男性フェロモンの女性に対する作用・影響を難しい作業であるが吟味していく。
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