「紫式部幼児体験と性格形成」
1はじめに
源氏物語は、平安時代文学の代表的作品として、日本文学の世界に誇る文芸作品として存在する。その研究は、古来から盛んであり、文学の領域からでなく、仏教、歴史、美術等々、ありとあらゆる分野から行われているが、これ等の研究が未だに盛んであるのは、個々の研究者を魅了してやまない、文学作品としての崇高さが、源氏物語に内在しているからに他ならない。しかし、個々の学者が行った研究は、源氏物語54帖の一端に限られているものが多く、源氏物語の全貌を捉えたものは少ない。
源氏物語の主題、構想なりを文学者ですら全体として考察することが困難なのは、他に類をみない長編物語であることと内部構成が複雑であることに基因している。各巻々の独立性や、長編のなかにも短編、中編的な構成がみられるから無理ない一面もある。そして、源氏物語自体一貫した筋の展開を示していない。この様な場合、作家論として紫式部の創作意志、創造態度なりが明確化出来れば、源氏物語の作品論的な諸問題は、解決への一歩を踏み出すのであるが、残念ながら、完全なかたちでの伝記形成を保持しつつ、作者の心の歴史を照明し、作品創造の過程を明らかにすることは不可能に近い、それは作者である紫式部が一千年も前に生きた古代の作家であり、知りうる事実が極めて乏しいためである。近代や現代の日本の作家の場合には作品、伝記的資料、研究論文などの基礎資料が豊富で入手しやすいと言われる。それは印刷という科学技術の発達もさることながら小説なり、文学作品が社会的に文芸と認められたからであろう。しかし、平安時代にあっては文芸とは漢学であり、和文では和歌までが評価されている程度で、物語自体の評価は低かった。源氏物語が読まれたとしても、それは、婦女子の読物であったし、「男もすなる日記と言うものを」と紀貫之が弁解したと同列で、後世でこそ、創造的なものとして認められるが、当時としては、漢詩文、和歌に対して亜流の位置しか占めていなかった。源氏物語作者として紫式部は道長にみとめられたが、それは作品評価が第一義ではなく帝の寵愛を定子から彰子へ移させるための道長の後宮作りの一環として考えられていたにすぎない。それ故、紫式部の伝記的資料は、他の女房について知りうるがごとき程度のものであって、現在的な意味で伝記を記述出来る程充実してはいない。ここに、通常の伝記形式の病跡学的手法をそのままでは適応し難い理由がある。
が、幸いなことに紫式部は日記と歌集を残している。この中に紫式部がかかわってきた状況や、性格的特徴などが読みとれれば、源氏物語の創造の過程を病跡学的に、心理学の視座から明らかにする途が開かれる。式部歌集は、心情の吐露として評価出来るが、読まれた状況や年代が不明確で、しかも和歌自体に情感表現のあいまいさがあり、これを基礎的資料とすることは危険である。その点、式部日記はその大半が事実の記録文であるが、それに混入したと考えられる消息文部分は、紫式部の性格を考察する上で貴重な資料となり得る。この場合でも、作家としての式部の全精神の探究、人間構造の究明や、源氏物語執筆を介しての紫式部の思想の陰影、発展、後退、変形といった精神内容にまで立ち入ることまではできない。しかし、長編の物語を創造するに至った心理機構の一端を明らかにすれば源氏物語の主題、構想、執筆順序なども明確化する糸口となる。
本論では、紫式部日記の消息文部分の幼児体験をもとに詳細に検討し、紫式部自身すら気づき得なかった心理抑圧機序を明らかにし、紫式部の病跡を論ずる。消息文部分の執筆の際の紫式部の心理状態をその流れを文面に捉して観念連想とこの心理抑圧機序を手懸かりとして考え、源氏物語執筆創造に至った過程の一端を考察する。源氏物語制作自体、紫式部の生きた平安時代の女性の奴隷的な地位をふくむ貴族社会の現実に対して、この時代に女性として許され得るもっとも激しい抵抗であったこと示唆することを目的としている。従来日本の古典文学についての研究はごく僅かで、精神病理的に問題となる対象が少ないと指摘される現状に、不十分ながらも本論がその領域拡大の一助となれば望外のきわみである。