<与謝野晶子 略年譜> 与謝野寛・晶子
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1878 | 12月7日、堺市の和菓子商駿河屋に生まれる。父 鳳宗七、母 津祢。 本名 鳳 志よう。異母姉 てる、はな、長男 秀太郎の次に生まれた。 |
1886 |
樋口朱陽の漢学塾に入り、『論語』『長恨歌』等を学ぶ。 |
1888 10才 |
宿院尋常小学校卒業。後、堺区堺女学校入学。 |
1891 | 堺女学校卒業。 店番をしながら、父の古典、史書類を読む。 |
1894 | この年初めて「万葉集」を読む。 |
1896 | 「堺敷島会」に入会。「堺敷島会歌集」第三、四、五、六、七、八、九集にそれぞれ短歌一首づつ発表。 |
1897 | 「堺敷島会歌集」第十、十一、十二、集にそれぞれ短歌一首づつ発表。その後「堺敷島会」退会。 |
1898 20才 |
4月「読売新聞」で初めて与謝野鉄幹の短歌をしり、従来の古い作風でない短歌の流れを知る。 |
1899 | 関西青年文学会機関誌「よしあし草」に、鳳小舟の名前で新体詩「春月」を発表。その後「よしあし草」に詩、歌を次々発表。 |
1900 | 河野鉄南との文通始まる。鉄幹主宰「明星」(東京新詩社)創刊。 8月、鉄幹に初めて会う。11月、山川登美子、鉄幹とともに住吉神社を散策。 鉄幹、登美子と粟田山辻野旅館に一泊。12月、登美子故郷で結婚。 |
1901 | 6月、上京し鉄幹宅に入る。8月、歌集『みだれ髪』を鳳晶子の名で刊行。 10月、与謝野鉄幹と結婚。入籍は翌年一月。 |
1902 | 11月、長男 光 誕生。 |
1903 | 父、宗七死去。 |
1904 | 1月、第二歌集『小扇』、5月鉄幹と共著の第三歌集『毒草』刊行。6月次男 秀、生まれる。 この頃より「源氏物語」の講義を始める。 9月、「君死にたまうこと勿れ」の詩を「明星」に発表。10月、大月桂月の非難に反論「ひらきぶみ」を「明星」に発表。 未亡人になった山川登美子が日本女子大入学のため上京。 |
1905 | 第四歌集『恋衣』を山川登美子、増田雅子と合著で刊行 |
1906 | 第五歌集『舞姫』、第六歌集『夢之華』刊行。小説・脚本・随筆・評論等創作活動に励む。 |
1907 | 1月選歌集 『黒髪』編集刊行。母津祢死去。双生児 八峰、七瀬誕生。6月、閨秀文学会成立。『源氏物語』『大鏡』『新古今和歌集』の講義と短歌の添削、作歌法を担当。 |
1908 30才 |
『絵本お伽噺』刊行。北原白秋ら7人が新詩社を脱退。6月選歌集『白光』編集刊行。『新声』に脚本「第三者」を発表。7月第七歌集『常夏』刊行。11月「明星」通算100号で終刊。 |
1909 | 「スバル」創刊。3月 三男麟誕生。4月 山川登美子死去。5月 第八歌集『佐保姫』刊行。『トキハギ』創刊。6月『トキハギ』『アカネ』休刊。寛と新詩社で文学講演を行う。晶子は「源氏物語」の講義を行う。9月 「源氏物語」の訳を百ヶ月で行う依頼を小林政治より受け契約。 |
1910 | 2月 三女佐保子誕生。9月 童話集『おとぎばなし少年少女』刊行。 |
1911 | 1月 第九歌集『春泥集』刊行。2月 四女宇智子誕生。7月 感想集『一隅より』刊行。11月 寛 渡欧。 |
1912 | 1月 第十歌集『青海波』。2月 『新訳源氏物語』4冊本の刊行開始。5月 小説集『雲のいろいろ』刊行。 5月シベリア鉄道経由で渡欧。10月単身帰国。 |
1913 | 1月 寛帰国。4月 四男アウギュスト誕生。6月より長編小説『明るみへ』連載。12月『スバル』終刊。 |
1914 | 1月 第十一歌集『夏より秋へ』。5月 寛と共著『巴里より』。6月 童話集『八つの夜』。7月より『新訳栄華物語』3本上卷刊行。12月『新訳源氏物語』縮刷版(四冊)を刊行。 |
1915 | 1月 寛と共著の評釈『和泉式部歌集』。3月 第十二歌集『さくら草』刊行。自選歌集『与謝野晶子集』刊行。五女エレンヌ誕生。5月 随想集『雑記帳』刊行。9月 童話集『うねうね川』。12月 歌論書『歌の作りやう』刊行。 |
1916 | 1月 小説『明るみへ』刊行。第十三歌集『朱葉集』。2月 評釈『短歌三百講』。3月
五男健誕生。4月 評論集『人及び女として』。 5月 第十四歌集『舞ごろも』。7月 『新訳紫式部日記・新訳和泉式部日記』。11月 『新訳徒然草』。12月 小説『明るみへ』刊行。 |
1917 | 1月 評論集『我等何を求むるか』。2月 第十五歌集『晶子新集』。9月六男寸誕生するも二日後死去。 10月 評論集『愛、理性及び勇気』刊行。選歌集『摘英三千首』刊行。 |
1918 40才 |
3月 自選歌集『明星抄』。5月 感想集『若き友へ』。平塚らいてうと母性保護論争。 |
1919 | 1月 評論集『心頭雑草』刊行。3月 六女 藤子誕生。4月 寛 慶応大学教授に就任。5月
童話集『行って参ります』。 8月 第十六歌集『火の鳥』、評論集『激動の中を行く』。10月 歌論書『晶子歌話』『晶子短歌全集』 |
1920 | 5月 評論集『女人創造』 文化学院創設の相談 |
1921 | 1月 第十七歌集『太陽と薔薇』。3月 評論集『人間礼拝』刊行。4月 文化学院開校、学監に就任。11月 第二期「明星」創刊。 |
1922 | 1月 「源氏物語礼賛」54首を「明星」に発表。9月 第十八歌集『草の夢』。 |
1923 | 1月 自選歌集『晶子恋歌抄』 4月 評論集『愛の創作』刊行。9月 関東大震災、文化学院に預けてあった『新新訳源氏物語』の原稿を焼失。 |
1924 | 5月 第十九歌文集『流星の道』。11月 童話集『藤太郎の旅』刊行。 |
1925 | 1月 第二十歌集『瑠璃光』。『明星』に随想「泥土自像」を発表。7月 評論集『砂に書く』。9月自選歌集『人間往来』刊行。10月 寛・正宗敦夫と共編の『日本古典全集』に着手。 |
1926 | 6月、中国語訳『与謝野晶子論文集』 |
1927 | 2月 『和泉式部全集』に伝記・解題を発表。4月 第二期「明星」終刊。 |
1928 50才 |
1〜2月 評論「紫式部新考」を「太陽」に、1〜3月 「和泉式部新考」を「女性」に発表。6月
第二十二歌集『心の遠景』。 7月 評論集『光る雲』刊行。 |
1929 | 1月 詩集『晶子詩篇全集』。2月 参考書『女子作文新講』刊行。4月「現代日本文学全集」第37巻に詩12編発表。9月「現代日本文学全集」第38巻に詩12編、短歌68首を発表。『与謝野寛集・与謝野晶子集』を刊行。 12月 第二十二歌集『霧島の歌』刊行。 |
1930 | 3月 歌誌「冬柏」創刊。4月 文化学院女学部長に就任。「婦選の歌」発表。5月 第二十三歌文集『満蒙遊記』。 |
1931 | 2月 評論集『街頭に送る』 |
1932 | 3月『牡丹集』に短歌収録。4月『短歌講座』に「和泉式部の歌」収録。7月『俳句講座』に「与謝蕪村」を収録。 |
1933 | 2月 「寛・晶子著作展」高島屋で開催。寛の還暦、記念歌集『梅花集』に短歌収録。 |
1934 | 1月 那須温泉で正月を迎えたが、狭心症の発作を起こす。2月評論集『優勝者となれ』刊行。 |
1935 | 3月 寛死去、63才。5月 『与謝野寛遺稿集』 |
1936 | 3月 寛一周忌。10月『短歌文学全集ー与謝野晶子篇』を刊行。 |
1937 | 1月 白秋、信綱、茂吉らと『新万葉集』の撰者となる。3月 脳溢血で倒れ、一ヶ月臥床。 |
1938 60才 |
1月『新制女子作文』を刊行。4月 盲腸炎の手術。『現代語訳国文学全集』第九巻『平安女流日記』(蜻蛉、和泉式部、紫式部の三日記)刊行。7月『与謝野晶子集』(岩波文庫)刊行。10月 『新新訳源氏物語』6巻刊行開始。12月 肺炎にて入院。 |
1939 | 9月 『新新訳源氏物語』完成。10月 完成祝賀会が上野精養軒にて開催。 |
1940 | 5月 脳溢血で倒れ、以後右半身不随の病床生活となる。6月『新撰与謝野晶子集』(新潮文庫)刊行。11月『現代短歌叢書』第7巻「与謝野晶子篇」に短歌収録。 |
1941 | 12月 63才の誕生祝いを自宅で開く。 |
1942 | 1月 狭心症の発作。5月29日 死去。 |