39−2巻 夕霧二


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      帰りこし都の家に音無しの滝はおちね
      ど涙流るる            (晶子)
 恋しさのおさえられない大将はまたも小野の山荘に宮をお訪ねしようとした。四十九日の忌 も過ごしてから静かに事の運ぶようにするのがいいのであるとも知っているのであるが、それ までにまだあまりに時日があり過ぎる、もう噂を恐れる必要もない、この際はどの男性でも取 る方法で進みさえすれば成り立ってしまう結合であろうとこんな気になっているのであるから、 夫人の嫉妬も眼中に置かなかった。宮のお心はまだ自分へ傾くことはなくても、「一夜ばかり の」といって長い契りを望んだ御息所の手紙が自分の所にある以上は、もうこの運命からお脱 しになることはできないはずであると恃むところがあった。九月の十幾日であって、野山の色 はあさはかな人間をさえもしみじみと悲しませているころであった。山おろしに木の葉も峰の 葛の葉も争って立てる音の中から、僧の念仏の声だけが聞こえる山荘の内には人げも少なく、 蕭条とした庭の垣のすぐ外には鹿が出て来たりして、山の田に百姓の鳴らす鳴子の音にも逃 げずに、黄になった稲の中で啼く声にも愁いがあるようであった。滝の水は物思いをする人に 威嚇を与えるようにもとどろいていた。叢の中の虫だけが鳴き弱った音で悲しみを訴えている。 枯れた草の中から竜胆が悠長に出て咲いているのが寒そうであることなども皆このごろの景色 として珍しくはないのであるが、折と所とが人を寂しがらせ、悲しがらせるのであった。
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 夕霧は例の西の妻戸の前で中へものを言い入れたのであるが、そのまま立って物思わしそう にあたりをながめていた。柔らかな気のする程度に着馴らした直衣の下に濃い紫のきれいな擣 目の服が重なって、もう光の弱った夕日が無遠慮にさしてくるのを、まぶしそうに、そしてわ ざとらしくなく扇をかざして避けている手つきは女にこれだけの美しさがあればよいと思われ るほどで、それでさえこうはゆかぬものをなどと思って女房たちはのぞいていた。寂しい人た ちにとってはよい慰安になるであろうと思われる美しい様子で、特に名ざして少将を呼び出し た。狭い縁側ではあるが、他の女がまたその後ろに聞いているかもしれぬ不安があるために、 声高には話しえない大将であった。
 「もう少し近くへ寄ってください。好意を持ってくれませんか、この遠方へまで御訪問して 来る私の誠意を認めてくだすったら、最も親密なお取り扱いがあってしかるべきだと思います よ。霧がとても深くおりてきますよ」
 と言って、ちょっと山のほうをながめてから大将がぜひもっと近くへ来てくれと言うので、 余儀なく鈍色の几帳を簾から少し押し出すほどにして、裾を細く巻くようにした少将は近くへ 身を置いた。この人は大和守の妹で、御息所の姪であるというほかにも、子供の時から御息所 のそばで世話になっていた人であったから喪服の色は濃かった。黒を重ねた上に黒の小袿を着 ていた。
 「御息所のお亡れになったのを悲しむことと宮様のいつまでも御冷淡であらせられるのをお 恨みするのが私の心の全部になって、ほかのことは頭にありませんから、だれからも私は怪し
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まれてしかたがありません。もう私に忍耐の力というものがなくなりましたよ」
 これを初めにして、夕霧はいろいろと恋の苦しみを訴えた。御息所の最後の手紙に書かれて あったことも言って非常に泣く。少将もまして非常に泣く。
 「その時のことでございますがね、あなた様がおいでにならぬばかりか、御自身のお返事も おもらいになれないままで暗くなってまいりますのに悲観をあそばしましてとうとう意識をお 失いになりましたのに物怪がつけこんで、そのまま蘇生がおできにならなかったのだと私は拝 見いたしました。以前の御不幸のございました時にも、もうそんなふうにおなりになるのでな いかと私どもがお案じいたしましたようなことがおりおりございましたが、宮様がお悲しみに なってめいっておいであそばすのをおなだめになりたいとお思いになるお心の強さから、御健 康をお持ち直しになったのでございます。あなた様についての御息所のこのお悲しみ方を宮様 はただ呆然として見ておいでになりました」
 あきらめられぬようにこんなことを少将は言っていて、まだ頭はかなり混乱しているふうで あった。
 「そうではあっても、宮様はもう常態にお復しになってしかるべきだと思う。私に対してあ まりな知らず顔をお作りになるのは、思いやりのないことではありませんか。もったいないこ とですが、孤独におなりになった宮様にだれがお力になるとお思いになるのだろう。法皇様は いっさい塵界と交渉を絶っておいでになる御生活ぶりですから、御相談事などは申し上げられ ないでしょう。あなたがたが熱心になって宮様の私に対する御冷酷さをお改めになるようによ
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くお話し申し上げてください。皆宿命があって、一生孤独でいようとあそばしても、そうなっ て行かないということもお話し申すといい。人生が望みどおりに皆なるものであれば、この悲 しい死別はなされなくてもよかったわけではありませんか」
 などと夕霧は多く言うのであるが、少将は返事もできずに歎息ばかりしていた。鹿がひどく 啼くのを聞いていて、「われ劣らめや」(秋なれば山とよむまで啼く鹿にわれ劣らめや独り寝る 夜は)と吐息をついたあとで、
  里遠み小野の篠原分けて来てわれもしかこそ声も惜しまね
 と大将が言うと、
  ふぢ衣露けき秋の山人は鹿のなく音に音をぞ添へつる
 少将のこの返歌はよろしくもないが、低く忍んで言う声づかいなどを優美に感じる夕霧であ った。宮へいろいろとお取り次ぎもさせたが、
 「この悲しみの中から自分を取りもどす日がございましたら、始終お心にかけてお尋ねくだ さいますお礼も申し上げられるかと思います」
 と礼儀としてだけのことより宮からはお返辞がない。大将は失望して歎きながら帰って行く のであった。途中も車の中から身にしむ秋の終わりがたの空をながめていると、十三日の月が 出て暗い気持ちなどにはふさわしくないはなやかな光を地上に投げかけた。それにも誘われて
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一条の宮の前で車をしばらくとどめさせた。以前よりもまた荒れた気のするお邸であった。南 側の土塀のくずれた所から中をのぞくと、大きな建物の戸は皆おろされてあって人影も見えな い。月だけが前の流れに浮かんでいるのを見て、柏木がよくここで音楽の遊びなどをしたその 当時のことが思い出された。
  見し人の影すみはてぬ池水にひとり宿守る秋の夜の月
 こう口ずさみながら家へ帰って来た大将は、そのまま縁に近い座敷で月にながめ入りながら 恋人の冷たさばかりを歎いていた。
 「あんなふうにしていらっしゃることは以前になかったことですね。およしになればいいの に」
 と言って女房らは譏った。夫人は痛切に良人のこの変わりようを悲しんでいた。これは心が ほかへ飛んで行っているという状態なのであろう、そうしたことに馴らされた六条院の夫人た ちを何かといえばよい例に引いて、自分をがさつな、思いやりのない女のように言う良人は無 理である、自分も結婚した初めからそう馴らされて来たのであったなら、穏健なあきらめがで きていて、こんな時の辛抱もしよいに違いない、珍しく忠実な良人を持つ妻として親兄弟をは じめとして世間からあやかり者のように言われて来た自分が、最後にみじめな捨てられた女に なるのであろうかと歎いているのである。夜も明けがた近くなるのであるが、夫婦はどちらも 離れた気持ちで身をそむけたまま何を言おうともしなかった。
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 起きるとまたすぐに、朝霧の晴れ間も待たれぬようにして大将は山荘への手紙に筆を取って いた。不愉快に思いながらも夫人はもういつかのように奪おうとはしなかった。書いてしばら くそれをながめながら読んで見ているのが、低い声ではあったが、一部だけは夫人の耳にもは いって来た。
  いつとかは驚かすべきあけぬ夜の夢さめてとか言ひし一言
 「上よりおつる」(いかにしていかによからん小野山の上よりおつる音無しの滝)と書かれ たものらしい。巻いて上包みをしたあとでも「いかによからん」などと夕霧は口にしていた。 侍を呼んで手紙の使いはすぐに小野へ出された。内容の全部はよくわからなかったが、返事だ けは手に入れて読みたいものである、それによって真相が明らかになるであろうと夫人は思っ ていた。
 朝おそくなってから小野の返事が来た。濃い紫色の、堅苦しい紙へ例の少将が書いたもので あった。今日もまた自分たちの力で宮をお動かしすることのできなかったことが書かれてあっ て、
 お気の毒に存じますものですから、あなた様のお手紙へむだ書きをあそばしたのを盗んでま
 いりました。
 と書いて、中へその所だけを破ったのが入れてあった。読んでだけはもらえたのであるとい うことでうれしくなる大将の心もみじめなものである。むだ書きふうにお書きになったお歌は、
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骨を折って読んでみると、
  朝夕に泣く音を立つる小野山はたえぬ涙や音無しの滝
 と解すべきものらしい。また寂しいお心に合いそうな古歌などの書かれてある宮のお字は美 しかった。他人のことで、こんなことを夢中になるまでの関心をもって楽しんだり、悲しんだ りしているのを、歯がゆく病的なことに思っていたが、自分のことになると恋する心は堪えが たいものである、どうしてこうまでになったのかと反省をしようとするのであるが、それもで きないことであった。
 六条院も大将の恋愛問題をお聞きになって、この人がなんらの浮いたこともせず、批難のし ようもない堅実な人物であることに満足しておいでになって、御自身の青春時代に好色な評判 を多少お取りになった不面目をこの人がつぐなってくれるもののように思っておいでになった ことが裏切られていくような寂しさをお感じになった。この事件の気の毒な影響から双方で犠 牲を払う結果になるのであろう、全然関係のないところの女性ではなくて、妻の兄の未亡人の 宮との問題であるから、舅の大臣などもどう思うことであろう、それほどの思慮を持たないの ではあるまいが、宿命というものから人はのがれられずに起こってきたことであろう、ともか くも自分の干渉すべきことでないと院はお考えになった。結局双方とも婦人の損になることで 気の毒であると歎いておいでになるのであった。御自身の経験されたことに照らして見、また 大将のこの現状によって、亡きのちの世が不安になったことを紫夫人にお言いになると女王は
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顔を赤くして自分があとに残らねばならぬほど、早くこの世から去っておしまいになる心でお いでになるのであろうかと恨めしく思うふうであった。
 「女ほど窮屈なものはありませんね。心の惹かれることも、恋しい感情も皆おさえて知らぬ ふうをしておとなしくしていなければならないのでは生きがいもなし、人生の退屈さと悲哀と を紛らすことができないではありませんか。そうかといって感情に乏しい女になっては無価値 だし、どうしてこんなふうに育ったのかと親さえも軽蔑したくなりますからね。ただ心でだけ 思って、お坊様が気の毒がる無言太子のようになって、細かな感情も動きながら黙っていなけ ればならない人にするのも無慈悲な親になる。こうであればああであり、それであればこうに なる、どうして中庸を得るようにすればいいかと、そんなことを私が考えるのも、他の女性の ためではなく女一の宮を完全な女性にしたいからですよ」
 と院は言っておいでになった。
 夕霧が六条院へ来た時に、実状を知りたく思召す心から、院が、
 「御息所の忌がもう済んだだろうね。時はずんずんとたつからね。私が遁世の望みを持ち始 めた時からももう三十年たっている。味気ないことだ。夕べの露にも異ならない命を持って安 んじていられるわけはないのだからね。どうかして髪を剃り落としたいと望みながらのんきな ふうを装っている。これはいけないことだね」
 こんな話をおしかけになった。
 「不幸ばかりで、もうこの世に未練はなかろうと思われます人でも、さて遁世はなかなかで
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きないものらしいのでございますから、あなた様などは御無理もございません」
 などと言って、また大将は、
 「御息所の四十九日の仏事のことなども大和守一人の手でやっております。気の毒なことで ございます。よい身寄りのない人は自身についた幸福だけで生きている間はよろしゅうござい ますが、死んだあとになってみますと気の毒なものです」
 とも言った。
 「御息所の仏事は院からもお世話をあそばすだろうよ。女二の宮はどんなに悲しんでおいで になることだろう。その当時はよくわからなかったが、近年になって事に触れて私の見たとこ ろではあの御息所は相当にりっぱな人らしい。院の後宮の才女には違いなかった。そんな人の 亡くなっていくことは惜しい。生きておればよいと思う人がそんなふうに皆死んでゆくではな いか。院もお悲しみになったということだ。あの宮さんはここに来ておられる宮さんに次いで の御愛子だったのだよ。きっとごりっぱだろう」
 「さあ宮様はどんな方でございますか。御息所は無難な女性と見受けました。そう親密につ きあっていたのではございませんが、しかし、何でもない時に人格の片影は見えるものでござ いますからね」
 などと言って、女二の宮のことを話題にせず大将は素知らぬふうを見せているのである。こ れほど強い心でしている恋は、親の言葉くらいで思いとどまらせえられるものでない、用いな い忠告を賢げに言うのもおもしろいことではないとお思いになって、院は何の勧告をもあそば
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さなかった。
 大将は御息所の法事をするのにあらゆる尽力をしていた。こんなことはすぐに評判になるも ので、太政大臣家へも聞こえていった。不都合な話であると女性の側の悪いようにそこでは言 われておいでになる宮がお気の毒である。法事の当日は昔の縁故で大臣家の子息たちも参会し た。派手な誦経の寄付が大臣からもあった。寄付はまだほかからも多く来た。競争的にこうし たことをするのが今日の流行である。
 宮はこのまま小野の山荘で遁世の身になっておしまいになる志望がおありになったのである が、御寺の院にこのことをお報じ申し上げた人があって、
 「そんなことはよろしくない。皆がいろいろな変わった境遇にいることも望ましいことでは ないが、保護者のない者が尼になったために、かえって浮いた名を立てられることがあったり、 俗でいる以上に煩悩を作らなければならないことができたりしては、この世の幸福も未来の幸 福も共に無にしてしまうことになる。自分が僧になっている上に、三の宮が出家をしている。 今また二の宮が同じことをしては、子孫の絶えていく一家と見られるのも、世の中を捨てた自 分にとってはかまわないことであるが、必ずしもまた今競って出家は実現するに及ばないこと だということは自分にもできる。不幸な時にこの世を捨てることをするのは見苦しいものであ る。自然に悟りができてくる時節を待って、冷静に判断をしてしなければならぬことです」
 こんな意味のことをたびたび御忠告になった。大将との恋愛事件がお耳にはいっていたので ある。大将の愛が十分でないために悲観して尼になったと宮がお言われになることを院はおあ
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やぶみになるのであった。そうとはお思いになっても公然大将の夫人になっておしまいになる ことを姫宮の完全な幸福とお認めになることもおできにならないのであるが、その問題に触れ ていっては宮が羞恥に堪えられないであろうと思召すとかわいそうなお気持ちがして、せめて この際は自分だけでも知らぬ顔をしていてやりたいと思召した。
 大将も立てられる噂に言いわけをしてきたこれまでの態度はもう改めるほうがよい時期にな ったと思い、女二の宮が結婚を御承諾になるのを待つことはせずに、御息所の希望したことで あったからというように世間へは思わせることにして、この場合はしかたがないから故人にち ょっとした責任を負わせることくらい許してもらうことにして、いつから始まったということ をあいまいにして夫婦になろう、今さら恋の涙のありたけを流して、宮のお心を動かそうと努 めるのも自分に似合わしくないことであると思って、山荘を引き上げて一条の邸へお移りにな る日をおよそいつということもこちらできめた夕霧は、大和守を呼んで、大将夫人としての宮 のお帰りになる儀式等についての設けを命じたのであった。邸の修理をさせ、勝ち気な御息所 が旧態を保たせていたとはいうものの、行き届かない所のあった家の中を、みがき出したよう に美しくして、壁代、屏風、几帳、帳台、昼の座席なども最も高雅な、洗練された趣味で製作 させるように命じてあった。
 当日は夕霧自身が一条に来ていて、車や前駆の役を勤める人たちを山荘へ迎えに出した。宮 はどうしても帰らぬと言っておいでになるのを、女房たちは百方おなだめしていたし、大和守 も意見を申し上げた。
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 「その仰せは承ることができません。お一人きりのお心細い御境遇が悲しく存ぜられまして、 御葬送以来ただ今までは、私としてお尽くしいたしうるだけのことはいたしてまいりました。 しかし私は地方長官でございますから、お預かりしております国の用がうちやってはおけませ んので、近くまた大和へまいらねばならないのでございます。あなた様のただ今からのお世話 をだれに頼んでまいってよいという人もございませんから、どうすればよいかと思っておりま す場合に左大将が力を入れてくださるのでございますから、あなた様御一身について考えます れば、御再婚をあそばすことをこれが最上のこととは申されませんのでございますが、しかし 昔の内親王様がたにもそうした例は幾つもあったことで、御自分の御意志でもなく、運命に従 って皆そうおなりになったのでございますから、何もあなた様お一方が世間から批難されるは ずもないのでございます。これほどのお方のお志をお退けになりますのは、あまりにも御幼稚 なことと申すほかはございません。女性の方でも独立して行けぬことはないと思召すでしょう が、実際問題になりますと、御自身をお護りになることと、経済的のこととで御苦労ばかりが どんなに多いかしれません。それよりも十分大事に尊重申される御良人にお助けられになって こそ、あなた様の御天分も十分に発揮させることができるのでございます。どうかそのお心に おなりくださいませ」
 大和守はまた、
 「あなたたちが宮様へよく御会得のゆくようにお話し申し上げないのが悪いのです。そうか というとまたこうしたことに立ち至る最初の動機などはあなたがたの不注意でお起こしになっ
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たりして」
 と少将や左近を責めた。
 女房が皆集まって来て口々にお促しするのに御反抗がおできにならないで、きれいな色のお 召し物などをお着せかえ申したりするままに宮はなっておいでになるのであるが、切り捨てて しまいたく思召すお髪を後ろから前へ引き寄せてごらんになると、それは六尺ほどの長さで、 以前よりは少し量が減っていても、他の者の目にはやはりきわめておみごとなものに見えるの であるが、御自身では非常に衰えてしまった、もう結婚などのできる自分ではない、いろいろ な不幸にむしばまれた自分なのだからとお思い続けになって、お召しかえになった姿をまたそ のまま横たえておしまいになった。
 「時間が違ってしまう。夜がふけてしまうだろう」
 などと言って、お供をする人たちは騒いでいた。時雨があわただしく山荘を打って、全体の 気分が非常に悲しくなった。
  上りにし峰の煙に立ちまじり思はぬ方になびかずもがな
 とお口ずさみになったとおりに宮は思召すのであるが、そのころは鋏刀などというものを皆 隠して、お手ずから尼におなりになるようなことのないように女房たちが警戒申し上げていた から、そんなふうにお騒ぎをせずとも、惜しく尊重すべき自分でもないものを、しいて尼にな ってみずからを清くしようとも思わず、すればかえって人の反感を買うにすぎないことも知っ
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ているのであるから、と思召して宮は御本意を遂げようともあそばさないのである。女房は皆 移転の用意に急いで、お櫛箱、お手箱、唐櫃その他のお道具を、それも仮の物であったから袋 くらいに皆詰めてすでに運ばせてしまったから、宮お一人が残っておいでになることもおでき にならずに、泣く泣く車へお乗りになりながらも、あたりばかりがおながめられになって、こ ちらへおいでになる時に、御息所が病苦がありながらも、お髪をなでてお繕いして車からお下 ろししたことなどをお思い出しになると、涙がお目を暗くばかりした。お護り刀とともに経の 箱がお席の脇へ積まれたのを御覧になって、
  恋しさの慰めがたき形見にて涙に曇る玉の箱かな
 とお歌いあそばされた。黒塗りのをまだお作らせになる間がなくて、御息所が始終使ってい た螺鈿の箱をそれにしておありになるのである。御息所の容体の悪い時に誦経の布施として僧 へお出しになった品であったが、形見に見たいからとまたお手もとへお取り返しになったもの である。浦島の子のように箱を守ってお帰りになる宮であった。
 一条へお着きになると、ここは悲しい色などはどこにもなく、人が多く来ていて他家のよう になっていた。車を寄せてお下りになろうとする時に、御自邸という気がされない不快な心持 ちにおなりになって、動こうとあそばさないのを、あまりに少女らしいことであると言って女 房たちは困っていた。大将は東の対の南のほうの座敷を仮に自身の使う座敷にこしらえて、も う邸の主人のようにしていた。
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 三条の家では、だれもが、
 「急に別なお家と別な奥様がおできになったとはどうしたことでしょう。いつごろから始ま った関係なのでしょう」
 と言って驚いていた。多情な恋愛生活などをしなかった人は、こうした思いがけぬことを実 行してしまうものである。しかしだれも以前からあった関係をはじめて公表したことと解釈し ていて、まだ宮のお心は結婚に向いていぬことなどを想像する人もない。いずれにもせよ宮の 御ために至極お気の毒なことばかりである。
 御結婚の最初の日の儀式が精進物のお料理であることは縁起のよろしくなく見えることであ ったが、お食事などのことが終わって、一段落のついた時に、夕霧はこちらへ来て宮の御寝室 への案内を、少将にしいた。
 「いつまでもお変わりにならぬ長いお志でございますなら、今日明日だけをお待ちください ませ。もとのお住居へお帰りになりますとまたお悲しみが新しくなりまして、生きた方のよう でもなく泣き寝におやすみになったのでございます。おなだめいたしましてもかえってお恨み になるのでございますから、私どももその苦痛をいたしたくございません。殿様のことを宮様 に申し上げることはできないのでございます」
 と少将は言う。
 「変なことではないか、聡明な方のように想像していたのに、こんなことでは幼稚なところ の抜けぬ方と思うほかはないではないか」
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 夕霧が自分の考えを言って、宮のためにも、自分のためにも世間の批議を許さぬ用意の十分 あることを説くと、
 「それはそうでございましょうが、ただ今ではお命がこのお悲しみでどうかおなりになるの でないかということだけを私どもは心配いたしておりまして、そのほかのことは何も考えられ ないのでございます。殿様、お願いでございますから、しいて御無理なことはあそばさないで くださいませ」
 と少将は手をすり合わせて頼んだ。
 「聞いたことも見たこともないお取り扱いだ。過去の一人の男ほどにも愛していただけない 自分が哀れになる。世間へも何の面目があると思う」
 失望してこう言う夕霧を見てはさすがに同情心も起こった。
 「聞いたことも見たこともないと申しますことは、あなた様のあまりにお早まりになった御 用意のことでございましょう。道理はどちらにあると世間が申すでございましょうか」
 と少し少将は笑った。こんなふうに強く抵抗をしてみても、今はよその人でなく主人と召使 の関係になっている相手であるから、拒み続けることはさせないで、少将をつれて、おおよそ の見当をつけた宮の御寝室へはいって行った。宮はあまりに思いやりのない心であると恨めし く思召されて、若々しいしかただと女房たちが言ってもよいという気におなりになって、内蔵 の中へ敷き物を一つお敷かせになって、中から戸に錠をかけてお寝みになった。しかもこうし ておられることもただ時間の問題である、こんなふうにも常規を逸してしまった人は、いつま
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で自分をこうさせてはおくまいと悲しんでおいでになった。大将は驚くべき冷酷なお心である と恨めしく思ったが、これほどの抵抗を受けたからといって、自分の恋は一歩もあとへ退くも のではない、必ず成功を見る時が来るのであるというこんな自信を持ってこの夜を明かすので あって、渓を隔てて寝るという山鳥の夫婦のような気がした。ようやく明けがたになった。こ うして冷淡に扱われた顔を皆に見せることが恥ずかしくて大将は出て行こうとする時に、
 「ただ少しだけ戸をおあけください。お話ししたいことがあるのですから」
 としきりに望んだがなんらの反応も見えない。
 「うらみわび胸あきがたき冬の夜にまたさしまさる関の岩かど
 言いようもない冷たいお心です」
 と言って、それから泣く泣く出て行った。
 大将は六条院へ来て休息をした。花散里夫人が、
 「一条の宮様と御結婚なすったと太政大臣家あたりではお噂しているようですが、ほんとう のことはどんなことなのでしょう」
 とおおように尋ねた。御簾に几帳を添えて立ててあったが、横から優しい継母の顔も見える のである。
 「そんなふうに噂もされるでしょう。亡くなられた御息所は、最初私が申し込んだころには もってのほかのことのように言われたものですが、病気がいよいよ悪くなったころに、ほかに
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託される人のないのが心細かったのですか、自分の死後の宮様を御後見するようにというよう な遺言をされたものですから、初めから好きだった方でもあるのですから、こういうことにし たのですが、それをいろいろに付会した噂もするでしょう。そう騒ぐことでないことを人は問 題にしたがりますね」
 と夕霧は笑って、
 「ところが御本人はまだ尼になりたいとばかり考えておいでになるのですから、それもそう おさせして、いろいろに続き合った面倒な人たちから悪く言われることもなくしたほうがよい とは思われますが、私としては御息所の遺言を守らねばならぬ責任感があって、ともかくも形 だけは私が良人になって同棲することにしたのです。院がこちらへおいでになりました時にも お話のついでにそのとおりに申し上げておいてください。堅く通して来ながら、今になって人 が批難をするような恋を始めるとはけしからんなどとお言いにならないかと遠慮をしていたの ですが、実際恋愛だけは人の忠告にも自身の心にも従えないものなのですからね」
 とも忍びやかに言うのだった。
 「私は人の作り事かと思って聞いていましたが、そんなことでもあるのですね。世間にはた くさんあることですが、三条の姫君がどう思っていらっしゃるだろうかとおかわいそうですよ。 今まであんなに幸福だったのですから」
 「可憐な人のようにお言いになる姫君ですね。がさつな鬼のような女ですよ」
 と言って、また、
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 「決してそのほうもおろそかになどはいたしませんよ。失礼ですがあなた様御自身の御境遇 から御推察なすってください。穏やかにだれへも好意を持って暮らすのが最後の勝利を得る道 ではございませんか。嫉妬深いやかましく言う女に対しては、当座こそ面倒だと思ってこちら も慎むことになるでしょうが、永久にそうしていられるものではありませんから、ほかに対象 を作る日になると、いっそうかれはやかましくなり、こちらは倦怠と反感をその女から覚える だけになります。そうしたことで、こちらの南の女王の態度といい、あなた様の善良さといい、 皆手本にすべきものだと私は信じております」
 と継母をほめると、夫人は笑って、
 「物の例にお引きになればなるほど、私が愛されていない妻であることが明瞭になりますよ。 それにしましてもおかしいことは、院は御自身の多情なお癖はお忘れになったように、少しの 恋愛事件をお起こしになるとたいへんなことのようにお訓しになろうとしたり、蔭でも御心配 になったりするのを拝見しますと、賢がる人が自己のことを棚に上げているということのよう な気がしてなりませんよ」
 こう花散里夫人が言った。
 「そうですよ。始終品行のことで教訓を受けますよ。親の言葉がなくても私は浮気なことな どをする男でもないのに」
 大将は非常におかしいと思うふうであった。
 院のお居間へも来た大将を御覧になって、院は新事実を知っておいでになったが、知った顔
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を見せる必要はないとしておいでになって、ただ顔をながめておいでになるのであった。それ は非常に美しくて今が男の美の盛りのような夕霧であった。今問題になっているような恋愛事 件をこの人が起こしても、だれも当然のことと認めてしまうに違いないと思召された。鬼神で も罪を許すであろうほどな鮮明な美貌からは若い光と匂いが散りこぼれるようである。感情に まだ多少の欠陥のある青年者でもなく、どこも皆完全に発達したきれいな貴人であると院は御 覧になって、問題の起こるのももっともである。女でいてこの人を愛せずにおられるはずもな く、鏡を見てみずから慢心をせぬわけもなかろうとわが子ながらもお思いになる院でおありに なった。
 昼近くなって大将は三条の家へ帰ったのであった。家へはいるともうすぐに何人もの同じほ どの子供たちがそばへまつわりに来た。夫人は帳台の中に寝ていた。大将がそこへ行っても目 も見合わせようとしない。恨めしいのであろう、もっともであると夕霧も知っているのである が、気にとめぬふうをして夫人の顔の上にかかった夜着の端をのけると、
 「ここをどこと思っておいでになったのですか。私はもう死んでしまいましたよ。平生から 私のことを鬼だとお言いになりますから、いっそほんとうの鬼になろうと思って」
 と夫人は言った。
 「あなたの気持ちは鬼以上だけれど、あなたの顔はそうでないから私はきらいになれないだ ろう」
 何一つやましいこともないようにこんな冗談を言う良人を夫人は不快に思って、
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 「美しい恋をする人たちの中に混じって生きていられない私ですから、どんな所でも行って しまいます、もうあなたの念頭になぞ置かれたくない。長くいっしょにいたことすら後悔して いるのですから」
 と言って、起き上がった夫人の愛嬌のある顔が真赤になっていて一種の魅力をもっていた。
 「子供らしく始終腹をたてる鬼だから、もう見なれて怖ろしい気はしなくなった。少し恐ろ しいところを添えたいね」
 と良人が冗談事にしてしまおうとするのを、
 「何を言っているのですか。おとなしく死んでおしまいなさいよ。私も死にますよ。いろん なことを聞いているとますますあなたがいやになりますよ。置いて死ねばまたどんなことをな さるかと気がかりだから」
 と腹をたてるのであるが、ますます愛嬌の出てくる夫人を夕霧は笑顔で見ながら、
 「近くで見るのがいやになっても、私の噂を無関心には聞かないでしょう。あなたはどんな に二人の宿縁の深いかを知らすために、私を殺して自分も死のうというのですね。二人の葬儀 をいっしょにしてもらうというような約束は前にしてあったのだからね」
 大将はまだ夫人の嫉妬に取り合わないふうをして、いろいろにすかしたり、なだめたりして いると、若々しく単純な性質の夫人であるから、良人の言葉はいいかげんな言葉であると思い ながらも機嫌が直ってゆくのを、哀れに思いながらも、大将の心は一条の宮へ飛んでいた。あ ちらも意志の強いばかりの女性とはお見えにならぬが、やはり自分との結婚を肯定することは
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できずに、尼にでもなっておしまいになれば、自分の不名誉であると思うと、当分は毎夜あち らに行っていねばならぬとあわただしい気がして、日の暮れていく空をながめても、まだ今日 でさえお返事をくださらないではないかと煩悶された。昨日から今日へかけて何一つ食べなか った夫人が夕食をとったりしていた。
 「昔から私はあなたのために、どれほどの苦労をしたことだろう。大臣が冷酷な処置をおと りになったから、失恋男とだれにも言われるのを我慢して、あちこちからある縁談を皆断わっ て、すべて棄権をしてしまっていたようなことは女だってそうはできないことだと皆言いまし たよ。どうしてそんなにしていられただろうと、自分ながら若い時の自重心を認めないではい られないのですからね。今のあなたは私をあくまで憎んでいても、愛すべき人たちが家の中い っぱいにいるのだから、あなた一人の問題ではなくなったような現在に、軽々しい挙動はでき ないではありませんか。よく見ていてください。どんなに変わらぬ愛を持っている私であるか を、長い将来に見てください。命だけではあなたとさえ引き離されることがあるでしょうが ね」
 こんな話になって大将は泣き出した。夫人も昔のことを思い出すと、あんなにもして周囲に 打ち勝って育ててきた恋から夫婦になっている自分たちではないかと、さすがに宿縁の深さも 思われるのであった。畳み目の消えた衣服を脱ぎ捨てて、ことにきれいなのを幾つも重ね、薫 香で袖を燻べることもして、化粧もよくした良人が出かけて行く姿を、灯の明りで見ていると 涙が流れてきた。夕霧の脱いだ単衣の袖を、夫人は自分の座のほうへ引き寄せて、
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 「馴るる身を恨みんよりは松島のあまの衣にたちやかへまし
 どうしてもこのままでは辛抱ができない」
 と独言するのに夕霧は気づくと、出かける足をとめて、
 「ほんとうに困った心ですね。
  松島のあまの濡衣馴れぬとて脱ぎ変へつてふ名を立ためやは」
 と言った。急いだからであろうが平凡な歌である。
 一条ではまだ前夜のまま宮が内蔵からお出にならないために、女房たちが、
 「こんなふうにいつまでもしておいでになりましては、若々しい、もののおわかりにならぬ 方だという評判も立ちましょうから、平生のお座敷へお帰りになりまして、そちらでお心持ち を殿様の御了解なさいますようにお話しあそばせばよろしいではございませんか」
 と言うのを、もっともなことに宮もお思いになるのであるが、世間でこれからの御自身がお 受けになる譏りもつらく、過去のあるころにその人に好意を持っておいでになった御自身をさ え恨めしく、そんなことから母君を失ったとお考えになると最もいとわしくて、この晩もお逢 いにはならなかった。
 「あまりに、御冷酷過ぎる」
 こんな気持ちをいろいろに言って取り次がせて夕霧はいた。女房たちも同情をせずにおられ
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ないのであった。
 「少しでも普通の人らしい気分が帰ってくる時まで、忘れずにいてくだすったならとおっし ゃるのでございます。母君の喪中だけはほかのことをいっさい思わずに謹慎して暮らしたいと いう思召しが濃厚でおありあそばす一方では、知らぬ者がないほどにあなた様のことが世間へ 知れましたのを残念がっておいでになるのでございます」
 「私の愛は噂とか何とかいうものに左右されない絶大なものなのだがね。そんなことが理解 していただけないとは苦しいものだ」
 と大将は歎息して、
 「普通にお居間のほうへおいでになれば、物越しで私の心持ちをお話しするだけにとどめて、 それ以上のことはまだいつまでも待っていていいのです」
 同じようなことをまた取り次がせるのであったが、
 「弱いものがこんなに悲しみに疲れております際に、しいていろいろなことをおっしゃるの が非常にお恨めしく思われるのでございます。人が見てどう私が思われることでしょう。その 一部は私の不幸なせいでもあるでしょうが、あなた様がお一人ぎめをあそばしたからだとこれ を思います」
 とまた御抗弁になった。まだ親しもうとあそばすふうはない。そうは言っても、いつまでも 真の夫婦になりえないことは、人の口から世間へも伝わるであろうから恥ずかしいと、この女 房たちに対してさえきまり悪く思う大将であった。
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 「実際のことは宮様の御意志どおりの関係にとどめるにしても、この状態はあまりに変則だ。 またそうであるからといって、私が断然来なくなったら、宮様はどういう世評をお取りになる だろう。あまりに人生を悲観なされ過ぎて、御幼稚な態度をお改めにならないのを私は宮様の ために惜しむ」
 などと大将が責めるのに道理があるように少将は思い、また夕霧の様子には気の毒で見てお られぬところがあって、女房たちが通って行く出入り口にしてある内蔵の北の戸から大将を入 れた。ひどいことをする恨めしい人たちであると宮は女房をお思いになり、こうしてだれの心 も利己的になるのであるから、これ以上のことを女房たちからされないものでもないとお考え になると、その人ら以外に頼む者のない今の御境遇をかえすがえす悲しくお思いになった。男 は宮のお心の動かねばならぬようにして多くささやくのであるが、宮はただ恨めしくばかりお 思いになって、この人に親しみを見いだそうとはあそばさない。
 「こんなふうにあらん限りの侮蔑を加えられております私が非常に恥ずかしくて、あるまじ い恋をし始めました初めの自分を後悔いたしますが、これは取り返しうるものではありません し、あなた様のためにももうそれはしてならないことです。ですからもう御自分はどうでもよ いという徹底した弱い心におなりなさい。思うことのかなわない時に身を投げる人があるので すから、私のこの愛情を深い水とお思いになって、それへ身を捨てるとお思いになればよいと 思います」
 と夕霧は言った。単衣の着物にお身体を包むようにして、ほかへお見せになる強さといって
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は声を出してお泣きになることよりおできにならないのも、あくまで女らしくお気の毒なのを ながめていて、なぜこうであろう、こんなにまで自分をお愛しになることが不可能なのであろ うか、どんなに許しがたく思う人といっても、これほどの志を見ていては自然に心のゆるんで くるものであるが、岩や木以上に無情なふうをお見せになるのは、前生の約束がそうであるた めで、自分に憎悪をお持ちにならねばならぬ運命を持っておいでになるのではなかろうかと、 こんなことを思った時から大将はあまりなお扱いに憤りに似た気持ちが起こって、三条の夫人 が今ごろどう思っているかと考えだすと、単純な幼心に思い合った昔のこと、近年になって望 みがかない、同棲することのできて以来の信頼し合った夫婦の情味などが思われて、自身のし 始めたことではあるが、この恋が味気なくなって、もうしいて宮の御機嫌をとろうとも努めず に歎き明かした。こんなみじめなことで来たり出て行ったりすることもきまり悪くこの人は思 って、今日はこちらにとどまっていることにして落ち着いているのにも、宮は反感がお持たれ になって、いよいようといふうをお見せになることが増してくるのを、幼稚なお心の方である と、恨めしく思いながらも哀れに感じていた。蔵の中も別段細かなものがたくさん置かれてあ るのでなく、香の唐櫃、お置き棚などだけを体裁よくあちこちの隅へ置いて、感じよく居間に 作って宮はおいでになるのである。中は暗い気のする所へ、出たらしい朝日の光がさして来た 時に、夕霧は被いでおいでになる宮の夜着の端をのけて、乱れたお髪を手でなで直しなどしな がらお顔を少し見た。上品で、あくまで女らしく艶なお顔であった。男は正しく装っている時 以上に、部屋の中での柔らかな姿が顔を引き立ててきれいに見えた。柏木が普通の風采でしか
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ないのにもかかわらず思い上がり切っていて、宮を美人でないと思うふうを時々見せたことを 宮はお思い出しになると、その当時よりも衰えてしまった自分をこの人は愛し続けることがで きないであろうとお考えられになって、恥ずかしくてならぬ気があそばされるのであった。
 宮はなるべく楽観的にものを考えることにお努めになってみずから慰めようとしておいでに なるのであった。ただ複雑な関係になって、あちらへもこちらへも済まぬわけになることを苦 しくお思いになるのと、おりが母君の喪中であることによってこうした冷ややかな態度をおと り続けになるのである。
 大将の手水や朝餉の粥が宮のお居間のほうへ運ばれた。この際に喪の色を不吉として、なる べく目につかぬようにこの室の東のほうには屏風を立て、中央の室との仕切りの所には香染め の几帳を置いて、目に立つ巻き絵物などは避けた沈の木製の二段の棚などを手ぎわよく配置し てあるのは皆大和守のしたことであった。派手な色でない山吹色、黒みのある紅、深い紫、青 鈍などに喪服を着かえさせ、薄紫、青朽葉などの裳を目だたせず用いさせた女房たちが大将の 給仕をした。今まで婦人がただけのお住居であって、規律のくずれていたのを引き締めて、少 数の侍を巧みに使い不都合のないようにしているのも、皆一人の大和守が利巧な男だからであ る。こうして思いがけず勢力のある宮の御良人がおできになったことを聞いて、もとは勤めて いなかった家司などが突然現われて来て事務所に詰め、仕事に取りかかっていた。
 実質はともかくも、この家の主人らしい生活を大将が一条で始めている数日間を、三条の夫 人はもう捨てられ果てたもののように見て、これほど愛をことごとく新しい人に移すこともし
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ないであろうと信頼していたのは自分の誤解であった、忠実であった良人がほかに恋人のでき た時は、愛の痕跡も残さず変わってしまうものだと人の言うのは嘘でないと、苦しい体験をは じめてするという気もしてこの侮辱にじっと堪えていることはできないことであると思って、 父の大臣家へ方角除けに行くと言って邸を出て行った。女御が実家に帰っている時でもあった から、姉君にも逢って、悩ましい気持ちの少し紛らすこともできた雲井の雁夫人は、平生のよ うにすぐ翌日に邸へ帰るようなこともせず父の家の客になっていた。これはすぐに左大将へも 聞こえて行った。そんなことがあるようにも予感されたことである、はげしい性質の人である からと大将は思った。大臣もまたりっぱな人物でありながら大人らしい寛大さの欠けた性格で あるから、一徹に目にものを見せようとされないものでもない、失敬である、もう絶交すると いうような態度をとられて、家庭の醜態が外へ知られることになってはならぬと驚いて、三条 へ帰って見ると、子供は半分ほどあとに残されているのであった。姫君たちと幼少な子だけを 夫人はつれて行ったのである。父を見つけて喜んでまつわりに来る子もあれば、母を恋しがっ て泣く子もあるのを、大将は心苦しく思った。手紙をたびたびやって迎えの車を出すが、夫人 からは返事もして来なかった。こうして妻に意地を張られるようなことは、自分らの貴族の間 にはないことであるがと、うとましく思いながらも、大臣へ対しての義理を思って、日の暮れ るのを待って自身で夕霧は迎えに行った。
 「寝殿にいらっしゃいます」
 ということで、平生行って使っている座敷のほうには女房だけがいた。男の子供たちだけは
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乳母に添ってここにいた。
 「今さら若々しい態度をとるあなたではありませんか。かわいい人たちをあちらこちらへ置 きはなしにして、自身は寝殿でお姫様に帰った気でいられるあなたの気持ちは解釈に苦しむ。 私への愛情がそんなふうに少ないとは私にもわかっているのですが、昔からあなたにばかり惹 かれる心を私は持っているし、今ではおおぜいのかわいそうな子供ができているのですから、 二人の結合のゆるむことはないと信じていたのに、ちょっとしたことにこだわって、こんな扱 いを私になさることはいいことだろうか」
 取り次ぎによって夕霧はこう妻を責めた。
 「もうすべてのことがお気に入らないものになってしまったのですから、お困りになる私の 性質は今さら直す必要もないと思います。かわいそうな子供たちだけを愛してくださればうれ しく思います」
 と夫人は返事をさせた。
 「おとなしい御挨拶だ。結局はだれの不名誉になることとお思いになるのだろう」
 と言って、しいて夫人の出て来ることも求めずに、この晩は一人で寝ることにした。どちら つかずの境遇になったと思いながら、子供たちをそばへ寝させて大将は女二の宮の御様子も想 像するのであった。どんなにまた煩悶をしておいでになる夜であろうなどと考えると苦しくな って、こんな遣る瀬ない苦しみばかりをせねばならぬ恋というものをなぜおもしろいことに人 は思うのであろうと、懲りてしまいそうな気もした。夜が明けた時に、
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 「こんなことを若夫婦のように言い合っているのも恥ずかしいことですから、だめならだめ とあきらめますが、もう一度だけもとどおりになってほしいという私の希望をいれたらどうで すか。三条にいる小さい人たちもかわいそうな顔をして母を恋しがっていましたが、選って残 しておいでになったのにはそれだけの考えがあるのでしょうから、あなたに愛されない子供達 を私の手でどうにか育てましょう」
 とまた多少威嚇的なことを夫人へ言ってやった。一本気なこの人は自分の生んだ子供たちま でもほかの家へつれて行くかもしれぬという不安を夫人は覚えた。
 「姫君を本邸のほうへ帰してください。顔を見に来ることもこうしたきまりの悪い思いを始 終しなければならないことですから、たびたびはようしません。あちらに残っている子供たち も寂しくてかわいそうですから、せめていっしょに置いてやりたいと思います」
 とまた大将は言ってよこした。そうしてから小さくてきれいな顔をした姫君たちが父のいる 座敷へつれられて来た。夕霧はかわいく思って女の子たちを見た。
 「お母様の言うとおりになってはいけませんよ。ものの判断のできない女になっては悪いか らね」
 などと教えていた。
 大臣は娘と婿のこの事件を聞いて外聞を悪がっていた。
 「しばらく静観をしているべきだった。大将にも考えがあってしていたことだろうからね。 婦人が反抗的に家を出て来るようなことは軽率なことに見られて、かえって人の同情を失って
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しまう。しかしもうそうした態度を取りかけた以上は、すぐに負けて出てはならない。そのう ちに先方の誠意のありなしもわかることだから」
 と娘に言って、一条の宮へ蔵人少将を使いにして大臣は手紙をお送りするのであった。
  契りあれや君を心にとどめおきて哀れと思ひ恨めしと聞く
 無関心にはなれません因縁があるのでございますね。
 この手紙を持って、少将はずんずん宮家へはいって来た。南の縁側に敷き物を出したが、女 房たちは応接に出るのを気づらく思った。まして宮はわびしい気持ちになっておいでになった。 この人は兄弟の中で最も風采のよい人で、落ち着いた態度で邸の中を見まわしながらも、亡き 兄のことを思い出しているふうであった。
 「始終伺っている所のような気になって私はいるのですが、そちらでは親しい者とお認めく ださらないかもしれませんね」
 などと皮肉を少し言う。大臣への返事をしにくく宮は思召して、
 「私にはどうしても書かれない」
 こうお言いになると、
 「お返事をなさいませんと、あちらでは礼儀のないようにお思いになるでございましょうし、 私どもが代わって御挨拶をいたしておいてよい方でもございませんから」
 女房たちが集まって、なおもお書きになることをお促しすると、宮はまずお泣きになって、
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御息所が生きていたなら、どんなに不愉快なことと自分の今日のことを思っても、身に代えて 罪は隠してくれるであろうと母君の大きな愛を思い出しながら、お書きになる紙の上には、墨 よりも涙のほうが多く伝わって来てお字が続かない。
  何故か世に数ならぬ身一つを憂しとも思ひ悲しとも聞く
 と実感のままお書きになり、それだけにして包んでお出しになった。少将は女房たちとしば らく話をしていたが、
 「時々伺っている私が、こうした御簾の前にお置かれすることは、あまりに哀れですよ。こ れからはあなたがたを友人と思って始終まいりますから、お座敷の出入りも許していただけれ ば、今日までの志が酬いられた気がするでしょう」
 などという言葉を残して蔵人少将は帰った。
 こんなことから宮の御感情はまたまた硬化していくのに対して、夕霧が煩悶と焦躁で夢中に なっている間、一方で雲井の雁夫人の苦悶は深まるばかりであった。こんな噂を聞いている典 侍は、自分を許しがたい存在として嫉妬し続ける夫人にとって今度こそ侮りがたい相手が出現 したではないかと思って、手紙などは時々送っているのであったから、見舞いを書いて出した。
  数ならば身に知られまし世の憂さを人のためにも濡らす袖かな
 失敬なというような気も夫人はするのであったが、物の身にしむころで、しかも退屈な中に
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いてはこれにも哀れは覚えないでもなかった。
  人の世の憂きを哀れと見しかども身に代へんとは思はざりしを
 とだけ書かれた返事に、典侍はそのとおりに思うことであろうと同情した。
 夫人と結婚のできた以前の青春時代には、この典侍だけを隠れた愛人にして慰められていた 大将であったが、夫人を得てからは来ることもたまさかになってしまった。さすがに子供の数 だけはふえていった。夫人の生んだのは、長男、三男、四男、六男と、長女、二女、四女、五 女で、典侍は三女、六女、二男、五男を持っていた。大将の子は皆で十二人であるが、皆よい 子で、それぞれの特色を持って成長していった。典侍の生んだ男の子は顔もよく、才もあって 皆すぐれていた。三女と二男は六条院の花散里夫人が手もとへ引き取って世話をしていた。そ の子供たちは院も始終御覧になって愛しておいでになった。それはまったく理想的にいってい るわけである。


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