47巻 総 角


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      心をば火の思ひもて焼かましと願ひき
      身をば煙にぞする        (晶子)
 長い年月馴れた河風の音も、今年の秋は耳騒がしく、悲しみを加重するものとばかり宇治の 姫君たちは聞きながら、父宮の御一周忌の仏事の用意をしていた。大体の仕度は源中納言と山 の御寺の阿闍梨の手でなされてあって、女王たちはただ僧たちへ出す法服のこと、経巻の装幀 そのほかのこまごまとしたものを、何がなければ不都合であるとか、何を必要とするとかいう ようなことを周囲の女たちが注意するままに手もとで作らせることしかできないのであったか ら、薫のような後援者がついておればこそ、これまでに事も運ぶのであるがと思われた。
 薫は自身でも出かけて来て、除服後の姫君たちの衣服その他を周到にそろえた贈り物をした。 その時に阿闍梨も寺から出て来た。二人の姫君は名香の飾りの糸を組んでいる時で、「かくて もへぬる」(身をうしと思ふに消えぬものなればかくてもへぬるものにぞありける)などと言 い尽くせぬ悲しみを語っていたのであるため、結び上げた総角(組み紐の結んだ塊)の房が御 簾の端から、几帳のほころびをとおして見えたので、薫はそれとうなずいた。
 「自身の涙を玉に貫そうと言いました伊勢もあなたがたと同じような気持ちだったのでしょ うね」
 こうした文学的なことを薫が言っても、それに応じたようなことで答えをするのも恥ずかし
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くて、心のうちでは貫之朝臣が「糸に縒るものならなくに別れ路は心細くも思ほゆるかな」と 言い、生きての別れをさえ寂しがったのではなかったかなどと考えていた。御仏への願文を文 章博士に作らせる下書きをした硯のついでに、薫は、
  あげまきに長き契りを結びこめ同じところに縒りも合はなん
 と書いて大姫君に見せた。またとうるさく女王は思いながらも、
  貫きもあへずもろき涙の玉の緒に長き契りをいかが結ばん
 と返しを書いて出した。「逢はずば何を」(片糸をこなたかなたに縒りかけて合はずば何を玉 の緒にせん)と薫は歎かれるのであるが、自身のことを正面から言うことはできずに、洩らす 溜息に代える程度により口へ出しえないのは、姫君のあまりに高貴な気に打たれてしまうこと が多いからであった。それで兵部卿の宮と中の君の縁組みのことを熱心なふうに言い出した。
 「それほど深くお思いになるのでなく好奇心をお働かせになることが多くて、お申し込みに なったのを、冷淡にお扱われになるために、負けぬ気を出しておいでになるだけではないかと、 私は考えもしまして、いろいろにして御様子を見ていますが、どうも誠心誠意でお始めになっ た恋愛としか思われません。それをどうしてただ今のようなふうにばかりこちらではお扱いに なるのでしょう。ものの判断がおできにならぬほどの少女ではおられない聡明なあなたの御意 見をよく伺いたいと私は思っているのですが、いつまでも御相談相手にしてくださいませんの
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は、私の純粋な信頼をおくみいただけない、恨めしいことだと思っています。可否だけでも言 ってくださいませんか」
 薫はまじめであった。
 「あなたの御親切に感謝しておりますればこそ、こんなにまで世間に例のございませんほど にもお親しくおつきあい申し上げているのでございます。それがおわかりになりませんのは、 あなたのほうに不純な点がおありになるのではないかと疑われます。少女でもないとおっしゃ いますが、実際こんな寄るべない身の上になっていましては、ありとあらゆることを普通の人 であれば考え尽くしていなければなりませんのに、どんなことにも幼稚で、ことに今のお話の ようなことは、宮が生きておいでになりましたころにも、こんな話があればとかそうであれば とか将来の問題としてほかの話の中ででもおっしゃらなかったことでしたから、やはり宮様の お心は、私たちはただこのままで、他の方のような結婚の幸福というようなことは念頭に置か ずに一生を過ごすようにとお考えになったに違いないとそう思っているものですから、兵部卿 の宮様のことにつきましても可否の言葉の出しようがないのでございます。けれど妹は若くて、 こうした山陰に永久に朽ちさせてしまうのがあまりに心苦しゅうございましてね、なにも私と 同じ道を取らずともよいはずであるとも考えられまして、ほかのほうのことも空想いたします が、どんな運命が前途にありますことか」
 と言って、物思わしそうに大姫君の歎息をするのが哀れであった。中の君の結婚談にもせよ はっきりと年長者らしく、若い貴女は縁組みの話の賛否を言い切りうるはずはないのである、
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と同情した薫は、別の所で例の老女の弁を呼び出して、
 「以前は宮様を仏道の導きとしてお訪ねしていたものですが、お心細くお見えになるように なった御薨去前になって、お二方の将来のことを私の計らいに任せるというような仰せがあっ たのですよ。ところが宮様の御希望あそばしたようになろうとは姫君がたはお思いにならない で、限りなくささげる尊敬と熱情を無視されるのですから、何か別に対象とあそばされる人が あるのではないかという疑いとでもいうようなものが私の心に起こってきましたよ。あなたは 世間で言っていることも聞いておいでになるでしょう、変わった性情から私は人間並みに結婚 をしようというような考えは全然捨てていたものでした。それが宿命というものなのでしょう か、こちらの姫君に心をお惹かれすることになって、今ではもう世間の噂にも上っているだろ うと思われるまでになっているのですから、できることなら宮様の御遺志にもかなう結果を生 じさせたいと私の思うのは、勝手なことかはしれませんが、だれからも批難をされないでいい ことかと思う。例のあることだしね」
 と薫は話し続け、また、
 「兵部卿の宮様のことも、私がお勧めしている以上は安心して御承諾くだすっていいものを、 そうでないのはお二方の女王様にそれぞれ別なお望みがあるのではないのですか。あなたから でもよく聞きたいものですよ。ねえ、どんなお望みがあるのだろう」
 とも、物思わしそうにして言うのであった。こんな時によくない女房であれば、姫君がたを 批難したり、自身の立場を有利にしようとしたり試みるものであるが、弁はそんな女ではなか
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った。心の中では二人の女王の上にこの縁がそれぞれ成立すればどんなにいいであろうとは思 っているのであるが、
 「初めからそんなふうに少し変わった御性格なのでございますからね。どうして、どうして ほかの方を対象にお考えなどなさるものでございますか。女房なども宮様のおいでになりまし た当時と申しても何の頼もしいところのある親王家ではなかったのですから、わが身を犠牲に しますのを喜びません人たちは、それぞれに相当な行く先を作ってお暇をとってまいるのでご ざいましてね。昔のいろいろな関係で切るにも切られぬ主従の御縁のある人でも、こんなにだ れもが出て行ってしまいますのを見ておりましては、しばらくでも残っているのがいやでなら ぬふうを見せましてね、そしてまたその人たちは姫君がたに、『宮様の御在世中はお相手によ って尊貴なお家を傷つけるかと御遠慮もあそばしたでしょうが、お心細いお二人きりにおなり になったのですもの、どんな結婚でもなすったらいいはずです、それをとやかくと言う人はも ののわからぬ人間だとかえって軽蔑あそばしたらいいのです、どうしてこんなふうにばかりし ておいでになることができますか、松の葉を食べて行をするという坊様たちでさえ、生きんが ために都合のよい一派一派を開いていくものでございますから』などと、こんないやなことを 申しましてね、若い姫君がたのお心を苦しめまして利己的に媒介者になろうといたしますが、 女王様はそんな浮薄な言葉にお動きになるような方がたではございません。お妹様だけには人 並みな幸福を得させたいとお考えになっているようでございます。こうした路のたいへんな所 へ御訪問をお欠かしあそばさないあなた様の御好意は長い年月の間によくおわかりになってい
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らっしゃることでもございますし、ただ今になりましてはことさらあなた様のあたたかい御庇 護のもとにいらっしゃるわけでございますからね。大姫君は中の君様をお望みになればとそう 希っていらっしゃるらしゅうございます。兵部卿の宮様からお手紙は始終おいただきになるの ですが、それは誠意のある求婚者だとも認めておられないようでございます」
 弁は姫君の意志を伝えようとしただけである。
 「宮様の御遺言を身に沁んで承った私は、生きているかぎりこちらのお世話を申し上げる義 務があると思うのですから、両女王のどなたでもお許しくだされば結婚してもいいわけですが、 同じことのようで、しかも姫君が中姫君のために私を撰んでくださいましたことはうれしいこ とですが、ともかくも私が捨てたい世にただ一つ深く心の惹かれる感じを味わい、また死後ま でもこの思いは残ろうと思った方から、ほかの方へ愛を移すことはできるものでありませんよ。 改めて心をそう持とうとしても無理なことです。私の望むところは世間並みの恋の成立ではあ りません。ただ今のようなふうに何かを隔てたままでも、何事に限らず話し合う相手にいつま でもなっていていただきたいだけです。私には姉妹などでそうした間柄になりうるような人も なくて寂しいのですよ。人生の身にしむ点も、おもしろいことも、困ることも、その時その時 ただ一人で感じているだけであるのが物足りないのです。中宮はあまりに御身分が高過ぎて、 なれなれしく私の思うとおりのことを何から何まで申し上げられないし、三条の宮様は母とも 思われぬ若々しいお気持ちの方ではありましても、子は子の分があって、どんな話も申し上げ るというわけにはゆきません。そのほかの女性というものはすべて皆私には遠い遠い所にいる
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としか考えられませんで、私にいつも孤独の感を覚えています。心細いのですよ。その場かぎ りの戯れ事でも恋愛に関したことはまぶしい気がして、人から見れば見苦しい頑固な男になっ ているのです。まして深く恋しく思う方にはそれをお話しすることも困難なことに思われます。 恨めしく思ったり、悲しんだりしている恋の悶えもお知らせすることができなくて、われなが ら変わった生まれつきが憎まれます。兵部卿の宮のことも私がお受け合いする以上は不安もな かろうと思って任せてくだすってよさそうなものですがね」
 こんなことを薫は言っていた。老いた弁もまたこの心細い身の上の姫君たちに上もない二つ の縁が成立するようにとは切に願うところであったが、二女王ともに天性の気品の高さに、自 身の思うことのすべてが言われなかった。
 薫は今夜を泊まることにして姫君とのどかに話がしたいと思う心から、その日を何するとな く山川をながめ募らした。この人の態度が不鮮明になり、何かにつけて怨みがましくものを言 う近ごろの様子に、煩わしさを覚え出した姫君は、親しく語り合うことがいよいよ苦しいので あったが、その他の点では世にもまれな誠意をこの一家のために見せる薫であったから、冷や やかには扱いかねて、その夜も話の相手をする承諾はしたのであった。
 仏間と客室の間の戸をあけさせ、奥のほうの仏前には灯を明るくともし、隣との仕切りには 御簾へ屏風を添えて姫君は出ていた。客の座にも灯の台は運ばれたのであるが、
 「少し疲れていて失礼な恰好をしていますから」
 と言い、それをやめさせて薫は身を横たえていた。菓子などが客の夕餐に代えて供えられて
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あった。従者にも食事が出してあった。廊の座敷にあたるような部屋にその人たちは集められ ていて、こちらを静かにさせておき、客は女王と話をかわしていた。打ち解けた様子はないな がらになつかしく愛嬌の添ったふうでものを言う女王があくまでも恋しくてあせり立つ心を薫 はみずから感じていた。この何でもないものを越えがたい障害物のように見なして恋人に接近 なしえない心弱さは愚かしくさえ自分を見せているのではないかと、こんなことを心中では思 うのであるが、素知らぬふうを作って、世間にあったことについて、身にしむ話も、おもしろ く聞かされることもいろいろと語り続ける中納言であった。女王は女房たちに近い所を離れず いるように命じておいたのであるが、今夜の客は交渉をどう進ませようと思っているか計られ ないところがあるように思う心から、姫君をさまで護ろうとはしていず、遠くへ退いていて、 御仏の灯もかかげに出る者はなかった。姫君は恐ろしい気がしてそっと女房を呼んだがだれも 出て来る様子がない。
 「何ですか気分がよろしくなくなって困りますから、少し休みまして、夜明け方にまたお話 を承りましょう」
 と、今や奥へはいろうとする様子が姫君に見えた。
 「遠く山路を来ました者はあなた以上に身体が悩ましいのですが、話を聞いていただくこと ができ、また承ることの喜びに慰んでこうしておりますのに、私だけをお置きになってあちら へおいでになっては心細いではありませんか」
 薫はこう言って屏風を押しあけてこちらの室へ身体をすべり入らせた。恐ろしくて向こうの
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室へもう半分の身を行かせていたのを、薫に引きとめられたのが非常に残念で、
 「隔てなくいたしますというのはこんなことを申すのでしょうか。奇怪なことではございま せんか」
 と批難の言葉を発するのがいよいよ魅力を薫に覚えしめた。
 「隔てないというお気持ちが少しも見えないあなたに、よくわかっていただこうと思うから です。奇怪であるとは、私が無礼なことでもするとお思いになるのではありませんか。仏のお 前でどんな誓言でも私は立てます。決してあなたのお気持ちを破るような行為には出まいと初 めから私は思っているのですから、お恐れになることはありませんよ。私がこんなに正直にお となしくしておそばにいることはだれも想像しないことでしょうが、私はこれだけで満足して 夜を明かします」
 こう言って、薫は感じのいいほどな灯のあかりで姫君のこぼれかかった黒髪を手で払ってや りながら見た顔は、想像していたように艶麗であった。何の厳重な締まりもないこの山荘へ、 自分のような自己を抑制する意志のない男が闖入したとすれば、このままで置くはずもなく、 たやすくそうした人の妻にこの人はなり終わるところであった、どうして今までそれを不安と せずに結婚を急ごうとはしなかったかとみずからを批難する気にもなっている薫であったが、 言いようもなく情けながって泣いている女王が可憐で、これ以上の何の行為もできない。こん なふうの接近のしかたでなく、自然に許される日もあるであろうとのちの日を思い、男性の力 で恋を得ようとはせず、初めの心は隠して相手を上手になだめていた。
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 「こんな心を突然お起こしになる方とも知らず、並みに過ぎて親しく今までおつきあいをし ておりました。喪の姿などをあらわに御覧になろうとなさいましたあなたのお心の思いやりな さもわかりましたし、また私の抵抗の役だたなさも思われまして悲しくてなりません」
 と恨みを言って、姫君は他人に見られる用意の何一つなかった自身の喪服姿を灯影で見られ るのが非常にきまり悪く思うふうで泣いていた。
 「そんなにもお悲しみになるのは、私がお気に入らないからだと恥じられて、なんともお慰 めのいたしようがありません。喪服を召していらっしゃる場合ということで私をお叱りなさい ますのはごもっともですが、私があなたをお慕い申し上げるようになりましてからの年月の長 さを思っていただけば、今始めたことのように、それにかかわっていなくともよいわけでなか ろうかと思います。あなたが私の近づくのを拒否される理由としてお言いになったことは、か えって私の長い間持ち続けてきた熱情を回顧させる結果しか見せませんよ」
 薫はそれに続いてあの琵琶と琴の合奏されていた夜の有明月に隙見をした時のことを言い、 それからのちのいろいろな場合に恋しい心のおさえがたいものになっていったことなどを多く の言葉で語った。姫君は聞きながら、そんなことがあったかと昔の秋の夜明けのことに堪えら れぬ羞恥を覚え、そうした心を下に秘めて長い年月の間表面をあくまでも冷静に作っていたの であるかと、身にしみ入る気もするのであった。薫はその横にあった短い几帳で御仏のほうと の隔てを作って、仮に隣へ寄り添って寝ていた。名香が高くにおい、樒の香も室に満ちている 所であったから、だれよりも求道心の深い薫にとっては不浄な思いは現わすべくもなく、また
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墨染めの喪服姿の恋人にしいてほしいままな力を加えることはのちに世の中へ聞こえて浅薄な 男と見られることになり、自分の至上とするこの恋を踏みにじることになるであろうから、服 喪の期が過ぎるのを待とう。そうしてまたこの人の心も少し自分のほうへなびく形になった時 にと、しいて心をゆるやかにすることを努めた。秋の夜というものは、こうした山の家でなく ても身にしむものの多いものであるのに、まして峰の嵐も、庭に鳴く虫の声も絶え間なくてこ こは心細さを覚えさせるものに満ちていた。人生のはかなさを話題にして語る薫の言葉に時々 答えて言う姫君の言葉は皆美しく感じのよいものであった。
 宵を早くから眠っていた女房たちは、この話し声から悪い想像を描いて皆部屋のほうへ行っ てしまった。召使は信じがたいものであると父宮の言ってお置きになったことも女王は思い出 していて、親の保護がなくなれば女も男も自分らを軽侮して、すでにもう今夜のような目にあ っているではないかと悲しみ、宇治の河音とともに多くの涙が流れるのであった。そして明け 方になった。薫の従者はもう起き出して、主人に帰りを促すらしい作り咳の音を立て、幾つの 馬のいななきの声の聞こえるのを、薫は人の話に聞いている旅宿の朝に思い比べて興を覚えて いた。
 薫は明りのさしてくるのが見えたほうの襖子をあけて、身にしむ秋の空を二人でながめよう とした。女王も少しいざって出た。軒も狭い山荘作りの家であったから、忍ぶ草の葉の露も次 第に多く光っていく。室の中もそれに準じて白んでいくのである。二人とも艶な容姿の男女で あった。
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 「同じほどの友情を持ち合って、こんなふうにいつまでも月花に慰められながら、はかない 人生を送りたいのですよ」
 薫がなつかしいふうにこんなことをささやくのを聞いていて、女王はようやく恐怖から放た れた気もするのであった。
 「こんなにあからさまにしてお目にかかるのでなく、何かを隔ててお話をし合うのでしたら、 私はもう少しも隔てなどを残しておかない心でおります」
 と女は言った。外は明るくなりきって、幾種類もの川べの鳥が目をさまして飛び立つ羽音も 近くでする。黎明の鐘の音がかすかに響いてきた、この時刻ですらこうしてあらわな所に出て いるのが女は恥ずかしいものであるのにと女王は苦しく思うふうであった。
 「私が恋の成功者のように朝早くは出かけられないではありませんか。かえってまた他人は そんなことからよけいな想像をするだろうと思われますよ。ただこれまでどおり普通に私をお 扱いくださるのがいいのですよ。そして世間のとは内容の違った夫婦とお思いくだすって、今 後もこの程度の接近を許しておいてください。あなたに礼を失うような真似は決してする男で ないと私を信じていてください。これほどに譲歩してもなおこの恋を護ろうとする男に同情の ないあなたが恨めしくなるではありませんか」
 こんなことを言っていて、薫はなおすぐに出て行こうとはしない。それは非常に見苦しいこ とだと姫君はしていて、
 「これからは今あなたがお言いになったとおりにもいたしましょう。今朝だけは私の申すこ
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とをお聞き入れになってくださいませ」
 と言う。いかにも心を苦しめているのが見える。
 「私も苦しんでいるのですよ。朝の別れというものをまだ経験しない私は、昔の歌のように 帰り路に頭がぼうとしてしまう気がするのですよ」
 薫が幾度も歎息をもらしている時に、鶏もどちらかのほうで遠声ではあるが幾度も鳴いた。 京のような気がふと薫にした。
  山里の哀れ知らるる声々にとりあつめたる朝ぼらけかな
 姫君はそれに答えて、
  鳥の音も聞こえぬ山と思ひしをよにうきことはたづねきにけり
 と言った。姫君の居間の襖子の口まで送って行った。そして中の間を昨夜はいった戸口から 客室のほうへ出て薫は横になったが、もとより眠りは得られない。別れて来た人が恋しくて、 こんなにも思われるなら今まで気長な態度がとれなかったはずであるとも歎かれて、京へ帰る 気もしないのであった。
 姫君は人がどんな想像をしているかと思うのが恥ずかしくて、すぐにも枕へつくことはでき なかった。いろいろな思いが女王の胸にわく。親のない娘の心細さにつけこむような女房の取 り次いでくる幾件かの縁談、その青年たちが今一歩思いやりのないことを進めた時に、自分は
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どうなるであろうと、心にもなく、人の妻になってしまう運命が自分を待っているのであろう と、いろいろにも考え合わせてみれば、薫は良人として飽き足らぬところはなく、父宮も先方 にその希望があればと、そんなことを時々お洩らしになったようであった。けれども自分はや はり独身で通そう、自分よりも若く、盛りの美貌を持っていて、この境遇に似合わしくなく、 いたましく見える中の君に薫を譲って、人並みな結婚をさせることができればうれしいことで あろう、自分のことでなくなれば力の及ぶかぎりの世話を結婚する中の君のためにすることが できよう、自分が結婚するのではだれがそうした役を勤めてくれよう、親もない、姉もない。 薫が今少し平凡な男であれば、長く持ち続けられた好意に対してむくいるために、妻になる気 が起きたかもしれぬ。けれどあの人はそうでない、あまりにすぐれた男である、気品が高く近 づきにくいふうもあるではないか、自分には不似合いに思われてならぬ、自分は今までどおり の寂しい運命のままで一人いようと、思い続けて朝まで泣いていたあとの身体のぐあいがよろ しくなくて、中姫君の寝ている帳台の奥のほうへはいって横になった。
 昨夜は平常とは変わっておそくまで話し声がするのを怪しく思いながら、中の君は寝入った のであったから、大姫君のこうして来たのがうれしくて、夜着を姉の上へ掛けようとした時に、 高いにおいがくゆりかかるように立つのを知った。あの宿直の侍が衣服をもらって、困りきっ た薫のにおいであることが思い合わされて、男の熱情と力に姉君が負けたというようなことも あったであろうかと気の毒で、それからまたよく眠りに入ったようにして何も言わなかった。
 薫は朝になってからまた老女の弁に逢いたいと呼び出して、昨日も話した自身の気持ちをこ
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まごまとまた語って行き、そして姫君へは礼儀的な挨拶を言い入れて帰った。
 昨日は総角を言葉のくさびにして歌を贈答したりしていたが、催馬楽歌の「尋ばかり隔てて 寝たれどかよりあひにけり」というようなあやまちをその人としてしまったように妹も思うこ とであろうと恥ずかしくて、気分が悪いということにして大姫君はずっと床を離れずにいた。 女房たちは、
 「もう御仏事までに日がいくらもなくなりましたのに、そのほかには小さいこともはかばか しくできる人もない時のあやにくな姫君の御病気ですね」
 などと言っていた。組紐が皆出来そろってから、中の君が来て、
 「飾りの房は私にどうしてよいかわからないのですよ」
 と訴えるのを聞いて、もうその時にあたりも暗くなっていたのに紛らして、姫君は起きてい っしょに紐結びを作りなどした。
 源中納言からの手紙の来た時、
 「今朝から身体を悪くしておりますから」
 と取り次ぎに言わせて、返事を出さなかったのを、あまりに苦々しい態度だと譏る女たちも あった。
 喪の期が過ぎて除服をするにつけても、片時も父君のあとには生き残る命と思わなかったも のが、こうまで月日を重ねてきたかと、これさえ薄命の中に数えて二人の女王の泣いているの も気の毒であった。一か年真黒な服を着ていた麗人たちの薄鈍色に変わったのも艶に見えた。
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姉君の思っているように、中の君は美しい盛りの姿と見えて、喪の間にまたひときわ立ちまさ ったようにも思われる。髪を洗わせなどした中の君の姿を大姫君はながめているだけで人生の 悲しみも皆忘れてしまう気がするほどな麗容だった。姫君はすべて思うとおりな気がして、結 婚して良人に幻滅を覚えさせることはよもあるまいと頼もしくうれしくて、自身のほかには保 護者のない妹君を親心になって大事がる姉女王であった。
 薫はいくぶんの遠慮がされた恋人の喪服ももう脱がれた時と思って、結婚の初めには不吉と して人のきらう九月ではあったが、待ちきれぬ心でまた宇治へ行った。これまでのようにして 話し合いたいと取り次ぎの女は薫の意を伝えて来るのであったが、
 「不注意からまた病をしまして苦しんでいる際ですから」
 というような返事ばかりを言わせて大姫君は会おうとしなかった。
 存外にあなたは人情味に欠けた方です。女房たちが私をどう見ていることでしょう。
 と今度は文に書いて薫がよこした。
 父の喪服を脱ぎました際の悲しみがずっと続きまして、かえって今のほうが深い暗さの中に
 沈んでおります私ですから、お話を承ることができませぬ。
 返事はこう書いて出された。しかたのない気のする薫は、例のように弁を呼び出して、この 人の力を借ろうと相談した。心細いこの山荘にいて源中納言だけを唯一の庇護者と信じてたよ る心のある女房たちは、弁からの話を聞いて、この結婚を成立させることほどよいことはない と皆言いあわせ、どんなにしても姫君の寝室へ薫を導こうと手はずを決めていた。
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 姫君は女房たちがどんなことを計画しているかを深くは知らないのであるが、弁を特別な者 にしてなつけている薫であるから、自分として油断のできぬ考えをしているかもしれぬ、昔の 小説の中の姫君なども、自身の意志から恋の過失をしてしまうのは少ないのである、他の女房 と質は違っても、弁には弁の利己心が働くはずであるからと、なんとなく今日の家の中の空気 のただならぬのによって思い寄るところがあった。薫がしいて近づいて来た時には妹を自分の 代わりに与えよう、目的としたものに劣っていたところで、そうして縁の結ばれた以上は軽率 に捨ててしまうような性格の薫ではないのだから、ましてほのかにでも顔を見れば多大な慰め を感じるに価する妹ではないか、こんなことは話として持ち出しても、眼前に目的を変えて見 せる人があるはずはない、この間から弁に言わせてもいるが、初めの志に違うなどと言って聞 き入れるふうがないというのは、自分に対して今まで言っていたことが、こんなに根底の浅い ものであったかと思わせることを避けているにすぎまい、とこう考えを決める姫君であったが、 少しそのことを中の君に知らせておかないでその計らいをするのは仏法の罪を作ることではあ るまいかと、先夜の闖入者に苦しんだ経験から妹の女王がかわいそうになり、ほかの話をした 続きに、
 「お亡くなりになったお父様のお言葉は、たとえこうした心細い生活でも、それを続けて行 かねばならぬとして、浮薄な恋愛を、感情の動くままにして、世間の物笑いになるなというこ とでしたね。一生お父様の信仰生活へおはいりになるお妨げをしてきたその罪だけでもたいへ んなのだから、せめて終わりの御訓戒にそむきたくないと私は思って、独身でいるのを心細い
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などと考えないのですがね、女房たちまでむやみに気の強い女のように言って悪く見ているの は困ったものですわね。まあそう変わった人間に思われていてもいいとして、私のあなたと暮 らしている月日があなたの青春をむだにしてしまうのではないかと、私はそれが始終惜しく思 われてならないのですよ。気の毒でかわいそうでね。だからあなただけは普通の女らしく結婚 をして、あなたの幸福を見ることで私も慰められるようになりたい気がします」
 と言うと、どんな考えがあって姉君はこんなことを言いだしたのであろうと急に情けなく中 の君はなって、
 「あなたお一人だけにお残しになった御訓戒だったのでしょうか。あなたほど聡明でない私 のほうをことに気がかりにお父様は思召してのお言葉かと私は思っています。心細さはこうし ていつもごいっしょにいることだけで慰めるほかに何があるでしょう」
 少し恨めしがるふうに中の君の言うのが道理に思われて姫君はかわいそうに見た。
 「いいえね、女房たちが私らを頑固過ぎる女だと言いもし、思いもしているらしいから、い ろいろとほかの道のことも考えたのですよ」
 あとはこんなふうにだけより言わなかった。日は暮れていくが京の客は帰ろうとしない。姫 君は困ったことであると思っていた。弁が来て薫の言葉を伝えてから、あの人の恨むのが道理 であると言葉を尽くして言うのに対して、答えもせず、歎息をしている姫君は、どうすればよ い自分なのであろう、父宮さえおいでになれば、何となるにもせよ、だれの妻になるにもせよ、 娘として取り扱われて、宿命というものがある人生であってみれば、自身の意志でなくとも人
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の妻になることもあろうし、結婚生活が不幸なことになっても、親に選ばれた良人であるから と、そう恥を思わずにも済むであろう、周囲にいる女房は皆年を取っていて、賢げな顔をして は自身の頼まれた男との縁組みだけが最上のことのように言って勧めに来るが、そんなことが どうしてよかろう、彼女らの見る世界は狭く、その判断力は信じられないと思っている姫君は、 その人たちが力で引き動かそうとせんばかりにして言うことも、いやなこととより聞かれず心 の動くことはないのである。どんなことも話し合う妹の女王はこうした結婚とか恋愛とかいう ことについては姫君よりもいっそう関心を持たぬようであったから、圧迫を感じる近ごろの話 をしても、そう深く苦しい心境に立ち入っては来てくれないのであったから、姫君は一人で歎 くほかはなかった。室の奥のほうに向こうを向いてすわっている女王の後ろでは薄鈍でない他 のお召し物に姫君をお着かえさせるようにとか女房らが言っていて、だれもが今夜で結婚が成 立するもののようにして、こそこそとその用意をするらしいのを、姫君はあさましく思ってい た。皆が心を合わせてすれば、狭い山荘の内で隠れている所もないのである。
 薫はこんなふうにだれもが騒ぎ立てることを願っていず、そうした者を介在させずにいつか ら始まったことともなく恋の成立していくのを以前から望んでいたのであって、姫君の心が自 分へ傾くことのない間はこのままの関係でよいとも思っているのであるが、老女の弁が自身だ けでは足らぬように思って、他の女たちに助力を求めたために、あらわにだれもが私語するこ とになったのである。多少洗練されたところはあっても、もともとあさはかな女であるにすぎ ぬ弁が、その上老いて頭の働きが鈍くなっているせいでもあろう。不快に思っていた姫君は、
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弁の出て来た時に、
 「お亡れになりました宮様も、珍しい同情をお寄せくださる方だと始終喜んでばかりおいで になりましたし、今になっては何でも皆御親切におすがりするほかもない私たちで、例もない ようなお親しみをもって御交際をしてまいりましたが、意外なお望みがまじっていまして、あ なた様はお恨みになり、私は失望をいたすことになりました。人間としてはなやかな幸福を得 たいと願う身でございましたら、あなた様の御好意に決しておそむきなどはいたされません。 しかし、私は昔から現世のことに執着を持たぬ女だものですから、お言いくださいますことは ただ苦しいばかりにしか承れないのでございます。それで思いますのは妹のことでございます。 むなしくその人に青春を過ぎさせてしまうのが私として忍ばれないことに思われます。この山 荘の生活も、あなた様の御好意だけで続けていかれる現状なのですから、父を御追慕してくだ さいますお志がございましたら、妹を私に代えてお愛しくださいませ。身は身として、心は皆 妹のために与えていくつもりでございますとね。この意味をもっとあなたが敷衍して申し上げ たらいいでしょう」
 と、恥じながらも要領よく姫君は言った。弁は同情を禁じがたく思った。
 「あなた様のそういう思召しは私にもわかっているものでございますから、骨を折りまして、 そうなりますようにと申し上げるのですが、どうしても自分の心をほかへ移すことはできない、 中姫君と自分が結婚をすれば兵部卿の宮様のお恨みも負うことになる、そちらの御縁組が成り 立てばまた自分は中姫君に十分のお世話を申し上げるつもりだとおっしゃるのでございます。
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それもけっこうなお話なのでございますから、お二方ともそうした良縁をお得になりまして、 まれな御誠意をもって奥様がたをあの貴公子様がたが御大切にあそばす時のごりっぱさは世間 に類のないものになりますでございましょう。失礼な言葉ですが、こんなふうに不十分なお暮 らしをあそばすのを拝見しておりますと、どうおなりになるのかと、私どもは不安で、悲しく てなりませんのにお一方様のお心持ちはまだ私はわかっておりませんでございますが、ともか くも最も高いお身分の方でいらっしゃいます。宮様の御遺言どおりにしたいと思召すのはごも っともですが、それは似合わしからぬ人が求婚者として現われてまいらぬかと、その場合を御 心配あそばして仰せになりましたことで、中納言様にどちらかの女王様をお娶りになるお心が あったなら、そのお一人の縁故で今一人の女王様のことも安心ができてどんなにうれしいだろ うと、おりおり私どもへお話しあそばしたことがあるのでございますよ。どんな貴い御身分の 方でも親御様にお死に別れになったあとでは、思いも寄らぬつまらぬ人と夫婦になっておしま いになるというような結果を見ますのさえたくさんに例のあることでございまして、それはし かたのないこととして、だれも噂にかけはいたしません。ましてこんな理想的と申しましょう か、作り事ほどに何もかものおそろいになった方で、そして御愛情が深くて、誠心誠意御結婚 を望んでおいでになる方がおありになりますのに、しいてそれを冷ややかにお扱いになりまし て、御遺言だからと申して、仏の道へおはいりになるようなことをなさいましても、仙人のよ うに雲や霞を召し上がって生きて行くことはできるでございましょうか」
 とも能弁に言い続ける老女を憎いように思い、姫君はうつぶしになって泣いていた。中の君
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もわけはわからぬながら姉君の様子を気の毒に思ってながめていた。そしていっしょに常の夜 のように寝室へはいった。
 薫が客となって泊まっている今夜であることを姫君は思うと気がかりで、どういう処置を取 ろうかと考えられるのであったが、特に四方の戸をしめきってこもっておられるような所もな い山荘なのであるから、中の君の上に柔らかな地質の美しい夜着を被け、まだ暑さもまったく 去っているという時候でもないのであるから、少し自身は離れて寝についた。
 弁は姫君の言ったことを薫に伝えた。どうしてそんなに結婚がいとわしくばかり思われるの であろう、聖僧のようでおありになった父宮の感化がしからしめるのかと、人生の無常さを深 く悟っている心は、自分の内にも共通なものが見いだせる薫には、それが感じ悪くは思われな い。
 「ではもう物越しでお話をし合うことも今夜はしたくないという気におなりになったのだね。 最後のこととして今夜だけでいいから御寝室へ私をそっと導いて行ってください」
 と中納言は言った。老女はその頼み事をよく運ばせようとして、他の女房たちを皆早く寝さ せてしまい、計画を知らせてある人たちとともに油断なく時の来るのを待っていた。荒い風が 吹き出して簡単な蔀戸などはひしひしと折れそうな音をたてているのに紛れて人が忍び寄る音 などは姫君の気づくところとなるまいと女房らは思い、静かに薫を導いて行った。二人の女王 の同じ帳台に寝ている点を不安に思ったのであるが、これが毎夜の習慣であったから、今夜だ けを別室に一人一人でとは初めから姫君に言いかねたのである。二人のどちらがどれとは薫に
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わかっているはずであるからと弁は思っていた。
 物思いに眠りえない姫君はこのかすかな足音の聞こえて来た時、静かに起きて帳台を出た。 それは非常に迅速に行なわれたことであった。無心によく眠入っていた中の君を思うと、胸が 鳴って、なんという残酷なことをしようとする自分であろう、起こしていっしょに隠れようか ともいったんは躊躇したが、思いながらもそれは実行できずに、慄えながら帳台のほうを見る と、ほのかに灯の光を浴びながら、袿姿で、さも来馴れた所だというようにして、帳の垂れ布 を引き上げて薫ははいって行った。非常に妹がかわいそうで、さめて妹はどんな気がすること であろうと悲しみながら、ちょっと壁の面に添って屏風の立てられてあった後ろへ姫君ははい ってしまった。ただ抽象的な話として言ってみた時でさえ、自分の考え方を恨めしいふうに言 った人であるから、ましてこんなことを謀った自分はうとましい姉だと思われ、憎くさえ思わ れることであろうと、思い続けるにつけても、だれも頼みになる身内の者を持たない不幸が、 この悲しみをさせるのであろうと思われ、あの最後に山の御寺へおいでになった時、父宮をお 見送りしたのが今のように思われて、堪えられぬまで父君を恋しく思う姫君であった。
 薫は帳台の中に寝ていたのは一人であったことを知って、これは弁の計っておいたことと見 てうれしく、心はときめいてくるのであったが、そのうちその人でないことがわかった。よく 似てはいたが、美しく可憐な点はこの人がまさっているかと見えた。驚いている顔な見て、こ の人は何も知らずにいたのであろうと思われるのが哀れであったし、また思ってみれば隠れて しまった恋人も情けなく恨めしかったから、これもまた他の人に渡しがたい愛着は覚えながら
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も、やはり最初の恋をもり立ててゆく障害になることは行ないたくない。そのようにたやすく 相手の変えられる恋であったかとあの人に思われたくない、この人のことはそうなるべき宿命 であれば、またその時というものがあろう、その時になれば自分も初めの恋人と違った人とこ の人を思わず同じだけに愛することができようという分別のできた薫は、例のように美しくな つかしい話ぶりで、ただ可憐な人と相手を見るだけで語り明かした。
 老いた女房はただの話し声だけのする帳台の様子に失敗したことを思い、また一人はすっと 出て行ったらしい音も聞いたので、中の君はどこへおいでになったのであろうか、わけのわか らぬことであるといろいろな想像をしていた。
 「でも何か思いも寄らぬことがあるのでしょうね」
 とも言っていた。
 「私たちがお顔を拝見すると、こちらの顔の皺までも伸び、若がえりさえできると思うよう なりっぱな御風采の中納言様をなぜお避けになるのでしょう。私の思うのには、これは世間で いう魔が姫君に憑いているのですよ」
 歯の落ちこぼれた女が無愛嬌な表情でこう言いもする。
 「魔ですって、まあいやな、そんなものにどうして憑かれておいでになるものですか。ただ あまりに人間離れのした環境に置かれておいでになりましたから、夫婦の道というようなこと も上手に説明してあげる人もないし、殿方が近づいておいでになるとむしょうに恐ろしくおな りになるのですよ。そのうち馴れておしまいになれば、お愛しになることもできますよ」
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 こんなことを言う者もあってしまいには皆いい気になり、どうか都合よくいけばいいと言い 言いだれも寝入ってしまった。鼾までもかきだした不行儀な女もあった。恋人のために秋の夜 さえも早く明ける気がしたと故人の歌ったような間柄になっている女性といたわけではないが、 夜はあっけなく明けた気がして、薫は女王のいずれもが劣らぬ妍麗さの備わったその一人と平 淡な話ばかりしたままで別れて行くのを飽き足らぬここちもしたのであった。
 「あなたも私を愛してください。冷酷な女王さんをお見習いになってはいけませんよ」
 など、またまた機会のあろうことを暗示して出て行った。自分のことでありながら限りない 淡泊な行動をとったと、夢のような気も薫はするのであるが、それでもなお無情な人の真の心 持ちをもう一度見きわめた上で、次の問題に移るべきであると、不満足な心をなだめながら帰 って来た例の客室で横たわっていた。
 弁が帳台の所へ来て、
 「お見えになりませんが、中姫君はどちらにおいでになるのでございましょう」
 と言うのを聞いて、突然なことの身辺に起こって、昨夜の幾時間かを親兄弟でもない男と共 にいたという羞恥心から、中の君は黙ってはいたが、どんな事情があの始末をもたらしたので あろうと考えるのであった。昨日語られたことを思い出してみると中の君の恨めしく思われる のは姉君であった。今一人の壁の中の蟋蟀は暁の光に誘われて出て来た。中の君がどう思って いるだろうと気の毒で互いにものが言われない。ひどい仕向けである。今からのちもまたどん なことがしいられるかもしれぬ、姉をさえ信じることのできぬのがこの世であるかと中姫君は
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思いもだえていた。
 弁は客室へ行って薫から、姫君が冷酷にも閨へ身代わりを置いて隠れてしまった話をされ、 そんなだれも同情を惜しむほどな強い拒みようを姫君はされたのであるかと驚きにぼんやりと なっていた。
 「今までのつめたいお扱いは、それでもまだ私に希望を捨てさせないものがあって、私には 慰められるところもありましたがね、今日という今日はほんとうに恥ずかしくなってしまって、 宇治川へ身も投げたい気になりましたよ。私のどんな行為の犠牲にしてもよいというように御 寝所へ捨ててお置きになった女王さんのお気の毒だったことを思うと、私は今死んでしまうこ ともならない気がされます。妻になっていただきたいなどということはどちらの女王さんにも 私はもう望まないことにしますよ。中姫君を強制的に妻にしては一生恨みの残ることになりま すからね。りっぱな兵部卿の宮様からの申し込みを受けておいでになる方だから、御自身でこ うと決めておいでになることもあるだろうと私は知っていますから、あの方に近づいて行こう とは思われないし、こうした恥ずかしい立場に置かれた私が、またまいって女王がたにお逢い するのははばかられます。あなたにお頼みしておくが、愚かな恋をしていた私の話をせめて女 房たちにだけでも知られないように黙っていてください」
 こう恨みを告げたあとで、平生よりも早く薫は帰ってしまった。中姫君のためにも中納言の ためにも気の毒な結果を作ったと弁は昨夜の仲間の人たちとささやき合った。大姫君も事情は よくわかっていないのであったから、妹の女王に薫が深い愛を覚えなかったのではあるまいか
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と、早く帰ったことについて胸を騒がせた、妹が哀れでもあった。すべての女房たちの仕業の 悪かったことに基因しているのであると思った。さまざまに大姫君が煩悶をしている時に源中 納言からの手紙が来た。平生よりもこの使いがうれしく感ぜられたのも不思議であった。
 秋を感じないように片枝は青く、半ばは濃く色づいた紅葉の枝に、
  おなじ枝を分きて染めける山姫にいづれか深き色と問はばや
 あれほど恨めしがっていたことも多く言わず、簡単にこの歌にしたのが手紙の内容であるの を見て、愛が確かにあるようでもなく、ただこんなふうにだけ取り扱って別れてしまう心なの であろうかと思うことで姫君が苦痛を感じている時に、だれもだれもが返事を早くと促すのを 聞いて、あなたからと今日は中の君に言うのも恥じられ、自分でするのも書きにくく思い乱れ ていた。
  山姫の染むる心はわかねども移らふかたや深きなるらん
 事実に触れるでもなく書かれてある総角の姫君の字の美しさに、やはり自分はこの人を忘れ 果てることはできないであろうと薫は思った。自分の半身のような妹であるからと中の君を薦 めるふうはたびたび見せられたのであるのに、自分がそれに従わないために謀ったものに違い ない、その苦心をむだにした今になって、ただ恨めしさから冷淡を装っていれば初めからの願 いはいよいよ実現難になるであろう、中に今まで立たせておいた老女にさえ、自分の愛の深さ
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を見失わせることになり、浮いた恋だったとされてしまうのが残念である。何にもせよ一人の 人にこれほどまでも心の惹かれることになった初めがくやしい、ただはかないこの世を捨てて しまいたいと願っている精神にも矛盾する身になっているではないかと自分でさえ恥ずかしく 思われることである、いわんや世間の浮気者のように、その恋人の妹にまた恋をし始めるとい うことはできないことであると薫は思い明かした。
 次の朝の有明月夜に薫は兵部卿の宮の御殿へまいった。三条の宮が火事で焼けてから母宮と ともに薫は仮に六条院へ来て住んでいるのであったから、同じ院内にもおいでになる兵部卿の 宮の所へは始終伺うのである。宮もこの人が近く来て住み、朝夕に往来のできることで満足を しておいでになった。整然としたお住居は前庭の草木のなびく姿も、咲く花も他の所と異なり、 流れに影を置く月も絵のように見えた。薫が想像したとおりに宮はもう起きておいでになった。 風が運んでくるにおいにこの特殊な人をお感じになって、お驚きになった宮は、すぐに直衣を 召し、姿を正して縁へ出ておいでになった。階を上がりきらぬ所に薫がすわると、宮はもっと 上にともお言いにならず、御自身も欄干によりかかって話をおかわしになるのであった。世間 話のうちに宇治のこともお言いだしになり、薫の仲介者としての熱意のなさをお恨みになった が、無理である、自分の恋をさえ遂げえないものをと薫は思っている。宇治へ行って恋人に逢 いたいというふうの宮にお見えになるのを知り、平生よりもくわしく山荘の事情、妹の女王の ことなどを薫はお話し申した。夜明け前のまたちょっと暗くなる時間であって、霧が立ち、空 の色が冷ややかに見え、月は霧にさえぎられて木立ちの下も暗く艶な趣のあるようになった。
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そのために薫はまた宇治が恋しくなった。宮が、
 「今度あなたが行く時に必ず誘ってください。うちやって行ってはいけませんよ」
 とお言いになっても、薫の迷惑そうにしているのを御覧になって、
  女郎花咲ける大野をふせぎつつ心せばくやしめを結ふらん
 とお言いになった、冗談のように。
 「霧深きあしたの原の女郎花心をよせて見る人ぞ見る
 だれでも見られるわけではありませんから」
 などと薫も言った。
 「うるさいことを言うね」
 腹をたててもお見せになる宮様であった。今までから宮のこの御希望はしばしばお聞きして いたのであるが、中の君をよくは知らず、交際をせぬ薫であったから、不安さがあって、容貌 は御想像どおりであっても、性情などに近づいて物足りなさをお感じになることはあるまいか とあやぶんで、お聞き入れ申し上げなかったのである。思いもよらずその人に近づいたことに よって、今は不安も心からぬぐわれた薫は、大姫君がわざわざ謀って身代わりにさせようとし た気持ちを無視することも思いやりのないことではあるが、そのようにたやすく恋は改めうる ものとは思われない心から、まずその人は宮にお任せしよう、そして女の恨みも宮のお恨みも
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受けぬことにしたいとこう思い決めたともお知りにならず、自分がはばんでいるようにお言い になるのがおかしかった。
 「あなたには多情な癖がおありになるのですからね、結局物思いをさせるだけだと考えられ ますからです」
 女がたの後見者と見せて薫がこう言う。
 「まあ見ていたまえ、私にはまだこんなに心の惹かれた相手はなかったのだからね」
 宮はまじめにこう仰せられた。
 「女王がたにはまだあなたさまを婿君にお迎えする心がなさそうなものですから、私の役は 苦心を要するのでございますよ」
 と言って、薫は山荘へ御案内して行ってからのことをこまごまと御注意申し上げていた。
 二十六日の彼岸の終わりの日が結婚の吉日になっていたから、薫はいろいろと考えを組み立 てて、だれの目にもつかぬように一人で計らい、兵部卿の宮を宇治へお伴いして出かけた。御 母中宮のお耳にはいっては、こうした恋の御微行などはきびしくお制しになり、おさせになら ぬはずであったから、自分の立場が困ることになるとは思うのであるが、匂宮の切にお望みに なることであったから、すべてを秘密にして扱うのも苦しかった。
 対岸のしかるべき場所へ御休息させておくことも船の渡しなどがめんどうであったから、山 荘に近い自身の荘園の中の人の家へひとまず宮をお降ろしして、自身だけで女王たちの山荘へ はいった。宮がおいでになったところで見とがめるような人たちもなく、宿直をする一人の侍
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だけが時々見まわりに外へ出るだけのことであったが、それにも気どらすまいとしての計らい であった。中納言がおいでになったと山荘の女房たちは皆緊張していた。女王らは困る気がせ ずにおられるのではないが、総角の姫君は、自分はもうあとへ退いて代わりの人を推薦してお いたのであるからと思っていた。中の君は薫の対象にしているのは自分でないことが明らかな のであるから、今度はああした驚きをせずに済むことであろうと思いながらも、情けなく思わ れたあの夜からは、姉君をも以前ほどに信頼せず、油断をせぬ覚悟はしていた。取り次ぎをも っての話がいつまでもかわされていることで、今夜もどうなることかと女房らは苦しがった。
 薫は使いを出して兵部卿の宮を山荘へお迎え申してから、弁を呼んで、
 「姫君にもう一言だけお話しすることが残っているのです。あの方が私の恋に全然取り合っ てくださらないのはもうわかってしまいました。それで恥ずかしいことですが、この間の方の 所へもうしばらくのちに私を、あの時のようにして案内して行ってくださいませんか」
 真実らしく薫がこう言うと、どちらでも結局は同じことであるからと弁は心を決めて、そし て大姫君の所へ行き、そのとおりに告げると、自分の思ったとおりにあの人は妹に恋を移した とうれしく、安心ができ、寝室へ行く通り路にはならぬ縁近い座敷の襖子をよく閉めた上で、 その向こうへしばらく語るはずの薫を招じた。
 「ただ一言申し上げたいのですが、人に聞こえますほどの大声を出すこともどうかと思われ ますから、少しお開けくださいませんか。これではだめなのです」
 「これでもよくわかるのですよ」
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 と言って姫君は応じない。愛人を新しくする際に虚心平気でそれをするのでないことをこの 人は言おうとするのであろうか、今までからこんなふうにしては話し合った間柄なのだから、 あまり冷ややかにものを言わぬようにして、そして夜をふかさせずに立ち去らしめようと思い、 この席を姫君は与えたのであったが、襖子の間から女の袖をとらえて引き寄せた薫は、心に積 もる恨みを告げた。困ったことである、話すことをなぜ許したのであろうと後悔がされ、恐ろ しくさえ思うのであるが、上手にここを去らせようとする心から、妹は自分と同じなのである からということを、それとなく言っている心持ちなどを男は哀れに思った。
 兵部卿の宮は薫がお教えしたとおりに、あの夜の戸口によって扇をお鳴らしになると、弁が 来て導いた。今一人の女王のほうへこうして薫を導き馴れた女であろうと宮はおもしろくお思 いになりながら、ついておいでになり、寝室へおはいりになったのも知らずに、大姫君は上手 に中の君のほうへ薫を行かせようということを考えていた。おかしくも思い、また気の毒にも 思われて、事実を知らせずにおいていつまでも恨まれるのは苦しいことであろうと薫は告白を することにした。
 「兵部卿の宮様がいっしょに来たいとお望みになりましたから、お断わりをしかねて御同伴 申し上げたのですが、物音もおさせにならずどこかへおはいりになりました。この賢ぶった男 を上手におだましになったのかもしれません。どちらつかずの哀れな見苦しい私になるでしょ う」
 聞く姫君はまったく意外なことであったから、ものもわからなくなるほどに残念な気がして、
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この人が憎く、
 「いろいろ奇怪なことをあそばすあなたとは存じ上げずに、私どもは幼稚な心であなたを御 信用申していましたのが、あなたには滑稽に見えて侮辱をお与えになったのでございますね」
 総角の女王は極度に口惜しがっていた。
 「もう時があるべきことをあらせたのです。私がどんなに道理を申し上げても足りなくお思 いになるのでしたなら、私を打擲でも何でもしてください。あの女王様の心は私よりも高い身 分の方にあったのです。それに宿命というものがあって、それは人間の力で左右できませんか ら、あの女王さんには私をお愛しくださることがなかったのです。その御様子が見えてお気の 毒でしたし、愛されえない自分が恥ずかしくて、あの方のお心から退却するほかはなかったの です。もうしかたがないとあきらめてくだすって私の妻になってくださればいいではありませ んか。どんなに堅く襖子は閉めてお置きになりましても、あなたと私の間柄を精神的の交際以 上に進んでいなかったとはだれも想像いたしますまい。御案内して差し上げた方のお心にも、 私がこうして苦しい悶えをしながら夜を明かすとはおわかりになっていますまい」
 と言う薫は襖子をさえ破りかねぬ興奮を見せているのであったから、うとましくは思いなが ら、言いなだめようと姫君はして、なお話の相手はし続けた。
 「あなたがお言いになります宿命というものは目に見えないものですから、私どもにはただ 事実に対して涙ばかりが胸をふさぐのを感じます。何というなされ方だろうとあさましいので ございます。こんなことが言い伝えに残りましたら、昔の荒唐無稽な、誇張の多い小説の筋と
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同じように思われることでしょう。どうしてそんなことをお考え出しになったのかとばかり思 われまして、私たち姉妹への御好意とはそれがどうして考えられましょう。こんなにいろいろ にして私をお苦しめにならないでくださいまし。惜しくございません命でも、もしもまだ続い ていくようでしたら、私もまた落ち着いてお話のできることがあろうと思います。ただ今のこ とを伺いましたら、急に真暗な気持ちになりまして、身体も苦しくてなりません。私はここで 休みますからお許しくださいませ」
 絶望的な力のない声ではあるが、理窟を立てて言われたのが、薫には気恥ずかしく思われ、 またその人が可憐にも思われて、
 「あなた、私のお愛しする方、どんなにもあなたの御意志に従いたいというのが私の願いな のですから、こんなにまで一徹なところもお目にかけたのです。言いようもなく憎いうとまし い人間と私を見ていらっしゃるのですから、申すことも何も申されません。いよいよ私は人生 の外へ踏み出さなければならぬ気がします」
 と言って薫は歎息をもらしたが、また、
 「ではこの隔てを置いたままで話させていただきましょう。まったく顧みをなさらないよう なことはしないでください」
 こうも言いながら袖から手を離した。姫君は身を後ろへ引いたが、あちらへ行ってもしまわ ないのを哀れに思う薫であった。
 「こうしてお隣にいることだけを慰めに思って今夜は明かしましょう。決して決してこれ以
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上のことを求めません」
 と言い、襖子を中にしてこちらの室で眠ろうとしたが、ここは川の音のはげしい山荘である、 目を閉じてもすぐにさめる。夜の風の声も強い。峰を隔てた山鳥の妹背のような気がして苦し かった。いつものように夜が白み始めると御寺の鐘が山から聞こえてきた。兵部卿の宮を気に して咳払いを薫は作った。実際妙な役をすることになったものである。
 「しるべせしわれやかへりて惑ふべき心もゆかぬ明けぐれの道
 こんな例が世間にもあるでしょうか」
 と薫が言うと、
  かたがたにくらす心を思ひやれ人やりならぬ道にまどはば
 ほのかに姫君の答える歌も、よく聞き取れぬもどかしさと飽き足りなさに、
 「たいへんに遠いではありませんか。あまりに御同情のないあなたですね」
 恨みを告げているころ、ほのぼのと夜の明けるのにうながされて兵部卿の宮は昨夜の戸口か ら外へおいでになった。柔らかなその御動作に従って立つ香はことさら用意して燻きしめてお いでになった匂宮らしかった。
 老いた女房たちはそことここから薫の帰って行くことに不審をいだいたが、これも中納言の 計ったことであれば安心していてよいと考えていた。
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 暗い間に着こうと京の人は道を急がせた。帰りはことに遠くお思われになる宮であった。た やすく常に行かれぬことを今から思召すからである。しかも「夜をや隔てん」(若草の新手枕 をまきそめて夜をや隔てん憎からなくに)とお思われになるからであろう。まだ人の多く出入 りせぬころに車は六条院に着けられ、廊のほうで降りて、女乗りの車と見せ隠れるようにして はいって来たあとで顔を見合わせて笑った。
 「あなたの忠実な御奉仕を受けたと感謝しますよ」
 宮はこう冗談を仰せられた。自身の愚かしさの人のよさがみずから潮笑されるのであるが、 薫は昨夜の始末を何も申し上げなかった。すぐ宮は文を書いて宇治へお送りになった。
 山荘の女王はどちらも夢を見たあとのような気がして思い乱れていた。あの手この手と計画 をしながら、気ぶりも初めにお見せにならなかったと中の君は恨んでいて、姉の女王と目を見 合わせようともしない。自身がまったく局外の人であったことを明らかに話すこともできぬ姫 君は、中の君を遠く気の毒にながめていた。女房たちも、
 「昨夜は中姫君のほうにどうしたことがありましたのでございましょう」
 などと、大姫君から事実をそれとなく探ろうとして言うのであったが、ただぼんやりとした ふうで保護者の君はいるだけであったから、不思議なことであると皆思っていた。宮のお手紙 も解いて姫君は中の君に見せるのであったが、その人は起き上がろうともしない。時間のたつ ことを言って使いが催促をしてくる。
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  よのつねに思ひやすらん露深き路のささ原分けて来つるも
 書き馴れたみごとな字で、ことさら今日は艶な筆の跡であったが、ただ鑑賞して見ていた時 と違った気持ちでそれに対しては気のめいる悩ましさを覚えさせられる姫君が、保護者らしく 返事を代わってすることも恥ずかしく思われて、いろいろに言って中の君に書かせた。薄紫の 細長一領に、三重襲の袴を添えて纏頭に出したのを使いが固辞して受けぬために、物へ包んで 供の人へ渡した。結婚の後朝の使いとして持別な人を宮はお選びになったのではなく、これま で宇治へ文使いの役をしていた侍童だったのである。これはわざとだれにも知られまいとの宮 のお計らいだったのであるから、纏頭のことをお聞きになった時、あの気のきいたふうを見せ た老女の仕業であろうとやや不快にお思いになった。
 この夜も薫をお誘いになったのであるが、冷泉院のほうに必ず自分がまいらねばならぬ御用 があったからと申して応じなかった。ともすればそうであってはならぬ場合に悟りすました冷 静さを見せる友であると宮は憎いようにお思いになった。宇治の大姫君を薫は情人にしている と信じておいでになるからである。
 もうしかたがない、こちらの望んだ結果でなかったと言ってもおろそかにはできない婿君で あると弱くなった心から総角の姫君は思って、儀式の装飾の品なども十分にそろっているわけ ではないが、風流な好みを見せた飾りつけをして第二の夜の宮をお待ちした。遠い路を急いで 宮のお着きになった時は、姫君の心に喜びがわいた。自分にもこうした感情の起こるのは予期
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しなかったことに違いない。新婦の女王は化粧をされ、服をかえさせられながらも、明るい色 の袖の上が涙でどこまでも、濡れていくのを見ると、姉君も泣いて、
 「私はこの世に長く生きていようとも、それを楽しいことに思おうともしない人ですから、 ただ毎日願っていることは、あなただけが幸せになってほしいということだったのですよ。そ れに女房たちもこれを良縁だとうるさいまでに言うのですからね、なんといっても、私たちと 違って年をとっていろいろな経験を持っている人たちには、こうした問題についての判断がよ くできるものだろう、私一人の意志を立てて、いつまでも二人の独身女であってはなるまいと 考えるようになったことはあっても、突然な今度のようなことであなたの心を乱させようなど とは少しも思わなかったのですよ。でもね、これが人の言う逃げようもない宿命だったのでし ょうね。私の心も苦しんでいますよ、すこしあなたの気分の晴れてきたころに、私が今度のこ とに関係していなかったことの弁明もして聞いてもらいますよ。知らぬ私をあまりに恨んでは あなたが罪を作ることになります」
 と姫君が中の君の髪を繕いながら言ったのに対して、中の君は何とも返辞はしなかったが、 さすがに、こうまで自分を愛して言う姉君であるから、危険な道へ進めようとしたわけではあ るまい、そうであるにもかかわらず、薄い愛より与えぬ人の妻になって、自分のために姉君へ また新しい物思いをさせることが悲しいと、今後の日を思って歎いていた。
 闖入者に驚きあきれていた夜の顔さえ美しい人であったのにまして、今夜は美しい服を着け、 化粧の施されている女王を宮は御覧になって、いっそうこまやかに御愛情の深まっていくにつ
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けても、たやすく通いがたい長い路が中を隔てているのを、胸の痛くなるほどにも苦しく思召 されて、真心から変わらぬ将来の誓いをされるのだったが、姫君はまだ自身の愛のわいてくる のを覚えなかった。わからないのであった。非常に大事にかしずかれた高貴な姫君といっても、 世間というものと今少し多く交渉を持っていて、親とか兄弟とかの所へ出入りする異性があっ たなら、羞恥心などもこれほどになくて済むであろうと思われる。召使いどもにあがめられる 生活はしていないが、山里であったから世間に遠くて、人に馴れていない中の君は、地からわ いたような良人がただ恥ずかしい人とより思われないのであって、自分の言うことなどは田舎 風に聞こえることばかりであろうと思って、ちょっとした宮へのお返辞もできかねた。しかし ながら二女王を比べて言えば、貴女らしい才の美しいひらめきなどはこの人のほうに多いので ある。
 三日にあたる夜は餅を新夫婦に供するものであると女房たちが言うため、そうした祝いもす ることかと総角の姫君は思い、自身の居間でそれを作らせているのであったが、勝手がよくわ からなかった。自分が年長者らしくこんなことを扱うのも、人が何と思って見ることかとはば かられる心から、赤らめている顔が非常に美しかった。姉心というのか、おおように気高い性 格でいて、妹の女王のためには何かと優しいこまごまとした世話もする姫君であった。源中納 言から、
 今夜はまいって、雑用のお手つだいもいたしたく思うのですが、先夜の宿直にお貸しくださ
 いました所が所ですから、少し身体をそこねまして、まだ癒らない私は、どうしても出かけ
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 られませぬ。
 と、二枚の檀紙に続けて書いた手紙を添え、今夜の祝儀の酒肴類、それからまた縫わせる間 のなかった衣服地のいろいろを巻いたままで入れ、幾つもの懸子へ分けて納めた箱を弁の所へ 持たせてよこした。女房たち用にということであった。母宮のお住居にいた時であって、思う ままにも取りまとめる間がなかったものらしい。普通の絹や綾も下のほうには詰め敷かれてあ って、女王がたにと思ったらしい二襲の特に美しく作られた物の、その一つのほうの単衣の袖 に、次の歌が書かれてあった、少し昔風なことであるが。
  さよ衣着てなれきとは言はずとも恨言ばかりはかけずしもあらじ
 これは戯れに威嚇して見せたのである。中の君に対して言われているのであろうが、いずれ にもせよ羞恥を感ぜずにはいられないことであったから、返事の書きようもなく姫君の困って いる間に、纏頭を辞する意味で使いのおもだった人は帰ってしまった。下の侍の一人を呼びと めて姫君の歌が渡された。
  隔てなき心ばかりは通ふとも馴れし袖とはかけじとぞ思ふ
 心のかき乱されていたあの夜の名残で、思っただけの平凡な歌より詠まれなかったのであろ うと受け取った薫は哀れに思った。
 兵部卿の宮はその夜宮中へおいでになったのであるが、新婦の宇治へ行くことが非常な難事
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にお思われになって、人知れず心を苦しめておいでになる時に、中宮が、
 「どんなに言ってもあなたはいつまでも一人でおいでになるものだから、このごろは私の耳 にもあなたの浮いた話が少しずつはいってくるようになりましたよ。それはよくないことです よ。風流好きとか、何々趣味の人とか人に違った評判は立てられないほうがいいのですよ。お 上もあなたのことを御心配しておいでになります」
 と仰せになって、私邸に行っておいでがちな点で御忠告をあそばしたために、兵部卿の宮は 時が時であったから苦しくお思いになって、桐壼の宿直所へおいでになり、手紙を書いて宇治 へお送りになったあとも、心が落ち着かず吐息をついておいでになるところへ源中納言が来た。 宇治がたの人とお思いになるとうれしくて、
 「どうしたらいいだろう、こんなに暗くなってしまったのに、出られないので煩悶をしてい るのですよ」
 こうお言いになり、歎かわしそうなふうをお見せになったが、なおよく宮の新婦に対する真 心の深さをきわめたく思った薫は、
 「しばらくぶりで御所へおいでになりましたあなた様が、今夜宿直をあそばさないですぐお 出かけになっては、中宮様はよろしくなく思召すでしょう。先ほど私は、台盤所のほうで中宮 様のお言葉を聞いておりまして、私がよろしくないお手引きをいたしましたことでお叱りを受 けるのでないかと顔色の変わるのを覚えました」
 と申して見た。
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 「私がひどく悪いようにおっしゃるではないか。たいていのことは人がいいかげんなことを 申し上げているからなのだろう。世間から非難をされるようなことは何もしていないではない か。何にせよ窮窟な身の上であることがいけないね。こんな身分でなければと思う」
 心の底からそう思召すふうで仰せられるのを見て、お気の毒になった薫は、
 「どうせ同じことでございますから、今晩のあなた様の罪は私が被ることにいたしましょう、 どんな犠牲もいといません。木幡の山に馬はいかがでございましょう(山城の木幡の里に馬は あれど徒歩よりぞ行く君を思ひかね)いっそうお噂は立つことになりましても」
 こう申し上げた。夜はますます暗くなっていくばかりであったから、忍びかねて宮は馬でお 出かけになることになった。
 「お供にはかえって私のまいらぬほうがよろしゅうございましょう。私は宿直することにい たしまして、あなた様のために何かと都合よくお計らいいたしましょう」
 と言って、薫は残ることにした。
 薫が中宮の御殿へまいると、
 「兵部卿の宮さんはお出かけになったらしい。困った御行跡ね。お上がお聞きになれば必ず 私がよく忠告をしてあげないからだとお思いになってお小言をあそばすだろうから困るのよ」
 こうお后は仰せになった。多くの宮様が皆大人になっておいでになるのであるが、御母宮は いよいよ若々しいお美しさが増してお見えになるのであった。女一の宮もこんなのでおありに なるのであろう、どんな機会によって自分はこれほど一の宮へ接近することができるであろう、
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お声だけでも聞きうることができようと、幼い日からのあこがれが今またこの人の心を哀れに させた。好色な人が思うまじき人を思うことになるのも、こうした間柄で、さすがにある程度 まで近づくことが許されていて、しかもきびしい隔てがその中に立てられているというような 時に、苦しみもし、悶えもするのであろう、自分のように異性への関心の淡いものはないので あるが、それでさえもなお動き始めた心はおさえがたいものなのであるから、などと薫は思っ ていた。侍女たちは容貌も性情も皆すぐれていて、欠点のある者は少なく、どれにもよいとこ ろが備わり、また中には特に目だつほどの人もあるが、恋のあやまちはすまいと決めているか ら、薫は中宮の御殿に来ていてもまじめにばかりしていた。わざとこの人の目につくようにふ るまう人もないのではない。気品を傷つけないようにと上下とも慎み深く暮らす女房たちにも、 個性はそれぞれ違ったものであるかろ、美しい薫への好奇心が、おさえられつつも外へ現われ て見える人などに、薫は憐れみも感じ、心の惹かれそうになることがあっても、何事も無常の 人世なのであるからと冷静に考えては見ぬふりを続けた。
 宇治では薫から大形な使いなどもよこされてあるのに、深更まで宮はお見えにならず、お手 紙の使いだけの来たために、これであるから頼もしい方とは思われなかったのであると、姉女 王が煩悶していたうちに、夜中近くなって、荒い風の吹き立つ中に、兵部卿の宮は艶なにおい を携えて、美しいお姿をお見せになったのであったから、喜びを覚えないわけもない。新夫人 の中の君も前に似ぬ好意をお持ちしたことと思われる。中の君は非常に美しい盛りの容貌を、 まして今夜は周囲の人たちによってきれいに粧われていたのであったから、また類もない麗人
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と思われた。多くの美女を知っておいでになる宮の御目にも欠点をお見いだしになることはな くて、姿も心も接近してますますすぐれたことの明らかになった恋人であると思召すばかりで あったから、山荘の老いた女房などは満足したか自身の表情がどんなに醜いかも知らずに、ゆ がんだ笑顔をしながら中の君を見て、これほどにもりっぱな方が凡人の妻におなりになったと したらどんなに残念に思われるであろう、御運よく理想的な良人をお持ちになることができて よかったと言い合い、大姫君が薫の熱心な求婚に応じようとしないのをひそかに非難していた。 こうした中年になった人たちが薫から贈られた美しいいろいろな絹で衣装を縫って、それぞれ 似合いもせぬ盛装をしている中に一人でも感じのよいと思われる女房はなかった。総角の姫君 がこれを見て、自分も盛りの過ぎた女である、このごろ鏡を見ると顔は痩せてばかりゆく、こ の人たちでも自身では皆相当にきれいであるという自信を持っていて、醜いと認める者はない はずである、頭の後ろの形がどうなっているかも思わずに額髪だけを深く顔に引っかけて化粧 をした顔を恥ずかしいとは思わぬらしい。自分はまだあれほどにはなっていず、目も鼻も正し い形をしていると思うのは、わがことであって身勝手な思いなしによるものなのであろうと気 恥ずかしいような思いをしながら茫と外をながめつつ寝ていた。すべての整ったりっぱな青年 である源中納言の妻になることはいよいよ似合わしからぬことと自分は思われる、もう一、二 年すれば衰え方がもっと急速度になることであろう、もともと貧弱な体質の自分なのであるか らと、大姫君はほっそりとした手首を袖の外に出しながら人生の悲しみを深く味わっていた。
 兵部卿の宮は今夜のお出かけにくかったことをお考えになると、将来も不安におなりになっ
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て、今さえそれでお胸がふさがれてしまうようになるのであった。中宮の仰せられた話などを されて、
 「変わりない愛を持っていながら来られない日が続いても疑いは持たないでください。仮に もおろそかにあなたを思っているのだったら、こんな苦心を払って今夜なども出て来られるは ずはありません。それだのに私の愛を信じることがおできにならないで、煩悶したりされるの が気の毒で、自分のことはどうともなれとまで思って出かけて来たのですよ。始終これが続け られるとも思われませんからね、あなたの住むのに都合のよい所をこしらえて私の近くへ移し たく思いますよ」
 宮はこれを真心からお言いになるのであったが、間の途絶えるであろうことを今からお言い になるのは、名高い多情な生活から、恨ませまいための予防の線をお張りになるのであろうと、 心細さに馴らされた女王は前途をも悲観せずにはおられなかった。夜明けに近い空模様を、横 の妻戸を押しあけて宮は女王も誘って出ておながめになるのであった。霧が深く立って特色の ある宇治の寂しい景色の作られている中を、例の柴船のかすかに動いて通って行くあとには、 白い波が筋をなして漂っていた。珍しい景をかたわらにした家であると風流心におもしろく宮 は思召した。東の山の上からほのめいてきた暁の微光に見る中の君の容姿は整いきった美しさ で、最上の所にかしずかれた内親王もこれにまさるまいとお思われになった。現在の帝の皇子 であるからという気持ちで自分のほうの思い上がっているのは誤りである、この人の持つよさ を今以上によく見もし、知りもしたいと思召す心がいっぱいになり、その人を少し見ることが
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おできになってかえってより多くがお望まれになった。河音はうれしい響きではなかったし、 宇治橋のただ古くて長いのが限界を去らずにあったりして、霧の晴れていった時には、荒涼た る感じの与えられる岸のあたりも悲しみになった。
 「どうしてこんな土地に長い間いることができたのですか」
 とお言いになり、宮の涙ぐんでおいでになるのを見て、女王は恥ずかしい気がした。そして 今よく見る宮のお姿はきわめて艶であった。この世かぎりでない契りをおささやきになるのを 聞いていて、思いがけず結ばれた人とはいえ、かえってあの冷静なふうの中納言を良人にした よりはこの運命のほうが気安いと女王は思っているのであった。あの人の熱愛している人は自 分でなくもあったし、澄みきったような心の様子に現われて見える点でも親しまれないところ があった、しかもこの宮をそのころの自分はどう思っていたであろう、まして遠い遠い所の存 在としていた。短いお手紙に返事をすることすら恥ずかしかった方であるのに、今の心はそう でない、久しくおいでにならぬことがあれば心細いであろうと思われるのも、われながら怪し く恥ずかしい変わりようであると中の君は心で思った。お供の人たちが次々に促しの声を立て るのを聞いておいでになって、京へはいって人目を引くように明るくならぬようにと、宮はお いでになろうとする際も御自身の意志でない通い路の途絶えによって、思い乱れることのない ようにとかえすがえすもお言いになった。
  中絶えんものならなくに橋姫の片敷く袖や夜半に濡らさん
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 帰ろうとしてまた躊躇をあそばされた宮がこの歌をささやかれたのである。
  絶えせじのわが頼みにや宇治橋のはるけき中を待ち渡るべき
 などとだけ言い、言葉は少ないながらも女王の様子に別れの悲しみの見えるのをお知りにな り、たぐいもない愛情を宮は覚えておいでになった。
 若い女性の心に感動を与えぬはずのない宮の御朝姿を見送って、あとに残ったにおいなどの 身にしむ人にいつか女王はなっていた。お立ちのおそかった今朝になってはじめて女房たちは 宮をおのぞき見した。
 「中納言様はなつかしい御気品のよさに特別なととろがおありになります。今一段上の御身 分という思いなしからでしょうか、はなやかな御美貌は何と申し上げようもないくらいにお見 えになりましたね」
 こんなことを言ってほめそやした。
 京への道すがら、別れにめいったふうを見せた女王をお思い出しになって、このままもう一 度山荘へ引き返したいと、御自身ながら見苦しく思召すまで恋しくお思われになるのであった が、世間の取り沙汰を恐れてお帰りになって以来、容易にお通いになれずお手紙だけを日ごと に幾通もお送りになった。誠意がないのではおありになるまいと思いながらもお途絶えの日が 積もっていくことで、姉の女王は思い悩んで、こんな結果を見て苦労をすることがないように と願っていたものを、自身が当事者である以上に苦しいことであると歎かれるのであったが、
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これを表面に見せてはいっそう中の君が気をめいらせることになろうと思う心から、気にせぬ ふうを装いながらも、自分だけでも結婚しての苦を味わうまいといよいよ薫の望むことに心の 離れていく大姫君であった。
 薫も兵部卿の宮の宇治へおいでになれない事情を知っていて、山荘の女王が待ち遠しく思う ことであろうと、自身の責任であるように思い、宮にそれとなくお促しもし、宮の御近状にも 注意を怠らなかったが、宮が宇治の女王に愛情を傾倒しておいでになることは明らかになった ために、今の状態はこうでも不安がることはないと中の君のために胸をなでおろす思いをした。
 九月の十日で、野山の秋の色がだれにも思いやられる時である、空は暗い時雨をこぼし、恐 ろしい気のする雲の出ている夕べであった、宮は平生以上に宇治の人がお思われになって、何 が起ころうとも行ってみようか、どうしたものかとお一人では決断がおできにならないで迷っ ておいでになるところへ、そのお思いを想像することのできた薫がお訪ねして来た。
 「山里のほうはどうでしょう」
 中納言の言ったことはこれであった。お喜びになって、
 「では今からいっしょに出かけよう」
 とお言いになったため、匂宮のお車に薫中納言は御同車して京を出た。山路へかかってくる にしたがって、山荘で物思いをしている恋人を多く哀れにお思いになる宮でおありになった。 同車の人へもその点で御自身も苦しんでおいでになることばかりをお話しになった。行く秋の 黄昏時の心細さの覚えられる路へ、冷たい雨が降りそそいでいた。衣服を湿らせてしまったた
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めに、高い香はまして一つになって散り広がるのが艶で、村人たちは高華な夢に行き逢ったよ うに思った。
 毎日毎日婿君の情の薄さをかこっていた山荘の女房たちは、悦びを胸に満たせてお席を作っ たりなどしていた。京のあちらこちらへ女房勤めに出ている娘とか姪とかをにわかに手もとへ 呼び寄せて、中の君のそば仕えをさせることにした女房も二、三人あったのである。今まで軽 蔑をしていた浮薄な人たちにとって、尊貴な婿君の出現は驚異に価することであった。
 大姫君はこの寂しい夜を訪ねたもうた宮をうれしく思うのであったが、少し迷惑な人が添っ て来たと薫を思わないでもないものの、慎事な、思いやりのある態度を恋にも忘れずにいてく れた人とその人を思う時、匂宮の御行為はそうでなかったと比較がされ感謝の念は禁じられな かった。中の君の婿君として宮に山荘相当な御饗応を申し上げて、薫は主人がたの人として気 安く扱いながらも、客室の座敷に据えられただけであるのを恨めしくその人は思っていた。さ すがに気の毒に思われて姫君は物越しで話すことにした。自分の心の弱さからつまずいて、ま たも初めに恋は返されたではないか、こんな状態を続けていくことはもう自分には不可能であ ると思い、薫は言葉を尽くして恋人に恨みを告げようとした。ようやくこの人の尊敬すべき気 持ちも悟った姫君であるが、中の君が結婚をしたために物思いに沈むことの多くなったことに よって、いっそう恋愛というものをいとわしいものに思い込むようになり、これ以上の接近は 許すまい、清い愛を今では感じている相手であるが、この人を恨むことが結婚すれば生じるに 違いない、自身もこの人も変わらぬ友情を続けていきたいとこう深く心に決めているためであ
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った。宮についての話になって、薫のほうから中の君の様子などを聞くと、少しずつ近ごろの ことで、薫の想像していたようなことも姫君は語った。薫は気の毒になり、宮が深い愛着をお 持ちになること、自分が探って知っている御自由のない近ごろの憂鬱なお日送りなどを話して いた。姫君は平生より機嫌よく話したあとで、
 「こんなふうな、新たな心配にとらわれておりますことも終わりまして、気の静まりました ころにまたよくお話を伺いましょう」
 と言った。反感を起こさせるような冷淡さはなくて、しかも襖子は堅く閉ざされてあった。 しいてその隔てを取り除こうとするのは甚だしく同情のないふるまいであると姫君の思ってい るのを知っている薫は、この人に考えがあることであろう、軽々しく他人の妻になってしまう ようなことはないと信じられる人であるからと、いつもゆとりのある心のこの人は、恋に心を 焦しながらもそれをおさえることはできた。
 「あなたの御意志はどこまでも尊重しますが、こうして物越しでお話ししていることの不満 足感を救ってだけはください。先日のように近くへまいってお話をさせていただきたいので す」
 と責めてみたが、
 「このごろの私は平生よりも衰えていましてね、顔を御覧になって不愉快におなりになりは しないかと、どうしたのでしょう、そんなことの気になる心もあるのですよ」
 と言い、ほのかに総角の姫君の笑った気配などに怪しいほどの魅力のあるのを薫は感じた。
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 「そんなつきも離れもせぬお心に引きずられてまいって、私はしまいにどうなるのでしょ う」
 こんなことを言い、男は歎息をしがちに夜を明かした。
 兵部卿の宮は、薫が今も一人臥をするにすぎない宇治の夜とは想像もされないで、
 「中納言が主人がたぶって、寝室に長くいるのが恨めしい」
 とお言いになるのを、不思議な言葉のように中の君はお聞きしていた。
 無理をしておいでになっても、すぐにまたお帰りにならねばならぬ苦しさに宮も深い悲しみ を覚えておいでになった。こうしたお心を知らない中の君は、どうなってしまうことか、世間 の物笑いになることかと歎いているのであるから、恋愛というものはして苦しむほかのないこ とであると思われた。京でも多情な名は取っておいでになりながら、ひそかに通ってお行きに なる所とてはさすがにない宮でおありになった。六条院では左大臣が同じ邸内に住んでいて、 匂宮の夫人に擬している六の君に何の興味もお持ちにならぬ宮をうらめしいようにも思ってい るらしかった。好色男的な生活をしていられるといって、容赦なく宮のことを御非難して帝に までも不満な気持ちをお洩らし申し上げるふうであったから、八の宮の姫君という、だれにも 意外な感を与える人を夫人としてお迎えになることにはばかられるところが多かった。軽い恋 愛相手にしておいでになる女性は、宮仕えの体裁で二条の院なり、六条院なりへお入れになる ことも自由にお計らいになることができて、かえってお気楽であった。そうした並み並みの情 人とは少しも思っておいでにならないのであって、もし世の中が移り、帝と后のかねての御希
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望が実現される日になれば、だれよりも高い位置にこの人をすえたいと思うのであるからと、 現在の宮のお心は宇治の中の君に傾き尽くされていて、その人をいかにして幸福ならしめ常に 相見る方法をいかにして得ようかとばかり考えておいでになった。中納言は火災後再築してい る三条の宮のでき上がり次第によい方法を講じて大姫君を迎えようと考えていた。やはり人臣 の列にある人は気楽だといってよい。
 これほど愛しておいでになりながら、結婚を秘密のことにしておありになるために、宮にも 中の君にも煩悶の絶えないらしいことが気の毒で、このお二人の関係を自分から中宮に申し上 げて御了解を得ることにしたい。当座はお騒がれになって、めんどうな目に宮はおあいになる かもしれぬが、中の君のほうのためを思えば、それは一時的なことであって、直接苦痛になる こともあるまい、こんなふうに夜も明かし果てずに帰ってお行きになる宮のお気持ちのつらさ はさぞとお察しができて心苦しい、結婚が公然に認められるようになれば、中の君に十分な物 質的援助をして、宮の夫人たるに恥のない扱いを兄代わりになってしてみたい、とこう思うよ うになった薫は、しいて内密事とはせずに、このごろも冬の衣がえの季節になっているが、自 分のほかにだれがその仕度に力を貸すものがあろうと思いやって、御帳の懸け絹、壁代などと いうものは、三条の宮の新築されて移転する準備に作らせてあったから、それらを間に合わせ に使用されたいというふうに伝えて宇治へ送った。またいろいろな山荘の女房たちの着用する ものも自身の乳母などに命じて公然にも製作させた薫であった。
 十月の一日ごろは網代の漁も始まっていて、宇治へ遊ぶのに最も興味の多い時であることを
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申して中納言が宮をお誘いしたために、兵部卿の宮は紅葉見の宇治行きをお思い立ちになった。 宮にお付きしていて親しく思召される役人のほかに殿上役人の中で特に宮のお愛しになる人た ちだけを数にして微行のお遊びのつもりであったのであるが、大きな勢いを負っておいでにな る宮でおありになったから、いつとなくたいそうな催しになっていき、予定の人数のほかに左 大臣家の宰相中将がお供申し上げた。高官としては源中納言だけが随いたてまつった。殿上役 人の数は多かった。
 必ず女王たちの山荘へお寄りになることを信じている薫から、
 宮のお供をして相当な数の客が来ることを考えてお置きください。先年の春のお遊びに私と
 伺った人たちもまた参邸を望んで、不意にお訪ねしようとするかもしれません。
 などとこまごま注意をしてきたために、御簾を掛け変えさせ、あちこちの座敷の掃除をさせ、 庭の岩蔭にたまった紅葉の朽ち葉を見苦しくない程度に払わせ、小流れの水草をかき取らせな ど女王はさせた。薫のほうからは菓子のよいのなども持たせて来、また接待役に出す若い人た ちも来させてあった。こんなにもする薫の世話を平気で受けていることは気づらいことに姫君 は思っていたが、たよるところはほかにないのであるから、こうした因縁と思いあきらめて好 意を受けることにし、兵部卿の宮をお迎えする用意をととのえた。
 遊びの一行は船で河を上り下りしながらおもしろい音楽を奏する声も山荘へよく聞こえた。 目にも見えないことではなかった。若い女房らは河に面した座敷のほうから皆のぞいていた。 宮がどこにおいでになるのかはよくわからないのであるが、それらしく紅葉の枝の厚く屋型に
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葺いた船があって、よい吹奏楽はそこから水の上へ流れていた。河風がはなやかに誘っている のである。だれもが敬愛しておかしずきしていることはこうした微行のお遊びの際にもいかめ しくうかがわれる宮を、年に一度の歓会しかない七夕の彦星に似たまれな訪れよりも待ちえら れないにしても、婿君と見ることは幸福に違いないと思われた。
 宮は詩をお作りになる思召しで文章博士などを随えておいでになるのである。夕方に船は皆 岸へ寄せられて、奏楽は続いて行なわれたが、船中で詩の莚は開かれたのであった。音楽をす る人は紅葉の小枝の濃いの淡いのを冠に挿して海仙楽の合奏を始めた。だれもだれも楽しんで いる中で、宮だけは「いかなれば近江の海ぞかかるてふ人をみるめの絶えてなければ」という 歌の気持ちを覚えておいでになって、遠方人の心(七夕のあまのと渡るこよひさへ遠方人のつ れなかるらん)はどうであろうとお思いになり、ただ一人茫然としておいでになるのであった。 おりに合った題が出されて、詩の人は創作をするのに興奮していた。船中の人の動きの少し静 まっていくころを待って山荘へ行こうと薫も思い、そのことを宮へお耳打ちしていたうちに、 御所から中宮のお言葉を受けて宰相の兄の衛門督がはなばなしく随身を引き連れ、正装姿でお 使いにまいった。こうした御遊行はひそかになされたことであっても、自然に世間へ噂に伝わ り、あとの例にもなることであるのに、重々しい高官の御随行のわずかなままでお出かけにな ったことがお耳にはいって、衛門督が派遣され、ほかにも殿上役人を多く伴わせて御一行に加 えられたのである。こんなためにもまた騒がしくなって、思う人を持つお二人は目的の所へ行 かれぬ悲哀が苦痛にまでなって、どんなこともおもしろくは思われなくなった。宮のお心など
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は知らずに酔い乱れて、だれも音楽などに夢中になった姿で夜を明かした。それでも次の日に なればという期待を宮は持っておいでになったが、また朝になってから中宮大夫とまた多くの 殿上役人が来た。宮は落ちいぬ心になっておいでになって、このまま帰る気などにはおなりに なれなかった。
 山荘の中の君の所へはお文が送られた。風流なことなどは言っておいでになる余裕がお心に なく、ただまじめにこまごまとお心持ちをお伝えになったものであったが、人が多く侍してい る際であるからと思って女王は返事をしてこなかった。自身のような哀れな身の上の者が愛人 となっているのに、不釣合いな方であると女は深く思ったに違いない。遠い道が間にある時は 相見る日のまれなのも道理なことに思われ、こんな状態に置かれていても忘られてはいないの であろうとみずから慰めることもできた中の君であったが、近い所に来て派手なお遊びぶりを 見せられただけで、立ち寄ろうとされない宮をお恨めしく思い、くちおしくも思って悶えずに はいられなかった。
 宮はまして憂鬱な気持ちにおなりになって、恋しい人に逢われぬ不愉快さをどうしようもな く思召された。網代の氷魚の漁もことに多くて、きれいないろいろの紅葉にそれを混ぜて幾つ となく籠にしつらえるのに侍などに輿じていた。上下とも遊山の喜びに浸っている時に、宮だ けは悲しみに胸を満たせて空のほうばかりを見ておいでになった。そうするとお目につくのは 女王の山荘の木立ちであった。大木の常磐木へおもしろくかかった蔦紅葉の色さえも高雅さの 現われのように見え、遠くからはすごくさえ思われる一構えがそれであるのを、中納言も船に
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ながめて、自分がたいそうに前触れをしておいたことがかえって物思いを深くさせる結果を見 ることになったかと歎かわしく思った。
 一昨年の春薫に伴われて八の宮の山荘をお訪ねした公達は、その時の川べの桜を思い出して、 父宮を失われた女王たちがなおそこにおられることはどんなに心細いことであろうと同情し合 っていた。一人を兵部卿の宮が隠れた愛人にしておいでになるという噂を聞いている人もあっ たであろうと思われる。事情を知らぬ人も多いのであるから、ただ孤女になられた女王のこと を、こうした山里に隠れていても、若い麗人のことは自然に世間が知っているものであるから、
 「非常な美人だということですよ。十三絃の琴の名手だそうです。故人の宮様がそのほうの 教育をよくされておいたために」
 などと口々に言っていた。宰相の中将が、
  いつぞやも花の盛りに一目見し木の下さへや秋はさびしき
 八の宮に縁故の深い人であるからと思って薫にこう言った。その人、
  桜こそ思ひ知らすれ咲きにほふ花も紅葉も常ならぬ世に
 衛門督、
  いづこより秋は行きけん山里の紅葉の蔭は過ぎうきものを
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 中宮大夫、
  見し人もなき山里の岩がきに心長くも這へる葛かな
 だれよりも老人であるから泣いていた。八の宮がお若かったころのことを思い出しているの であろう。兵部卿の宮が、
  秋はてて寂しさまさる木の本を吹きな過ぐしそ嶺の松風
 とお歌いになって、ひどく悲しそうに涙ぐんでおいでになるのを見て、秘密を知っている人 は、評判どおりに宮はその人を深く愛しておいでになるらしい、こんな機会にさえそこへおい でになることがおできにならないのはお気の毒であると思っているのであるが、そうした人た ちだけをつれて山荘へおはいりになることも御実行のできないことであった。人々の作った詩 のおもしろい一節などを皆口ずさんだりしていて、歌のほうも平生とは違った旅のことである から相当に多くできていたが、酒酔いをした頭から出たものであるから、少しを採録したとこ ろで、佳作はなくつまらぬから省く。
 山荘では宮の一行が宇治を立って行かれた気配を相当に遠ざかるまで聞こえた前駆の声で知 り、うれしい気持ちはしなかった。御歓待の仕度をしていた人たちは皆はなはだしく失望をし た。大姫君はましてこの感を深く覚えているのであった。やはり噂されるように多情でわがま まな恋の生活を事とされる宮様らしい、よそながら恋愛談を人のするのを聞いていると、男と
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いうものは女に向かって嘘を上手に言うものであるらしい、愛していない人を愛しているふう に巧みな言葉を使うものであると、自分の家にいるつまらぬ女たちが身の上話にしているのを 聞いていた時は、身分のない人たちの中にだけはそうしたふまじめな男もあるのであろう、貴 族として立っている人は、世間の批評もはばかって慎むところもあるのであろうと思っていた のは、自分の認識が足りなかったのである、多情な方のように父宮も聞いておいでになって、 交際はおさせになったがこの家の婿になどとはお考えにならなかったものらしかったのに、不 思議なほど熱心に求婚され、すでにもう縁は結ばれてしまい、それによっていっそう自分まで が心の苦労を多くし不幸さを加えることになったのは歎かわしいことである。接近して愛の薄 くおなりになった宮のお相手の妹を、中納言は軽蔑して考えないであろうか、りっぱな女房が いるのではないが、それでもその人たちがどう思うかも恥ずかしい。人笑われな運命になった と煩悶することによって姉女王は健康をさえもそこねるようになった。当の中の君はたまさか にしかお逢いしない良人であるが、熱情的な愛をささやかれていて、今眼前にどんなことがあ ろうともお心のまったく変わるようなことはあるまい、常においでになることのできないのも 余儀ない障りがあるからに相違ないとたのむところもあるのであった。ここしばらくおいでに ならなかったのであるから切なく思わぬはずもないのに、近くへお姿をお現わしになっただけ で行っておしまいになったことでは恨めしく残念な思いをして気をめいらせているのが、総角 の姫君には堪えられぬほど哀れに見えた。世間並みの姫君らしい宮殿にかしずかれていたなら ば、この邸がこんな貧弱なものでなければ宮は素通りをなされなかったはずであるのにと思わ
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れるのである。自分もまだ生きているとすれば、こうした目にあわされるであろう、中納言が いろいろな言葉で清い恋を求めるというのも、自分をためそうとする心だけであって、自分一 人は友情以上に出まいとしていても、あの人の本心がそれでないのでは行くところは知れきっ たことで、自分のしりぞけるのにも力の限度がある、家にいる女たちは媒介役の失敗に懲りも せず、今もどうかして中納言を自分の良人にさせたいと望まない者もないのであるから、自分 の気持ちは尊重されず、結果としては自分があの人の妻にされてしまうことになるのであろう、 これが取りも直さず父君が、みずからをよく護っていくようにと仰せられたことに違いない、 不幸な自分たちは母君をも早く失い、父宮にもお別れしてしまったが、薄命な者であるからど うなってもよいと自身を軽く扱って、見苦しい捨てられた妻というものになり、お亡くなりに なったあとの父君のお心までをお悩ましさせることになるのは悲しい。自分一人だけでもそう した物思いに沈まないで済む処女を呆ったままで病死をしてしまいたいと、こんなことを明け 暮れ思い続ける大姫君は、心細い死の予感をさえ覚えて、中の君を見ても哀れで、自分にまで 死に別れたあとではいっそう慰みどころのない人になるであろう、美しいこの人をながめるこ とが自分の唯一の慰安で、どうかして幸福な女にさせたいとばかり願っていた、どんなに高貴 な方を良人に持ったといっても、今度のような侮辱を受けながらなお尼にもならず妻として孤 閨を守っていくことは例もないほど恥ずかしいことに違いないと、それからそれへと思い続け ていく大姫君は、自分ら姉妹は現世で少しの慰めも得られないままで終わる運命を持つものら しいと心細くなるのであった。
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兵部卿の宮は御帰京になったあとでまたすぐに微行で宇治へお行きになろうとしたのであっ たが、
 「兵部卿の宮様は宇治の八の宮の姫君とひそかな関係を結んでおいでになりまして、突然に 時々近郊の御旅行と申すようなことをお思い立ちになるのでございます。御軽率すぎることだ と世間でもよろしくはお噂いたしません」
 と左大臣の息子の衛門督がそっと中宮へ申し上げたために、中宮も御心配をあそばし、帝も 常から宮のお身持ちを気づかわしく思召していられたのであったから、これによっていっそう 監視が厳重になり、兵部卿の宮を宮中から一歩もお出しにならぬような計らいをあそばされた。 そして左大臣の六女との結婚はお諾しにならなかった宮へ、強制的にその人を夫人になさしめ たもうというようなこともお定めになった。中納言はそれを聞いて憂鬱になっていた。自分が あまりに人と変わり過ぎているのである、どんな宿命でか八の宮が姫君たちを気がかりに仰せ られた言葉も忘られなかったし、またその女王たちもすぐれた女性であるのを発見してからは、 世間に無視されていることがあまりに不合理に惜しいことに思われ、人の幸福な夫人にさせた いことが念頭を去らなかったし、ちょうど兵部卿の宮も熱心に希望あそばされたことであった ために、自分の対象とする姫君は違っているのに、今一人の女王を自分に娶らせようと当の人 がされるのをうれしくなく思うところから、宮とその方とを結ばせてしまった。今思うとそれ は軽率なことであった。二人とも自分の妻にしても非難する人はなかったはずである、今さら 取り返されるものではないが、愚かしい行動をしたと煩悶をしているのである。
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 宮はまして宇治の女王がお心にかからぬ時とてもなかった。恋しくお思いになり、知らぬま にどんなことになっているかもしれぬという不安もお覚えになるのである。
 「非常にお気に入った人がおありになるのだったら、私の女房の一人にしてここへ来させて、 目だたない愛しようをしていればいいでしょう。あなたは東宮様、二の宮さんに続いて特別な ものとして未来の地位をお上はお考えになっていらっしゃるのですから、軽率な恋愛問題など を起こして、人から指弾されるのはよろしくありませんからね」
 こんなふうに中宮は始終御忠告をあそばされるのであった。
 はげしく時雨が降って御所へまいる者も少ない日、兵部卿の宮は姉君の女一の宮の御殿へお いでになった。お居間に侍している女房の数も多くなくて、姫君は今静かに絵などを御覧にな っているところであった。几帳だけを隔てにしてお二方はお話しになった。限りもない気品の ある貴女らしさとともに、なよなよとした柔らかさを備えたもうた姫宮を、この世にこれ以上 の高華な美を持つ女性はなかろうと、昔から兵部卿の宮は思っておいでになって、これに近い 人というのは冷泉院の内親王だけであろうと信じておいでになり、世間から受けておいでにな る尊敬の度も、御容姿も、御聡明さも人のお噂する言葉から想像されて、宮の覚えておいでに なる院の宮への恋を、なんらお通じになる機会というものがなく、しかも忘れる時なく心に持 っておいでになる兵部卿の宮なのであるが、あの宇治の山里の人の可憐で高い気品の備わった ところなどは、これらの最高の貴女に比べても劣らないであろうと、姉君のお姿からも中の君 が聯想されて、恋しくてならず思召す心の慰めに、そこに置かれてあったたくさんな絵を見て
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おいでになると、美しい彩色絵の中に、恋する男の住居などを描いたのがあって、いろいろな 姿の山里の風景も添っていた。恋人の宇治の山荘の景色に似たものへお目がとまって、姫君の 御了解を得てこの絵は中の君へ送ってやりたいと宮はお思いになった。伊勢物語を描いた絵も あって、妹に琴を教えていて、「うら若みねよげに見ゆる若草を人の結ばんことをしぞ思ふ」 と業平が言っている絵をどんなふうに御覧になるかと、お心を引く気におなりになり、少し近 くへお寄りになって、
 「昔の人も同胞は隔てなく暮らしたものですよ。あなたは物足らないお扱いばかりをなさい ますが」
 とお言いになったのを、姫宮はどんな絵のことかと思召すふうであったから、兵部卿の宮は それを巻いて几帳の下から中へお押しやりになった。下向きになってその絵を御覧になる一品 の宮のお髪が、なびいて外へもこぼれ出た片端に面影を想像して、この美しい人が兄弟でなか ったならという心持ちに匂宮はなっておいでになった。おさえがたいそうした気分から、
  若草のねみんものとは思はねど結ぼほれたるここちこそすれ
 こんなことを申された。姫宮に侍している女房たちは匂宮の前へ出るのをことに恥じて皆何 かの後ろへはいって隠れているのである。ことにもよるではないか、不快なことを言うもので あると思召す姫宮は、何もお言いにならないのであった。この理由から「うらなく物の思はる るかな」と答えた妹の姫も蓮葉な気があそばされて好感をお持ちになることができなかった。
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六条院の紫夫人が宮たちの中で持にこのお二人を手もとでおいつくしみしたのであったから、 最も親しいものにして双方で愛しておいでになった。姫宮を中宮は非常にお大事にあそばして、 よきが上にもよくおかしずきになるならわしから、侍女なども精選して付けておありになった。 少しの欠点でもある女房は恥ずかしくてお仕えができにくいのである。貴族の令嬢が多く女房 になっていた。移りやすい心の兵部卿の宮は、そうした中に物新しい感じのされる人を情人に お持ちになりなどして、宇治の人をお忘れになるのではないながらも、逢いに行こうとはされ ずに日がたった。
 待つほうの人からいえば、これが長い時間に思われて、やはりこんなふうにして忘られてし まうのかと、心細く物思いばかりがされた。そんなころにちょうど中納言が訪ねて来た。総角 の姫君が病気になったと聞いて見舞いに来たのである。ちょっとしたことにもすぐ影響が現わ れてくるというほどの病体ではなかったが、姫君はそれに託して対談するのを断わった。
 「おしらせを聞くとすぐに、驚いて遠い路を上がった私なのですから、ぜひ御病床の近くへ お通しください」
 と言って、不安でこのままでは帰れぬふうを見せるために、女王の病室の御簾の前へ座が作 られ、薫はそこへ行った。困ったことであると姫君は苦しがっていたが、そう冷ややかなふう は見せるのでもなかった。頭を枕から上げて返辞などをした。宮が御意志でもなくお寄りにな らなかった紅葉の船の日のことを薫は言い、
 「気永に見ていてください。はらはらとお心をつかってお恨みしたりなさらないように」
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 などと教えるようにも言う。
 「私は格別愚痴をこぼしたりはいたしませんが、亡くなられました宮様が、御教訓を残して お置きになりましたのは、こうしたこともあらせまい思召しかと思いまして、あの人がかわい そうでございます」
 それに続いて大姫君の歎く気配がした。心苦しくて、薫は自身すらも恥ずかしくなって、
 「人生というものは、何も皆思いどおりにいくものではありませんからね。そんなことには 少しも経験をお持ちにならないあなたがたにとっては、恨めしくばかりお思われになることも あるでしょうが、まあしいてもそれを静めて時をお待ちなさい。決してこのまま悪くなってい く御縁ではないと私は信じています」
 などと言いながらも、自身のことでなく他の人の恋でこの弁明はしているのであると思うと、 奇妙な気がしないでもなかった。夜になるときまって苦しくなる病状であったから、他人が病 室の近くに来ていることは中の君が迷惑することと思って、やはりいつもの客室のほうへ寝床 をしつらえて人々が案内を申し出るのであったが、
 「始終気がかりでならなく思われる方が、ましてこんなふうにお悪くなっておいでになるの を聞くと、すぐにも上がった私を、病室からお遠ざけになるのは無意味ですよ。こんな場合の お世話なんぞも、私以外のだれが行き届いてできますか」
 などと、老女の弁に語って、始めさせる祈祷についての計らいも薫はした。そんなことは恥 ずかしい、死にたいとさえ思うほどの無価値な自分ではないかと大姫君は聞いていて思うので
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あったが、好意を持ってくれる人に対して、思いやりのないように思われるのも苦しくて、ま あ生きていてもよいという気になったという、こんな、優しい感情もある女王なのであった。
 次の朝になって、薫のほうから、
 「少し御気分はおよろしいようですか、せめて昨日ほどにでもしてお話がしたい」
 と、言ってやると、
 「次第に悪くなっていくのでしょうか、今日はたいへん苦しゅうございます。それではこち らへ」
 という挨拶があった。中納言は哀れにそれを聞いて、どんなふうに苦しいのであろうと思い、 以前よりも親しみを見せられるのも悪くなっていく前兆ではあるまいかと胸騒ぎがし、近く寄 って行きいろいろな話をした。
 「今私は苦しくてお返辞ができません。少しよくなりましたらねえ」
 こうかすかな声で言う哀れな恋人が心苦しくて、薫は歎息をしていた。さすがにこうしてず っと今日もいることはできない人であったから、気がかりにしながらも帰京をしようとして、
 「こういう所ではお病気の際などに不便でしかたがない。家を変えてみる療法に託してしか るべき所へ私はお移ししようと思う」
 などと言い置き、御寺の阿闍梨にも熱心に祈祷をするように告げさせて山荘を出た。
 薫の従者でたびたびの訪問について来た男で山荘の若い女房と情人関係になった者があった。 二人の中の話に、兵部卿の宮には監視がきびしく付き、外出を禁じられておいでになることを
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言い、
 「左大臣のお嬢さんと御結婚をおさせになることになっているのだが、大臣のほうでは年来 の志望が達せられるので二つ返辞というものなのだから、この年内に実現されることだろう。 宮はその話に気がお進みにならないで、御所の中で放縦な生活をして楽しんでおいでになるか ら、お上や中宮様の御処置も当を得なかったわけになるのだね。自家の殿様は決してそんなの じゃない、あまりまじめ過ぎる点で皆が困っているほどなのだ。ここへこうたびたびおいでに なることだけが驚くべき御執心を一人の方に持っておられると言ってだれも感心していること だ」
 とも言った。こんな話を聞きましたと、その女が他の女房たちの中で語っているのを中の君 は聞いて、ふさがり続けた胸がまたその上にもふさがって、もういよいよ自分から離れておし まいになる方と解釈しなければならない、りっぱな夫人をお得になるまでの仮の恋を自分へ運 んでおいでになったにすぎなかったのであろう、さすがに中納言などへのはばかりで手紙だけ は今でも情のあるようなことを書いておよこしになるのであろうと考えられるのであったが、 恨めしいと人の思うよりも、恥ずかしい自身の置き場がない気がして、しおれて横になってい た。病女王はそれが耳にはいった時から、いっそうこの世に長くいたいとは思われなくなった。 つまらぬ女たちではあるが、その人たちもどんなにこの始末を嘲笑して思っているかもしれぬ と思われる苦しさから、聞こえぬふうをして寝ているのであった。中の君は物思いをする人の 姿態といわれる肱を枕にしたうたた寝をしているのであるが、その姿が可憐で、髪が肩の横に
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たまっているところなどの美しいのを、病女王はながめながら、親のいさめ(たらちねの親の いさめしうたた寝云々)の言葉というものがかえすがえす思い出されて悲しくなり、あの世の 中でも罪の深い人の堕ちる所へ父君は行っておいでにはなるまい、たとえどこにもせよおいで になる所へ自分を迎えてほしい、こんなに悲しい思いばかりを見ている自分たちを捨ててお置 きになって、父君は夢にさえも現われてきてはくださらないではないかと思い続けて、夕方の 空の色がすごくなり、時雨が降り、木立ちの下を吹き払う風の音を寂しく聞きながら、過去の こと、のちの日のことをはかなんで病床にいる姿には、またもない品よさが備わり、白の衣服 を着て、頭は梳くこともしないでいるのであるが、もつれたところもなくきれいに筋がそろっ たまま横に投げやりになっている髪の色に少し青みのできたのも艶な趣を添えたと見える。目 つき額つきの美しさはすぐれた女の顔というもののよくわかる人に見せたいようであった。う たた寝していたほうの女王は、荒い風の音に驚かされて起き上がった。山吹の色、淡紫などの 明るい取り合わせの着物は着ていたが顔はまたことさらに美しく、染めたように美しく、花々 とした色で、物思いなどは少しも知らぬというようにも見えた。
 「お父様を夢に見たのですよ。物思わしそうにして、ちょうどこの辺の所においでになりま したわ」
 と言うのを聞いて病女王の心はいっそう悲しくなった。
 「お亡れになってから、どうかして夢の中ででもお逢いしたいと私はいつも思っているのに 少しも出ておいでにならないのですよ」
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 と言ったあとで、二人は非常に泣いた。このごろは明け暮れ自分が思っているのであるから、 ふと出ておいでになることもあったのであろう、どうしても父君のおそばへ行きたい、人の妻 にもならず、子なども持たない清い身を持ってあの世へ行きたい、と大姫君は来世のことまで も考えていた。支那の昔にあったという反魂香も、恋しい父君のためにほしいとあこがれてい た。暗くなってしまったころに兵部卿の宮のお使いが来た。こうした一瞬間は二女王の物思い も休んだはずである。中の君はすぐに読もうともしなかった。
 「やっぱりおとなしくおおような態度を見せてお返事を書いておあげなさい。私がこのまま 亡くなれば、今以上にあなたは心細い境遇になって、どんな人の媒介役を女房が勤めようとす るかもしれないのですからね。私はそれが気がかりで、心の残る気もしますよ。でもこの方が 時々でも手紙を送っておいでになるくらいの関心をあなたに持っていらっしゃる間は、そんな 無茶なことをしようとする女もなかろうと思うと、恨めしいながらもなお頼みにされますよ」
 と姫君が言うと、
 「先に死ぬことなどをお思いになるのはひどいお姉様。悲しいではありませんか」
 中の君はこう言って、いよいよ夜着の中へ深く顔を隠してしまった。
 「自分の命が自分の思うままにはならないのですからね。私はあの時すぐにお父様のあとを 追って行きたかったのだけれど、まだこうして生きているのですからね。明日はもう自分と関 係のない人生になるかもしれないのに、やはりあとのことで心を苦しめていますのも、だれの ために私が尽くしたいと思うからでしょう」
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 と大姫君は灯を近くへ寄せさせて宮のお手紙を読んだ。いつものようにこまやかな心が書か れ、
  ながむるは同じ雲井をいかなればおぼつかなさを添ふる時雨ぞ
 とある。袖を涙で濡らすというようなことがあの方にあるのであろうか、男のだれもが言う 言葉ではないかと見ながらも怨めしさはまさっていくばかりであった。
 世にもまれな美男でいらせられる方が、より多く人に愛されようと艶に作っておいでになる お姿に、若い心の惹かれていぬわけはない。隔たる日の遠くなればなるほど恋しく宮をお思い するのは中の君であって、あれほどに、あれほどな誓言までしておいでになったのであるから、 どんなことがあってもこのままよその人になっておしまいになることはあるまいと思いかえす 心が常に横にあった。お返事を今夜のうちにお届けせねばならぬと使いが急がし立てるために、 女房が促すのに負けて、ただ一言だけを中の君は書いた。
  あられ降る深山の里は朝夕にながむる空もかきくらしつつ
 それは十月の三十日のことであった。
 逢わぬ日が一月以上になるではないかと、宮は目責を感じておいでになりながら、今夜こそ 今夜こそと期しておいでになっても、障りが次から次へと多くてお出かけになることができな いうちに、今年の五節は十一月にはいってすぐになり、御所辺の空気ははなやかなものになっ
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て、それに引かれておいでになるというのでもなく、わざわざ宇治をお訪ねになろうとしない のでもなく、日が紛れてたっていく。
 この間を宇治のほうではどんなに待ち遠に思ったかしれない。かりそめの情人をお作りにな ってもそんなことで慰められておいでになるわけではなく、宮の恋しく思召す人はただ一人の 中の君であった。左大臣家の姫君との縁組みについて、中宮も今では御譲歩をあそばして、
 「あなたにとって強大な後援者を結婚で得てお置きになった上で、そのほかに愛している人 があるなら、お迎えになって重々しく夫人の一人としてお扱いになればよろしいではないか」
 と仰せられるようになったが、
 「もうしばらくお待ちください。私に考えがあるのですから」
 となおいなみ続けておいでになる兵部卿の宮であった。かりそめの恋人は作っても、勢いの ある正妻などを持ってあの人に苦しい思いはさせたくないと宮の思っておいでになることなど は、宇治へわからぬことであったから、月日に添えて物思いが加わるばかりである。
 薫も宮を自分の観察していたよりも軽薄なお心であった、世間で見ているような方ではない とお信じ申していて、宇治の女王たちへ取りなしていたのが恥ずかしくなり、女のほうを心か らかわいそうに思って、あまり宮へ近づいてまいらないようになった。そして山荘のほうへは 病む女王の容体を聞きにやることを怠らなかった。
 十一月になって少しよいという報告を薫は得ていて、それがちょうど公私の用の繁多な時で あったため、五、六日見舞いの使いを出さずにいたことを急に思い出して、まだいろいろな用
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のあったのも捨てておいて自身で出かけて行った。祈祷は恢復するまでとこの人から命じてあ ったのであったのに、少し快いようになったからといって阿闍梨も寺へ帰してあった。それで 山荘のうちはいっそう寂寞たるものになっていた。例の弁が出て来て病女王のことを報告した。
 「どこがお痛いというところもございませんような、御大病とは思えぬ御容体でおありにな りながら、物を少しも召し上がらないのでございますよ。だいたい御体質が繊弱でいらっしゃ いますところへ、兵部卿の宮様のことが起こってまいりましてからは、ひどく物思いをばかり なさいます方におなりになりまして、ちょっとしたお菓子をさえも召し上がろうとはなさらな かったおせいでございますよ、御衰弱がひどうございましてね、頼み少ないふうになっておし まいになりました。私は情けない長命をいたしまして、悲しい目にあいますより前に死にたい と念じているのでございます」
 と言い終えることもできぬように泣くのが道理に思われた。
 「なぜそれをどなたもどなたも私へ知らせてくださらなかったのですか。冷泉院のほうにも 御所のほうにもむやみに御用の多い幾日だったものですから、私のほうの使いも出しかねてい た間に、ずいぶん御心配していたのです。」
 と言って、この前の病室にすぐ隣った所へはいって行った。枕に近い所に坐して薫はものを 言うのであったが、声もなくなったようで姫君の返辞を聞くことができない。
 「こんなに重くおなりになるまで、どなたもおしらせくださらなかったのが恨めしい。私が どんなに御心配しているかが、皆さんに通じなかったのですか」
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 と言い、まず御寺の阿闍梨、それから祈祷に効験のあると言われる僧たちを皆山荘へ薫は招 いた。祈祷と読経を翌日から始めさせて、手つだいの殿上役人、自家の侍たちが多く呼び寄せ られ、上下の人が集まって来たので、前日までの心細げな山荘の光景は跡もなく、頼もしく見 られる家となった。日が暮れると例の客室へ席を移すことを女房たちは望み、湯漬けなどのも てなしをしようとしたのであるが、来ることのおくれた自分は、今はせめて近い所にいて看病 がしたいと薫は言い、南の縁付きの室は僧の室になっていたから、東側の部屋で、それよりも 病床に密接している所に屏風などを立てさせてはいった。これを中の君は迷惑に思ったのであ るが、薫と姫君との間柄に友情以上のものが結ばれていることと信じている女房たちは、他人 としては扱わないのであった。
 初夜から始めさせた法華経を続けて読ませていた。尊い声を持った僧の十二人のそれを勤め ているのが感じよく思われた。灯は僧たちのいる南の室にあって、内側の暗くなっている病室 へ薫はすべり入るようにして行って、病んだ恋人を見た。老いた女房の二、三人が付いていた。 中の君はそっと物蔭へ隠れてしまったのであったから、ただ一人床上に横たわっている総角の 病女王のそばへ寄って薫は、
 「どうしてあなたは声だけでも聞かせてくださらないのですか」
 と言って、手を取った。
 「心ではあなたのおいでになったことがわかっていながら、ものを言うのが苦しいものです から失礼いたしました。しばらくおいでにならないものですから、もうお目にかかれないまま
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で死んで行くのかと思っていました」
 息よりも低い声で病者はこう言った。
 「あなたにさえ待たれるほど長く出て来ませんでしたね、私は」
 しゃくり上げて薫は泣いた。この人の頬に触れる髪の毛が熱で少し熱くなっていた。
 「あなたはなんという罪な性格を持っておいでになって、人をお悲しませになったのでしょ う。その最後にこんな病気におなりになった」
 耳に口を押し当てていろいろと薫が言うと、姫君はうるさくも恥ずかしくも思って、袖で顔 をふさいでしまった。平生よりもなおなよなよとした姿になって横たわっているのを見ながら、 この人を死なせたらどんな気持ちがするであろうと胸も押しつぶされたように薫はなっていた。
 「毎日の御介抱が、御心配といっしょになってたいへんだったでしょう。今夜だけでもゆっ くりとお休みなさい。私がお付きしていますから」
 見えぬ蔭にいる中の君に薫がこう言うと、不安心には思いながらも、何か直接に話したいこ とがあるのであろうと思って、若い女王は少し遠くへ行った。真向うへ顔を持ってくるのでな くても、近く寄り添って来る薫に、大姫君は羞恥を覚えるのであったが、これだけの宿縁はあ ったのであろうと思い、危険な線は踏み越えようとしなかった同情の深さを、今一人の男性に 比べて思うと、一種の愛はわく姫君であった。死んだあとの思い出にも気強く、思いやりのな い女には思われまいとして、かたわらの人を押しやろうとはしなかった。
 一夜じゅうかたわらにいて、時々は湯なども薫は勧めるのであったが、少しもそれは聞き入
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れなかった。悲しいことである、この命をどうして引きとめることができるであろうと薫は思 い悩むのであった。不断経を読む僧が夜明けごろに人の代わる時しばらく前の人と同音に唱え る経声が尊く聞こえた。阿闍梨も夜居の護持僧を勤めていて、少し居眠りをしたあとでさめて、 陀羅尼を読み出したのが、老いたしわがれ声ではあったが老巧者らしく頼もしく聞かれた。
 「今夜の御様子はいかがでございますか」
 などと阿闍梨は薫に問うたついでに、
 「宮様はどんな所においでになりましょう。必ずもう清浄な世界においでになると私は思っ ているのですが、先日の夢にお見上げすることができまして、それはまだ俗のお姿をしていら れまして、人生を深くいとわしい所と信じていたから、執着の残ることは何もなかったのだが、 少し心配に思われる点があって、今しばらくの間志す所へも行きつかずにいるのが残念だ。こ うした私の気持ちを救うような方法を講じてくれとはっきりと仰せられたのですが、そうした 場合に速く何をしてよろしいか私にはよい考えが出ないものですから、ともかくもできますこ とでと思いまして、修行の弟子五、六人にある念仏を続けさせております。それからまた気づ きまして常不軽の行ないに弟子を歩かせております」
 こんなことを言うのを聞いて薫は非常に泣いた。父君の成仏の道の妨げをさえしているかと 病女王もそれを聞いて、そのまま息も絶えんばかりに悲しんだ。ぜひとも父君がまだ冥府の道 をさまよっておいでになるうちに自分も行って、同じ所へまいりたいと思うのであった。阿闍 梨は多く語らずに座を立って行った。
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 この常不軽の行はこの辺の村々をはじめとして、京の町々にまでもまわって家々の門に額を 突く行であって、寒い夜明けの風を避けるために、師の阿闍梨のまいっている山荘へはいり、 中門の所へすわって回向の言葉を述べているその末段に言われることが、故人の遺族の身にし みじみとしむのであった。客である中納言も仏に帰依する人であったから、これも泣きながら 聞いていた。
 中の君が姉君を気づかわしく思うあまりに病床に近く来て、奥のほうの几帳の蔭に来ている 気配を薫は知り、居ずまいを正して、
 「不軽の声をどうお聞きになりましたか、おごそかな宗派のほうではしないことですが尊い ものですね」
 と言い、また、
  霜さゆる汀の干鳥うちわびて鳴く音悲しき朝ぼらけかな
 これをただ言葉のようにして言った。
 恨めしい恋人に似たところのある人とは思うが返辞の声は出しかねて、弁に代わらせた。
  あかつきの霜うち払ひ鳴く千鳥もの思ふ人の心をや知る
 あまりに似合わしくない代わり役であったが、つたなくもない声づかいで弁はこの役を勤め た。こうした言葉の贈答にも、遠慮深くはありながらなつかしい才気のにおいの覚えられるこ
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の女王とも、姉女王を死が奪ったあとではよそよそになってしまわねばならぬではないか、何 もかも失うことになればどんな気がするであろうと薫は恐ろしいことのようにさえ思った。阿 闍梨の夢に八の宮が現われておいでになったことを思っても、このいたましい二人の女王があ の世からお気がかりにお見えになることかもしれぬと思われる薫は、山の御寺へも誦経の使い を出し、そのほかの所々へも読経をさせる使いをすぐに立てた。宮廷のほうへも、私邸のほう へもお暇を乞い、神々への祭り、祓までも隙なくさせて姫君の快癒のみ待つ薫であったが、見 えぬ罪により得ている病ではないのであったから、効験は現われてこなかった。病者自身が、 生かせてほしいと仏に願っておればともかくであるが、女王にすれば、病になったのを幸いと して死にたいと念じていることであるから、祈祷の効目もないわけである。死ぬほうがよい、 中納言がこうしてつききりになっていて介抱をされるのでは、癒ったあとの自分はその妻にな るよりほかの道はない、そうかといって、今見る熱愛とのちの日の愛情とが変わり、自分も恨 むことになり、煩悶が絶えなくなるのはいとわしい。もしこの病で死ぬことができなかった場 合には、病身であることに託して尼になろう、そうしてこそ互いの愛は永久に保たれることに なるのであるから、ぜひそうしなければならぬと姫君は深く思うようになって、死ぬにしても、 生きるにしても出家のことはぜひ実行したいと考えるのであるが、そんな賢げに聞こえること は薫に言い出されなくて、中の君に、
 「私の病気は癒るのでないような気がしますからね、仏のお弟子になることによって、命の 助かる例もあると言いますから、あなたからそのことを阿闍梨に頼んでください」
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 こう言ってみた。皆が泣いて、
 「とんでもない仰せでございます。あんなに御心配をしていらっしゃいます中納言様がどれ ほど御落胆あそばすかしれません」
 だれもこんなことを言って、唯一の庇護者である薫にこの望みを取り次ごうとしないのを病 女王は残念に思っていた。
 女王の病のために薫が宇治に滞在していることを、それからそれへと話に聞き、慰問にわざ わざ来る人もあった。深く愛している様子を察している部下の人、家職の人たちはいろいろの 祈祷を依頼しにまわるのに狂奔していた。
 今日は五節の当日であると薫は京を思いやっていた。風がひどくなり、雪もあわただしく降 り荒れていた。京の中の天気はこんなでもあるまいがと切実に心細さを感じていた薫は、この 人と夫婦になれずに終わるのであろうかと考えられる点に、運命の恨めしさはあったが、そん なことは今さら思うべきでない、なつかしい可憐なふうで、ただしばらくでも以前のように思 うことの言い合える時があればいいのであるがと物思わしくしていた。明るくならないままで 日が暮れた。
  かきくもり日かげも見えぬ奥山に心をくらすころにもあるかな
 薫の歌である。この人のいてくれるのをだれも力に頼んでいた。
 いつもの近い席に薫がいる時に、几帳などを風が乱暴に吹き上げるため中の君は向こうのほ
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うへはいった。老いた女房などもきまり悪がって隠れてしまった間に、近々と病床へ薫は寄っ て、
 「どんな御気分ですか、私が精神を集中して快くおなりになるのを祈っているのに、その効 がなくて、もう声すら聞かせていただけなくなったのは悲しいことじゃありませんか。私をあ とに残して行っておしまいになったらどんなに恨めしいでしょう」
 泣く泣くこう言った。もう意識もおぼろになったようでありながら女王は薫のけはいを知っ て袖で顔をよく隠していた。
 「少しでもよろしい間があれば、あなたにお話し申したいこともあるのですが、何をしよう としても消えていくようにばかりなさるのは悲しゅうございます」
 薫を深く憐むふうのあるのを知って、いよいよ男の涙はとめどなく流れるのであるが、周囲 で頼み少なく思っているとは知らせたくないと思って慎もうとしても、泣く声の立つのをどう しようもなかった。自分とはどんな宿命で、心の限り愛していながら、恨めしい思いを多く味 わわせられるだけでこの人と別れねばならぬのであろう、少し悪い感じでも与えられれば、そ れによってせめても失う者の苦しみをなだめることになるであろう、と思って見つめる薫であ ったが、いよいよ可憐で、美しい点ばかりが見いだされる。腕なども細く細く細くなって影の ようにはかなくは見えながらも色合いが変わらず、白く美しくなよなよとして、白い服の柔ら かなのを身につけ夜着は少し下へ押しやってある。それはちょうど中に胴というもののない雛 人形を寝かせたようなのである。髪は多すぎるとは思われぬほどの量で床の上にあった。枕か
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ら下がったあたりがつやつやと美しいのを見ても、この人がどうなってしまうのであろう、助 かりそうも見えぬではないかと限りなく惜しまれた。長く病臥していて何のつくろいもしてい ない人が、盛装して気どった美人というものよりはるかにすぐれていて、見ているうちに魂も、 この人と合致するために自分を離れて行くように思われた。
 「あなたがいよいよ私を捨ててお行きになることになったら、私も生きていませんよ。けれ ど、人の命は思うようになるものでなく、生きていねばならぬことになりましたら、私は深い 山へはいってしまおうと思います。ただその際にお妹様を心細い状態であとへお残しするだけ が苦痛に思われます」
 中納言は少しでもものを言わせたいために、病者が最も関心を持つはずの人のことを言って みると、姫君は顔を隠していた袖を少し引き直して、
 「私はこうして短命で終わる予感があったものですから、あなたの御好意を解しないように 思われますのが苦しくて、残っていく人を私の代わりと思ってくださるようにとそう願ってい たのですが、あなたがそのとおりにしてくださいましたら、どんなに安心だったかと思いまし てね、それだけが心残りで死なれない気もいたします」
 と言った。
 「こんなふうに悲しい思いばかりをしなければならないのが私の宿命だったのでしょう。私 はあなた以外のだれとも夫婦になる気は持ってなかったものですから、あなたの好意にもそむ いたわけなのです。今さら残念であの方がお気の毒でなりません。しかし御心配をなさること
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はありませんよ。あの方のことは」
 などともなだめていた薫は、姫君が苦しそうなふうであるのを見て、修法の僧などを近くへ 呼び入れさせ、効験をよく現わす人々に加持をさせた。そして自身でも念じ入っていた。人生 をことさらいとわしくなっている薫でないために、道へ深く入れようとされる仏などが、今こ うした大きな悲しみをさせるのではなかろうか。見ているうちに何かの植物が枯れていくよう に総角の姫君の死んだのは悲しいことであった。引きとめることもできず、足摺りしたいほど に薫は思い、人が何と思うともはばかる気はなくなっていた。臨終と見て中の君が自分もとも に死にたいとはげしい悲嘆にくれたのも道理である。涙におぼれている女王を、例の忠告好き の女房たちは、こんな場合に肉親がそばで歎くのはよろしくないことになっていると言って、 無理に他の室へ伴って行った。
 源中納言は死んだのを見ていても、これは事実でないであろう、夢ではないかと思って、台 の灯を高く掲げて近くへ寄せ、恋人をながめるのであったが、少し袖で隠している顔もただ眠 っているようで、変わったと思われるところもなく美しく横たわっている姫君を、このままに して乾燥した玉虫の骸のように永久に自分から離さずに置く方法があればよいと、こんなこと も思った。遺骸として始末するために人が髪を直した時に、さっと芳香が立った。それはなつ かしい生きていた日のままのにおいであった。どの点でこの人に欠点があるとしてのけにくい 執着を除けばいいのであろう、あまりにも完全な女性であった。この人の死が自分を信仰へ導 こうとする仏の方便であるならば、恐怖もされるような、悲しみも忘れられるほど変相を見せ
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られたいと仏を念じているのであるが、悲しみはますます深まるばかりであったから、せめて 早く煙にすることをしようと思い、葬送の儀式のことなどを命じてさせるのもまた苦しいこと であった。空を歩くような気持ちを覚えて薫は葬場へ行ったのであるが、火葬の煙さえも多く は立たなかったのにはかなさをさらに感じて山荘へ帰った。
 忌籠りする僧の数も多くて、心細さは少し慰むはずであったが、中の君はだれにもだれにも 先立たれた不幸な女として人から見られるのすら恥ずかしいと思い沈んでいて、この人も生き た姫君とは思われないほどであった。兵部卿の宮からも御慰問の品々が贈られたのであるが、 恨めしいと思い込んだ姉君の気持ちを、ついに緩和させずじまいになされた方だと思うと、中 の君はお受けしてうれしいとは思わなかった。
 中納言は人生の悲しみを切実に味わった今度のことを機会に、出家したいと思う心はあるの であるが、三条の母宮の思召しもはばかられ、それとこの中の君の境遇の心細さは見捨てられ ないものに思わわて煩悶をしながら、故女王の言ったとおりに、短命で死ぬ人の代わりに中の 君を娶るのもよかった、自分の身を分けた同じものに思えと言われても、恋の相手を変える気 にその当時の自分はなれなかった、こんな孤独の人にして物思いをさせるのであったなら、故 人を忍ぶ相手として二人で語り合う身になっておればよかったのであるとも思った。かりそめ にも京へ出ることをせず、物思いをしてこもっていることを知って、世間の人も故人を薫が深 く愛していたことを知り、宮中をはじめとして諸方面からの慰問の使いが山荘を多く訪れた。
 女王の歿後の日はずんずんとたっていく。七日七日の法要にも尊いことを多くして志の深い
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弔いを故人のために怠らぬ源中納言も、妻を失った良人でないため喪服は着けることのできな いため、ことに大姫君を尊敬して仕えた女房らの濃い墨染めの袖を見ても、
  くれなゐに落つる涙もかひなきはかたみの色を染めぬなりけり
 こんなことがつぶやかれ、浅い紅の下の単衣の袖を涙に濡らしているこの人は、あくまで艶 できれいであった。女房たちがのぞきながら、
 「姫君のお亡れになった悲しみは別として、この殿様がこちらにずっとおいでくださいます ことに私たちはもう馴らされていて、忌が済んでお帰りになることを思うと、お別れが惜しく て悲しいではありませんか。なんという宿命でしょう。こんなに真心の深い方をお二方とも御 冷淡になすって、御縁をお結びにならなかったとはね」
 とも言って泣き合っていた。
 「こちらの姫君をあの方のお形見とみなして、今後はいろいろ昔の話を申し上げ、また承り もしたいと思うのです。他人のように思召さないでください」
 と薫は中の君へ言わせたが、すべての点で自分は薄命な女であると思う心から恥じられて、 中の君はまだ話し合おうとはしなかった。この女王のほうはあざやかな美人で、娘らしいとこ ろと、気高いところは多分に持っていたが、なつかしい柔らかな嫋々たる美というものは故人 に劣っていると事に触れて薫は思った。
 雪の暗く降り暮らした日、終日物思いをしていた薫は、世人が愛しにくいものに言う十二月
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の月の冴えてかかった空を、御簾を巻き上げてながめていると、御寺の鐘の声が今日も暮れた とかすかに響いてきた。
  おくれじと空行く月を慕ふかな終ひにすむべきこの世ならねば
 風がはげしくなったので、揚げ戸を皆おろさせるのであったが、四辺の山影をうつした宇治 川の汀の氷に宿っている月が美しく見えた。京の家の作りみがいた庭にもこんな趣きは見がた いものであるがと薫は思った。病体にもせよあの人が生きていてくれたならば、こんな景色も 共にながめて語ることができたであろうと思うと、悲しみが胸から外へあふれ出すような気が した。
  恋ひわびて死ぬる薬のゆかしきに雪の山には跡を消なまし
 死を求める雪山童子が鬼に教えられた偈の文も得たい、それを唱えてこの川へ身を投げ、亡 き人に逢おうと薫が思ったというのは、あまりに未練な求道者というべきである。
 中納言は女房たちを皆そばへ呼び集めて、話などをさせて聞いていた。様子のりっぱである ことと、親切な性情を知っている女たちであるから、その中の若い人らは身にしむほどの思い で好意を持った。老いた人たちは薫を見ることによっても故人が惜しまれてならなかった。
 「御病気の重くなりましたのも、兵部卿の宮様のお態度に失望をなさいまして、世間体も恥 ずかしいとお思いになりますのを、さすがに中の君様には、それほどにまで思召すとはお隠し
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になりまして、ただお一人心の中でだけ世の中を悲観し続けていらっしゃいますうちに、お食 欲などもまるでなくなっておしまいになりまして、御衰弱に御衰弱が重なってまいったようで ございます。表面には物思いをあそばすふうをお見せにならずに、深く胸の中で悩んでいらっ しったのでございます。それに中の君様に結婚をおさせになりましたことは父宮様の御遺戒に もそむいたことであったと、いつもそれをお心の苦になさいましたのでございますよ」
 こんなことを言って、いつの時、いつかこうお言いになったことがあるなどと大姫君のこと を語って、だれもだれも際限なく泣いた。自分の計らいが原因して苦しい物思いを故人にさせ たと、あやまちを取り返しうるものなら取り返したく思って薫は聞いたのであって、恋人の死 そのものだけでなく、すべての人生が恨めしく、念誦を哀れなふうにしていて、眠りについた かと思うとまたすぐに目ざめていた。
 この早朝の雪の気の寒い時に、人声が多く聞こえてきて、馬の脚音さえもした。こうした未 明に雪を分けてだれも山荘へ近づくはずがないと僧たちもそれを聞いて思っていると、それは 目だたぬ狩衣姿で兵部卿の宮が訪ねておいでになったのであった。ひどく衣服を濡らしてはい っておいでになった。妻戸をおたたきになる音に、宮でおありになろうことを想像した薫は、 蔭になったほうの室へひそかにはいっていた。まだ女王の忌の日が残っているのであるが、心 がかりに堪えぬように思召して、一晩じゅう雪に吹き迷わされになりながらここへ宮はお着き になったのである。こんな悪天候をものともあそばさなかった御訪問であったから、恨めしさ も紛らされていってもいいのであろうが、中の君は逢ってお話をする気にはなれなかった。宮
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の御誠意のなさに姉を煩悶させ続けていたころの恥ずかしかったこと、その気持ちを直させる こともしていただけなかったのであるから今になって真心をつくしてくださることになっても、 もうおそい、かいがないと深く中の君は思うのであって、女房のだれもが道理を説いて勧めた 結果、ようやく物越しでお逢いすることになり、宮は今までの怠りのお言いわけをあそばすの であるが、ただじっと聞き入っているばかりの中の君で、この人さえも、あるかないかのよう な心細い命の人と思われ、続いてどうかなるのではあるまいかと思われる気配も見えるのを、 宮はお悲しみになって、今日は何事も犠牲にしてよいという気におなりになりお帰りにならな いことになった。物越しなどでなく、直接に逢いたいと宮はいろいろお訴えになるのであった が、
 「もう少し人ごこちがするようになっているのでしたら」
 と言い、女王はいなみ続けていた。
 このことを薫も聞いて、中の君へ取り次がすのに都合のよい女房を呼んで、
 「こちらの真心に対してあさはかにも見える態度を、初めもその後もおとりになった宮を不 快にお思いになるのはもっともですが、今少し情状を酌量になって、反感をお起こしにならぬ 程度にお扱いになるがよろしい。今まで御経験のなかったためにお苦しいでしょうが」
 などと忠告をさせた。それを聞いた中の君は薫の思うことも恥ずかしくて、いよいよ宮のお 話にお答えを申し上げる気になれなくなった。
 「あなたはどうしてこんなに気が強いのでしょう。前にあんなに私の心持ちも、周囲の事情
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もお話ししておいたではありませんか。それを皆お忘れになったのですか」
 とお言いになり、宮は一日をお歎き暮らしになった。夜になるといっそう天気が悪くなり、 ますます吹きつのる風の音を聞きながら、寂しい旅寝の床に歎き続けておいでになるのもさす がにおいたましく思われて、女王はまた物越しでお話を聞くことにした。無数の神を証に立て て、今からの変わりない愛をお語りになるのを、女王は、どうしてこんなに女へお言いになる ことに馴れておいでになるのであろうといやな気もするのであるが、遠く離れていてうとまし く思うのとは違って、すぐれた御容姿の方が、自分のために悲しんでおいでになるのを見ては、 心も動かずにはいないのであった。ただ聞くばかりであったが、
  きしかたを思ひいづるもはかなきを行く末かけて何頼むらん
 と、はじめてほのかな声で言った。なお飽き足らず思召す宮であった。
 「行く末を短きものと思ひなば目の前にだにそむかざらなん
 すべてはかない人生にいて、人をお憎みになるような罪はお作りにならないがいいでしょ う」
 ともお言いになり、いろいろとおなだめになったが、
 「私は気分もよろしくないのでございますから」
 中の君はこう言って奥へはいってしまった。人目も恥ずかしいように思召し、そのまま歎息
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を続けて宮は夜をお明かしになった。女の恨むのも道理なほどの途絶えを作ったのは自分であ るが、あまりに無情な扱い方であると恨めしい涙の落ちてきた時に、ましてそのころの彼女は どれほどに煩悶して涙の寒さを感じたことであろうと、お思われになって、これが過去をお顧 みさせることになった。
 中納言が主人がたの座敷に住んでいて、どの女房をも気安いふうに呼び使い、みずから指図 をしながら宮へ朝餐を差し上げたりさせるのを御覧になって、恋人を失ったあとのこの人の生 活を気の毒にもお思いになり、趣のあることとも御覧になった。顔色もひどく青白くなり、痩 せてぼんやりとしたところも見えるほど物思いにやつれているふうも心苦しく宮は思召して、 真心から御慰問の言葉をお告げになった。恋人の死の前後の悲しい心の動揺を今さら言いだし ても効のないことではあるが、だれよりもこの方に聞いていただきたい自分であることを薫は 知りながら、言いだせば自分の弱さがあらわになり、一つのことを思いつめる頑固男とお思わ れすることがはばかられて、言葉少なにしていた。日々泣き暮らしている人であったから、顔 変わりがしたのも見苦しくはなくて、いよいよ清楚で艶なのを宮は御覧になり、女であれば、 たとえ中の君などでも必ずこの人に心が移るであろうと、御自身の多情なお心からそんな想像 もされるようになった宮は、なんとなくその点がお気がかりになり、どうかしてはるかな途を 通い歩くという譏りも避け、中の君の恨みを除かせもするために京へ移したいとお思いになる ようになった。
 こんなふうに恋人の心は容易に打ち解けるとは見えないし、今一日をここにいることは御所
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でも悪く思召すことであろうこともお心に上るのであったから、宮はお帰りになろうとした。
 真心を尽くして恋人の心を動かそうと宮はお努めになったのであるが、相手の冷淡であるこ とは苦しいものであると、この一点をお思い知らせようとして、この朝も何の言葉も送らずに 中の君は宮をお帰ししたのであった。
 年末になればこうした山里でなくても晴れる日は少ないのであるから、まして宇治は荒れ 日和でない日もなく雪が降り積もる中に、物思いをしながらも暮らしている薫は、いつまでも 続く夢を見ているようであった。総角の姫君の四十九日の法会も盛んに薫の手で行なわれた。
 このまま新年までも閉じこもっていることはできぬ、御母宮を初めとして自分を長くお待ち になっている所々があるのであるからと思い、いよいよ引き上げようとする薫はまた新たな深 い悲しみを覚えた。ずっとこの人が来て住んでいたために、出入りする人の多かった忌中に続 いた生活が跡かたもなく消えていくことを寂しがる人々は、姫君の死の当時にもまさって悲し がった。以前間をおいて訪ねて来たころの交情にもまさり、長く居ついていた忌中に仕え馴れ た薫の情味の深さ、精神的なことから物質的なことにまで及ぶ思いやりの多いこの人を今日か ぎりに送り出すのかと女房たちは歎きにおぼれていた。
 兵部卿の宮からは、
 お話ししたように、そちらへ出向くことにいろいろ困難なことがあるため、私は心を苦しめ
 ておりましたが、ようやくあなたを近日京へ迎える方法が見つかりました。
 というお手紙が中の君へあった。
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 中宮が宇治の女王との関係をお知りになって、その姉君であった恋人を失った中納言もあれ ほどの悲しみを見せていることを思うと、並み並みの情人としてはだれも思われないすぐれた 女性なのであろうと、兵部卿の宮のお心持ちに御同情をあそばして、二条の院の西の対へ迎え て時々通うようにとそっと仰せがあったのである。女一の宮に高貴な侍女をお付けになりたい と思召す心から、それに擬しておいでになるのではあるまいかと兵部卿の宮はお思いになりな がらも、近くへその人を置いて、常にお逢いになることのできるのはうれしいことであると思 召して、この話を薫にもあそばされた。三条の宮を落成させて大姫君を迎えようとしていた自 分であるが、その人の形見にせめてわが家の人にしておきたかった中の君であったと、このこ とでまた心細くなる気もする薫であった。宮の疑っておいでになるような感情はまったく捨て て、その人の保護者は自分のほかにないと、兄めいた義務感を持っているのであった。


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