源氏物語解体新書

〜視覚と嗅覚の深淵な世界から〜

上田 裕一・上田 英代

第3章 藤壺への思慕から不倫への変遷

はじめに

谷崎は藤壺という心に思う人がありながら空蝉や軒端の荻や夕顔などに手を出すような男は解せないと「にくまれ口」をたたいているのであるから、光源氏にとって藤壺はいかなる女性であったかを明確にして反論するのが正論である。恋心の薄い相手なら手当たり次第に他の女と関係を持ってもおかしくはない。が現在の解釈では恋焦がれて道ならぬ肉体関係となったとされているので通常の解釈では谷崎の言うとおりとなる。いくら当時の男女関係から説明するにしても人間心理として光源氏の行動が男性にとって普遍性を持つとは考えられない。谷崎のにくまれ口は至極当然である。
 それでは、藤壺との道ならぬ関係が明確にされているかというと実は本文には書かれて居ない。桐壺巻と帚木巻の間で関係を結んだと推測されているが、もし其の事実が帚木・空蝉・夕顔巻の後だとしたら谷崎もある程度は許容するであろう。また光源氏と藤壺の関係が桐壺の巻ではハッキリと母に似ているといわれているから母親を慕う感情に近い関係で、父君が藤壺に通うときも連れていくのでマザコンの対象になり、5歳違いの腹違いの姉に淡い恋をする程度の初恋の相手となり、そして道ならぬ関係を持ってしまった、という流れである。物語としてこの流れを読み取れれば谷崎の理解も得られよう。
 この時、男女関係は深化してしまえば、通常はその前段階の関係(感情)にはもどらないが、果たして現行の源氏物語の巻順で読んで証明されるであろうか、詳細に検討する必要がある。

本文に添って検討していく。
 

(1)桐壺 実母に似ている故の親しみ、思慕の情、恋心

桐壺の更衣が亡くなったあと、藤壺は
  桐壺(①-041-09〜①-043-06)にて、先帝の四の宮と紹介され、典侍(ないしのすけ)をして、
①-042-02 「亡せたまひにし御息所の御容貌に似たまへる人」 と帝に奏することにより入内させられる。これがきっかけであり源氏とのかかわりを生じさせ物語の発端となる。源氏自身も次段で、母親に似ていると言われる人なので
①-043-14 「常に参らまほしく、なづさひ見たてまつらばや」 と願う。まさに実子が母親に会いたがる表現がされている。
①-044-03又、桐壺帝も、さける藤壺に、 「いとよう似たりしゆゑ」 と源氏の思いを裏打ちする。そして、源氏の母親への思慕の情から、
①-044-05 「幼心地にも、はかなき花紅葉につけても心ざしを見えたてまつる」 を介して
①-044-06 「こよなう心寄せきこえたまへれば」 と淡い初恋の精へと深化が感じられる。この様に解するとき、
①-043-08 「え恥ぢあへたまはず」は、藤壺にとっても源氏は恋の対象者として将来を実感するが故の、恥かしさであり
①-044-11の 「光る君」 と、①-044-12 「かかやく日の宮」 の対比が生きてくるのである。
①-049-03 「藤壺の御ありさまを」 「たぐひなし」 と思うし、そして
①-049-04 「さやうならむ人をこそ見め、似る人なく」 と感じる程度であるが、初恋の相手としてなかば認識され、
①-049-07 「いと苦しきまでぞおはしける」状態へと進展・深化してしまう。
①-049-09  ほのかなる御声を慰めにて
①-050-05  かかる所に、思ふやうならむ人を据ゑて住まばや となると、初恋の対象以上に据えての生活であるから男女関係を前提とした関係をも考える源氏となっている。だが道ならぬ関係に進んでいるとは本文からも推測できない。  

(2)帚木 好き者

 桐壺の巻に続く3帖には、藤壺に関する記載が全くない。そればかりか桐壺の巻の出だし文とまったく趣の違う文体で
光源氏の名前事体が大袈裟でトガごとなども消されてしまうことも多いし、スキ者の浮名を何とか引き継いで流すやからもいる。だけど交野の少将に比すれば笑われてしまう程度の軽いものである。などと浮気者、好き者の光源氏に変化させようとする。
①-053-01 光る源氏、名のみことごとしう、言ひ消た
①-053-02 れたまふ咎多かなるに、いとど、かかるす
①-053-03 き事どもを末の世にも聞きつたへて、軽び
①-053-04 たる名をや流さむと、忍びたまひける隠ろへごとをさへ語り
①-053-05 つたへけん人のもの言ひさがなさよ。
①-053-05 さるは、いといたく世
①-053-06 を憚りまめだちたまひけるほど、なよびかにをかしきことは
①-053-07 なくて、交野の少将には、笑はれたまひけむかし。
①-053-08  まだ中将などにものしたまひし時は、内裏にのみさぶらひ
①-053-09 ようしたまひて、大殿には絶え絶えまかでたまふ。忍ぶの乱
①-053-10 れや、と疑ひきこゆるこたもありしかど、さしもあだめき目
①-053-11 馴れたるうちつけのすきずきしさなどは好ましからぬ御本
①-053-12 性にて、まれには、あながちにひき違へ心づくしなることを
①-054-01 御心に思しとどむる癖なむあやにくにて、さるまじき御ふる
①-054-02 まひもうちまじりける。

 決して、桐壺の巻の藤壺との初恋感情を進展させていない。やや不真面目的な遊びごとも出来ますよの紹介となっている。その後に雨夜の品定めが展開していく。
 和辻氏は、 帚木〜夕顔の三帖を詳細に検討し、桐壷ー帚木間の流れの不自然さを指摘した。初巻 桐壷の巻では、「光源氏は、いかなる意味でも好色」であることは知らされていない にもかかわらず、帚木冒頭では、「突如として有名な好色人」とされている。本居宣長によれば「この語は源氏物語の序のごときである。源氏壮年の情事を総括して評した語である。」とされるが、「しかし彼は、この洞察を果実多きものとするだけの追求の欲を欠いていた。」この発端(帚木冒頭部分)は、「読者がすでに『好色人としての光源氏』を他の物語、あるいは伝説によって知っているか、あるいは作者がその主人公を『好色人として有名でありながら実はまじめであった人』にしたいと考えたか、いずれかでなくてはならぬ」とした。
 和辻哲朗と谷崎潤一郎は物語の不連続性を異なった視点で論証しているのであって、源氏の不真面目さもなければ、藤壺との不倫もない。帚木、空蝉、夕顔の巻では藤壺は無縁である。
 ところが、桐壺の巻以後で源氏とのたった一度の密会(本文には書かれて居ないが桐壺と帚木の間頃か)のことを思い悩んでいた。(三谷栄一編 源氏物語辞典 320P)とされる。桐壺との連続性が疑われるのに藤壺との不倫すら行われていたとすると、冒頭文ですら薄っぺらな紹介となってしまう。「交野の少将には、笑はれたまひけむ」程度の好色性ではすまず、「交野の少将には、ギョッとさせた」内容で、「さるまじき御ふるまひもうちまじりける。」をはるかに越えた不倫関係となる。すなわちこの冒頭文からすると源氏と藤壺の不倫関係は未成立でせいぜい思慕の情程度である。
 この後、聞き置き給へる娘、朝顔、空蝉、軒端の荻、夕顔、六条御息所は登場するが、藤壺に関係する内容はまったく書かれていない。故にこれまでの桐壺と帚木の間頃かとされる源氏とのたった一度の密会を前提とした解釈は成立しがたい。

 

(3)若紫 恋心

 源氏が「わらわ病」を、北山の聖僧のもとに行って加持をし、その夕方外に出て小柴垣の僧房で経を読んでいる40過ぎの尼君のもとで遊んでいる若紫を垣間見た。

①-206-07 中に、十ばかりやあらむと見えて、白き衣、山吹などの萎え
①-206-08 たる着て走り来たる女子、あまた見えつる子どもに似るべう
①-206-09 もあらず、いみじく生ひ先見えてうつくしげなる容貌なり。
①-206-10 髪は扇をひろげたるやうにゆらゆらとして、顔はいと赤くす
①-206-11 りなして立てり。

周りの子供たちとは違って、さらに生い先の美しさを予定する容貌で目に付き

①-207-10  つらつきいとらうたげにて、眉のわたりうちけぶり、いは
①-207-11 けなくかいやりたる額つき、髪ざしいみじううつくし。ねび
①-207-12 ゆかむさまゆかしき人かな、と目とまりたまふ。さるは、限
①-207-13 りなう心を尽くしきこゆる人にいとよう似たてまつれるがま
①-207-14 もらるるなりけり、と思ふにも涙ぞ落つる。

ここを与謝野晶子は
なぜこんなに自分の目がこの子に引き寄せられるのか、それは恋しい藤壺の宮によく似ているからであると気がついた刹那にも、その人への思慕の涙が熱く頬を伝わった。
と訳している。
 思慕の涙との意訳は 藤壺と「不倫関係ありとしている」のか、まだ「道ならぬ恋」でとどまっているのか定かでない。
限りなう心を尽くしきこゆる人
であるから、不倫関係は意味していない。だから落ちる涙は思慕の情たっぷりの涙と訳してしまったのであろう。また、文学者の池田勉(P.46)も思慕の情としている。

①-209-10  あはれなる人を見つるかな、かかれば、このすき者どもは、
①-209-11 かかる歩きをのみして、よくさるまじき人をも見つくるなり
①-209-12 けり、たまさかに立ち出づるだに、かく思ひの外なることを
①-209-13 見るよ、とをかしう思す。さても、いとうつくしかりつる児
①-209-14 かな、何人ならむ、かの人の御かはりに、明け暮れの慰めに
①-209-15 も見ばや、と思ふ心深うつきぬ。

この一文も不倫を否定しているととれる。
たまさかに立ち出づるだに、かく思ひの外なることを見るよ、とをかしう思す。
不倫関係まで進んでいて、将来は藤壺に似る女性をたまさか見つけるように、彼等も同じような経験をすること有りと「をかしう」思すことはできない。胸に突き刺さるが如くで心が痛むはずである。不倫関係がすでに成立しているとすると光源氏には不倫の感情が欠如していることになる。そして
かの人の御かはりに、明け暮れの慰めにも見ばや、と思ふ心深うつきぬ
は、不倫関係前の桐壺の巻の
かかる所に、思ふやうならむ人を据ゑて住まばや
と同列の感情表現で不倫関係が成立していない恋焦がれの思慕の情である。
とすると、桐壺の巻の終わりから、帚木の巻の冒頭そして若紫の巻のこの部分までは不倫関係ではないことになる。
 

(4)不倫から出産までの期間の検討から

 藤壺は紅葉の賀の巻で、2月10余日に冷泉帝を御出産している。

①-325-06 日のほどに、男皇子生まれたまひぬれば、なごりなく内裏に

 受精日を逆算すると前年の5月20日以降となる。源氏18歳の5月に藤壺と不倫を行ったはずである。帚木の巻では源氏は17歳とされその5月雨の夜品定めをしている。桐壺の巻以後で源氏とのたった一度の密会(本文には書かれて居ないが桐壺と帚木の間頃か)とする説は成り立たない。谷崎もこの生理現象に着目すれば自ら感じた違和感の一旦は解消されたはずである。典型的な年齢不一致は六条御息所で生じており周知の事実である。後期挿入では入れ込めばその間の日時が加算されるので挿入以前の年齢差が広がってしまうのである。とすると、3.若紫の巻 恋心までの検討は当を得たものとなる。この後で後期挿入がされ不倫関係を形成したと考えられる。従来から、
①-230-11 藤壺の宮、なやみたまふこと から妊娠3ヶ月、
①-234-10 七月になりてぞ参りたまひける。
①-235-02 多く思しつづけけり。
までが不倫関係を表現しているとされている。紫式部の行う後期挿入はすでに書いたところの曖昧な部分から接着部分を粘着させ新たな内容を展開していく手法である。以下で後期挿入を推測していく。
[若紫 ①-230-11〜①-231-02][朝日古典15-1]
①-230-11 藤壼の宮、なやみたまふことありて、まか
①-230-12 でたまへり。上のおぼつかながり嘆ききこ
①-230-13 えたまふ御気色も、いといとほしう見たて
①-230-14 まつりながら、かかるをりだにと心もあくがれまどひて、い
①-230-15 づくにもいづくにもまうでたまはず、内裏にても里にても、
①-231-01 昼はつれづれとながめ暮らして、暮るれば王命婦を責め歩き
①-231-02 たまふ。
 で曖昧な部分は「なやみたまふことあり」、「責め歩き」である。
曖昧だからといって、不倫関係を悩んでいるとは思えない。そして責め歩きも「藤壺に会わせてくれ」程度であろう。だから帝も「おぼつかながり嘆」様が、源氏にとっても「いとほしう」みえるので、すでに不倫を行っていれば「いとほしう」位の感情には到底ならない。さらに性関係を結んでいたとすれば「心もあくがれまどひて」という表現にはならない。まさに何とかして会いたいという恋心の段階である。
[若紫 ①-231-02〜①-232-06][朝日古典15-2]
①-231-02 たまふ。いかがたばかりけむ、いとわりなくて見たてまつる
①-231-03 ほどさへ、現とはおぼえぬぞわびしきや。宮もあさましかり
①-231-04 しを思し出づるだに、世ととももの御もの思ひなるを、さてだ
①-231-05 にやみなむと深う思したるに、いと心憂くて、いみじき御気
①-231-06 色なるものから、なつかしうらうたげに、さりとてうちとけ
①-231-07 ず心深う恥づかしげなる御もてなしなどのなほ人に似させた
①-231-08 まはぬを、などかなのめなることだにうちまじりたまはざり
①-231-09 けむと、つらうさへぞ思さるる。
①-231-10  何ごとをかは聞こえつくしたまはむ、くらぶの山に宿もと
①-231-11 らまほしげなれど、あやにくなる短夜にて、あさましうなか
①-231-12 なかなり。
①-231-13  (源氏)見てもまたあふよまれなる夢の中にやがてまぎるる
①-231-14  わが身ともがな
①-231-15 とむせかへりたまふさまも、さすがにいみじければ、
①-232-01   (藤壼)世がたりに人や伝へんたぐひなくうき身を醒めぬ夢
①-232-02   になしても
①-232-03 思し乱れたるさまも、いとことわりにかたじけなし。命婦の
 「責め歩き」から「いかがたばかりけむ」と騙しの意味を持たせ、「なやみたまふことありて」の内容を「あさましかりしをおぼし出づる」に変更して行った。だがまだ不倫関係とは明言していない。和歌の応答も夜な夜なあって恋心を吐露しただけとも取れるが、

[若紫 ①-232-03〜①-232-06][朝日古典15-3]
①-232-03 思し乱れたるさまも、いとことわりにかたじけなし。命婦の
①-232-04 君ぞ、御直衣などはかき集めもて来たる。
①-232-05 殿におはして、泣き寝に臥し暮らしたまひ
①-232-06 つ。御文なども、例の御覧じ入れぬよし
で不倫関係があってもおかしくない状態とする
御直衣などはかき集めもて来たる
とはいかなることを意味するのか?藤壺と源氏は話しただけか、性関係はあったのか不明瞭である。だが現在は、過去1回は性関係があったが、今回はないとされている。
与謝野晶子は
源氏の上着などは王命婦がかき集めて寝室の外へ持ってきた。
と訳しているが、性関係には踏み込んでいない。「寝室の外」ならば寝室で脱いだことになる。とすると性関係を思わせていると解釈できる。新解釈である。

[若紫 ①-232-06〜①-233-01][朝日古典16-1]
①-232-06 つ。御文なども、例の御覧じ入れぬよし
①-232-07 のみあれば、常のことながらも、つらうい
①-232-08 みじう思しほれて、内裏へも参らで二三日籠りおはすれば、
①-232-09 また、いかなるにかと御心動かせたまふべかめるも、恐ろし
①-232-10 うのみおぼえたまふ。
①-232-11  宮も、なほいと心憂き身なりけりと思し嘆くに、なやまし
①-232-12 さもまさりたまひて、とく参りたまふべき御使しきれど思し
①-232-13 も立たず。まことに御心地例のやうにもおはしまさぬはいか
①-232-14 なるにかと、人知れず思すこともありければ、心憂く、いか
①-232-15 ならむとのみ思し乱る。暑きほどはいとど起きも上がりたま
①-233-01 はず。

 この段も、「なやましさもまさりたまひて、 とく参りたまふべき御使しきれど思しも立たず。」であるから分けもわからぬからだの不調でいつ参内できるか決められない。だが「いかなるにか、と人知れず思すこともあり」で無理やり「三月になり給へば、」と望まぬ妊娠による体の不調としている。
 与謝野晶子はここを
御妊娠が三月であるから女房たちも気がついてきたようである。
と訳している。

[若紫 ①-233-01〜①-234-09][朝日古典16-2]
①-233-01 三月になりたまへば、いとしるきほどにて、人々見た
①-233-02 てまつりとがむるに、あさましき御宿世もほど心憂し。人は
①-233-03 思ひよらぬことなれば、この月まで奏せさせたまはざりける
①-233-04 ことと驚ききこゆ。わが御心ひとつには、しるう思し分くこ
①-233-05 ともありけり。御湯殿などにも親しう仕うまつりて、何ごと
①-233-06 の御気色をもしるく見たてまつり知れる御乳母子の弁、命婦
①-233-07 などぞ、あやしと思へど、かたみに言ひあはすべきにあらね
①-233-08 ば、なほのがれがたかりける御宿世をぞ、命婦はあさましと
①-233-09 思ふ。内裏には御物の怪のまぎれにて、とみに気色なうおは
①-233-10 しましけるやうにぞ奏しけむかし。見る人もさのみ思ひけり。
①-233-11 いとどあはれに限りなう思されて、御使などのひまなきもそ
①-233-12 ら恐ろしう、ものを思すこと隙なし。
①-233-13  中将の君も、おどろおどろしうさま異なる夢を見たまひて、
①-233-14 合はする者を召して問はせたまへば、及びなう思しもかけぬ
①-233-15 筋のことを合はせけり。(占者)「その中に違ひ目ありて、つつ
①-234-01 しませたまふべきことなむはべる」と言ふに、わづらはしく
①-234-02 おぼえて、「みづからの夢にはあらず、人の御事を語るなり。
①-234-03 この夢合ふまで、また人にまねぶな」とのたまひて、心の中
①-234-04 には、いかなることならむと思しわたるに、この女宮の御事
①-234-05 聞きたまひて、もしさるやうもやと思しあはせたまふに、い
①-234-06 とどしくいみじき言の葉尽くし聞こえたまへど、命婦も思ふ
①-234-07 に、いとむくつけうわづらはしさまさりて、さらにたばかる
①-234-08 べき方なし。はかなき一行の御返りのたまさかなりしも絶え
①-234-09 はてにたり。

 すでに書かれていた「すこしふくらかになり」を休んでいたからチョッとふっくらとしたとの意味合いを、妊娠によるものと意味内容を変えている。そして「7月」は季節なのか、妊娠7ヶ月なのかのどちらであろう。

与謝野晶子は
初秋の七月になって宮は御所へおはいりになった。
と今回は季節と解釈している。さらに、少しお腹がふっくりとなって悪阻の 悩みに顔の少しお痩せになった宮のお美しさは、としっかりと妊娠・悪阻と意訳している。だが 「げに似るものなくめでたし」とは感覚的に会わない。妊娠ではなく普通の体調の悪さで里帰りして、回復してきて少しふっくらとしたが、まだ面痩せが残っているが、似るものもなく美しいという情感のほうが続けての本文で「御遊びもやうやうおかしき空なれば」、「御琴、笛などさまざまに仕うまつらせ給ふ」
が生きてくる。妊娠中で悪阻の状態なら御遊びも御琴、笛など却って煩わしいはずである。

[若紫 ①-233-10〜①-235-02][朝日古典16-3]
①-234-10  七月になりてぞ参りたまひける。めづらしうあはれにて、
①-234-11 いとどしき御思ひのほど限りなし。すこしふくらかになりた
①-234-12 まひて、うちなやみ面痩せたまへる、はた、げに似るものな
①-234-13 くめでたし。例の、明け暮れこなたにのみおはしまして、御
①-234-14 遊びもやうやうをかしき空なれば、源氏の君もいとまなく召
①-234-15 しまつはしつつ、御琴笛などさまざまに仕うまつらせたまふ。
①-235-01 いみじうつつみたまへど、忍びがたき気色の漏り出づるをり
①-235-02 をり、宮もさすがなることどもを多く思しつづけけり。

 この後、若紫の巻では光源氏の若紫囲い込みにいたる流れが書かれているだけで、藤壺との道ならぬ関係に悩みも、進展もない。つまり藤壺不倫の話は挿入であってもとから構想されたものではないはずである。
現在までの検討では
 [若紫 ①-230-11〜①-231-02][朝日古典15-1]→
 [若紫 ①-232-06〜①-233-01][朝日古典16-1]→
 [若紫 ①-233-10〜①-235-02][朝日古典16-3]と書かれたあとで、
後期挿入され
 [若紫 ①-230-11〜①-231-02][朝日古典15-1]→
 [若紫 ①-231-02〜①-232-06][朝日古典15-2]→
 [若紫 ①-232-06〜①-233-01][朝日古典16-1]→
 [若紫 ①-233-01〜①-234-09][朝日古典16-2]→
 [若紫 ①-233-10〜①-235-02][朝日古典16-3]
 となったと解釈する。
若紫の巻には、良清が「播磨の明石の浦こそ」と紹介する節も後期挿入であるが、詳細は「明石の君論」で論じる。

(5)末摘花 恋心

①-277-01  瘧病にわづらひたまひ、人知れぬもの思ひのまぎれも、御
①-277-02 心の暇なきやうにて、春夏過ぎぬ。
①-277-03 秋のころほひ、静かに思しつづけて、

と藤壺を思う光源氏の様相があるが、不倫や懐妊があったらなんだかんだと考える暇なくて春夏過ぎるとの表現は不適切である。

(6)紅葉賀 不倫・妊娠とは無縁で行動的恋心

①-311-01 朱雀院の行幸は神無月の十日あまりなり。
①-311-02 世の常ならずおもしろかるべきたびのこと
①-311-03 なりければ、御方々物見たまはぬことを口
①-311-04 惜しがりたまふ。上も、藤壼の見たまはざらむをあかず思さ
①-311-05 るれば、試楽を御前にてせさせたまふ。

 10月であるから藤壺は6ヶ月の妊婦である。従来の解釈では8ヶ月。どちらであっても外見的には妊婦そのものであり体もつらいはずである。それに対する配慮の表現なく藤壺の御前で源氏が舞う青海波を鑑賞させる。

①-312-08 若き女房などは、心憂しと耳とどめけり。藤壼は、おほけな
①-312-09 き心のなからましかば、ましてめでたく見えましと思すに、
①-312-10 夢の心地なむしたまひける。

「おほけなき心のなからましかば」を脚注では<身分不相応な、畏れ多い、恋心が、もしなければ>、与謝野晶子は<自分にやましい心がなかったなら>と訳している。ということは、不倫関係に発展する前の強い恋心のレベルとされる。

①-312-11〜①-312-14 まではその恋心のレベルがよく表現されている。

①-316-02 宮は、そのころまかでたまひぬれば、例の、
①-316-03 隙もやとうかがひ歩きたまふを事にて、

藤壺が里帰りして、再びお伺いすることができるかと源氏がスキを狙っているので不倫までは行っていない。
①-318-05 藤壼のまかでたまへる三条宮に、御ありさ
①-318-06 まもゆかしうて、参りたまへれば、命婦、
①-318-07 中納言の君、仲務などやうの人々対面した
①-318-08 り。けざやかにももてなしたまふかなとやすからず思へど、
①-318-09 しづめて、おほかたの御物語聞こえたまふほどに、兵部卿

 藤壼の宮の自邸である三条の宮へ、様子を知りたさに源氏が行くと王命婦、中納言の君、中務などという女房が出て応接した。源氏はよそよそしい扱いをされることに不平であったが自分をおさえながらただの話をしている (与謝野晶子)。源氏は藤壺を里帰り中に見舞えること、そして深い関係に導いた王命婦とその他の宮の女房たちが光源氏の行為に毛嫌いはしていないことで不倫関係を前提としての負の感情はない。

①-318-10 宮参りたまへり。この君おはすと聞きたまひて、対面したま
①-318-11 へり。いとよしあるさまして、色めかしうなよびたまへるを、
①-318-12 女にて見むはをかしかりぬべく、人知れず見たてまつりたま
①-318-13 ふにも、かたがた睦ましうおぼえたまひて、こまやかに御物
①-318-14 語など聞こえたまふ。宮も、この御さまの常よりことになつ
①-318-15 かしううちとけたまへるを、いとめでたしと見たてまつりた
①-319-01 まひて、婿になどは思しよらで、女にて見ばやと色めきたる
①-319-02 御心には思ほす。

 兵部卿の宮と源氏の対面も不倫のわだかまりがない。

①-319-02 御心には思ほす。暮れぬれば御簾の内に入りたまふを、うら
①-319-03 やましく、昔は上の御もてなしに、いとけ近く、人づてなら
①-319-04 でものをも聞こえたまひしを、こよなう疎みたまへるもつら
①-319-05 うおぼゆるぞわりなきや。

夜になると兵部卿の宮は女御の宮のお座敷のほうへはいっておしまいになった。源氏はうらやましくて、昔は陛下が愛子としてよく藤壼の御簾の中へ自分をお入れになり、今日のように取り次ぎが中に立つ話ではなしに、宮口ずからのお話が伺えたものであると思うと、今の宮が恨めしかった。

①-319-05 うおぼゆるぞわりなきや。(源氏)「しばしばもさぶらふべけれ
①-319-06 ど、事ぞとはべらぬほどはおのづから怠りはべるを、さるべ
①-319-07 きことなどは、仰せ言もはべらむこそうれしく」など、すく
①-319-08 すくしうて出でたまひぬ。

 「たびたび伺うはずですが、参っても御用がないと自然怠けることになります。命じてくださることがありましたら、御遠慮なく言っておつかわしくださいましたら満足です」などと堅い挨拶をして源氏は帰って行った。
ここにも不倫の雰囲気はかもし出されていない。

①-319-08 すくしうて出でたまひぬ。命婦もたばかりきこえむ方なく、
①-319-09 宮の御気色も、ありしよりはいとどうきふしに思しおきて、
①-319-10 心とけぬ御気色も恥づかしういとほしければ、何のしるしも
①-319-11 なくて過ぎゆく。はかなの契りやと思し乱るること、かたみ
①-319-12 に尽きせず。

ここを与謝野晶子は
 王命婦も策動のしようがなかった。宮のお気持ちをそれとなく観察してみても、自分の運命の陥擠であるものはこの恋である、源氏を忘れないことは自分を滅ぼす道であるということを過去よりもまた強く思っておいでになる御様子であったから手が出ないのである。はかない恋であると消極的に悲しむ人は藤壼の宮であって、積極的に思いつめている人は源氏の君であった。
と訳している。しかし「命婦もたばかりきこえむ方なく」は

①-231-02 いかがたばかりけむ、

と同じとは言えない。今回は兄の兵部卿の宮が先に御簾の中に入っていらっしゃる。そんな状態でただ話をするだけでさえも何とかたばかって兵部卿の宮と代わらせるのは無理との解釈でよい。まして「自分を滅ぼす道である」など原文のどこを探そうとも見つからない。
つまり、紅葉賀の藤壺に関する記述は、不倫・妊娠とは関係なく光源氏の強い恋心や積極的な行動に藤壺がついていけないのである。不倫・妊娠ではないから藤壺の里帰りの三条の宮にたびたび訪れても不信がられることも咎められることもないのである。


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