パトグラフィー紫式部 〜解読「源氏物語」〜

−鎮魂 紫式部−

野毛 甲斐  駒田 英代

3 源氏物語執筆順序(後期挿入説)の意味するもの −精神的営為の異常性−

 本研究は、紫式部のパトグラフィーを目的とするが、その糸口でもあり、基礎をな すものは、源氏物語の同一作家(紫式部)による後期挿入という行為である。この学 説を提唱したのは無論文学者であり、医学領域ではなじみが薄いので、概観する必要 があろう。そして、作家紫式部に密着した源氏物語に内在する矛盾と、それ等を合理 的に説明するために形成された後期挿入説を基に、作者の精神的営為に内在する異常 性を考察する。

1.後期挿入説の概観

 源氏物語のすべての研究課題と同様、源氏物語の執筆の順序なり成立過程なりの問 題も又、長い歴史が存在するにもかかわらず、未だに未解決である。源氏物語五十四 帖の成立順序について注目され始めたのは、すでに鎌倉時代以前であり、吉野時代の 河海抄には、須磨の巻起筆説・石山参篭伝説などがある。これらは、紫式部が執筆し ていた時期の文献的、歴史的資料が不足する故に述べられたにすぎず、研究的価値は 少ない。源氏物語が持つ内在的な矛盾や不整合に着目され関係づけられて初めて、成 立過程論の近代的な研究が緒につくのである。
 その点で、和辻哲郎氏(14)の業績は一時代を画するものであり、現在でも、執筆順 序や成立過程を論ずる際に、止揚しなければならない重要な論及である。和辻氏は、 帚木〜夕顔の三帖を詳細に検討し、桐壷ー帚木間の流れの不自然さを指摘した。初巻 桐壷の巻では、「光源氏は、いかなる意味でも好色」であることは知らされていない にもかかわらず、帚木冒頭では、「突如として有名な好色人」とされている。本居宣 長によれば「この語は源氏物語の序のごときである。源氏壮年の情事を総括して評し た語である。」とされるが、「しかし彼は、この洞察を果実多きものとするだけの追 求の欲を欠いていた。」この発端(帚木冒頭部分)は、「読者がすでに『好色人とし ての光源氏』を他の物語、あるいは伝説によって知っているか、あるいは作者がその 主人公を『好色人として有名でありながら実はまじめであった人』にしたいと考えた か、いずれかでなくてはならぬ」とした。
 更に、若紫以降との内容の比較から、「夕顔の巻の初めの『六条あたりの御忍び歩 きのころ』は、六条御息所との関係を初めて暗示したもの」であって、「作者の書き ぶりは読者の知識を予想している。」また、「藤壷との情事についても同様のことが 言え」、「若紫の巻に至って」、「藤壷と源氏との恋が直写される。しかもそれは、 二人の関係の最初ではない。」「この道ならぬ恋もまた読者はすでにあらかじめ知っ ているのである。でなければ若紫の巻以前に現われるさまざまな暗示は力を持つはず がない。」「六条御息所や藤壷や葵の上などを中心とする源氏の物語をすでに存した ものと認めうるなら、帚木の書き出しは極めて自然である。」
 この「観察は源氏物語全編に及ぼすことができるであろう。それによって、本文自 身の中から源氏物語成立の事情を見い出し得るであろう。」そして、「源氏物語を研 究するにあたっての一つの方針であって、研究された結果ではない。」が、源氏物語 に存在する「巧拙の種々の層を発見し、ここに『一人の作者』だけでなくして、一人 の偉れた作者に導かれた『一つの流派』を見いだし得るかも知れない。もしそのこと が成功すれば、源氏物語の構図の弱さが何に基づくかも明らかとなり、紫式部を作者 とする『原源氏物語』を捕らえることもできるであろう。」たとえこの説が否定され、 「紫式部一人の作であると結論され」ても、源氏物語が「一時の作ではなく、徐々に 増大されたものだ、ということだけは、証明されそうに思う。」と述べている。
 原源氏物語の存在を仮定する和辻氏の説をつきつめると、現行の源氏物語が、それ のみでは解釈し得ない不完全な作品であることを意味する。失われてしまった原源氏 物語で底上げしなければ、完成作品とは見られない。彼の述べる如く、「現存の源氏 物語をそのままに一つの芸術品として見るべきであるならば、それは傑作ではない。」 ということになる。その意味を持つ和辻氏の原源氏物語存在説であるから、「源氏物 語底上げ論」と考えるべきなのである。更に、「一つの流派」が見通せる可能性もあ るとういうことについても、流派とは、個々人の間で独創性を有するよりも、全体と して、主題、構想、文体、等々が統一性を保ちつつ、一人ではなしえない長編作品を 作成し、完成度の高い場合に言えるのであって、桐壷ー帚木間の断絶すらあってはな らない筈である。しかし、現実には断絶が存在するから、「一つの流派」と呼ぶより も、複数作家説と呼んだ方が良いであろう。しかも、複数作家説は、複数作家が制作 に関係したということであって、その結果、作品が完成されたというのではない。不 完全なものとなっている、ということであるから、複数作家説を前面に出すよりも、 内容を考えて「源氏物語つぎはぎ論」とする方が、和辻氏の真意を言い表わしている のではなかろうか。
 和辻氏は、執筆順序の問題のみならず、構造的把握とあいまって、源氏物語の思考 に分け入った点で、さらに、源氏物語の根底をも揺るがした点でも着目される。そし て、後続の研究者に、「本文自身の中から、源氏物語成立の事情を見出し得るであろ う。」と力強い指針をあたえた。それは、源氏物語にかかわる者すべてが、まず、源 氏物語自体を疑ってみよ、と語るに等しく、真理に到達する為には全ての事柄を疑い つくす、哲学者としての役割を充分にはたしたのである。しかしなぜか、その後のお およその研究者は、和辻氏が提出したこの重要な問題について、積極的に取り組もう とはしなかった。
 昭和十年代に至って、青柳秋生氏(15)が、哲学者の提出した問題に真摯に取り組み、 文学者としての研究成果を提示した。彼は、桐壷から初音までの二十三帖の登場人物 についての表を作成し、帚木グループ(帚木、空蝉、夕顔の諸帖)に新たに登場する 人物が、まったく、若紫グループ(若紫、紅葉賀、花宴、等の諸帖)には欠けること を示した。更に、帚木グループ系列の事件と若紫グループの事件と、二つの対立して いて同じ様に光源氏にまつわる事件が、相互にはまるで見ず知らずの様に没交渉であ ることを示した。これは、「単に物語の手法として見すごすことは出来そうにない。 紫式部その人の手法ではないのだ。むしろこれは手法そのものの破綻なのである。」 と述べた。
 「若紫グループが、紫式部の作であることは、紫式部日記に拠ってみると変更し難 く、又、帚木グループの持味というものは同じく紫式部日記を通じて流れているもの であって、これ亦否定し難い共通した産物である。」として、作者二人を想定するこ とは無理としている。主に帚木の巻冒頭の一節を中心として、夕顔までの諸帖の叙述 の仕方は、読者が既に後帖でのべられる様な事件を承知していることを前提として書 かれているとし、本文中に存在する矛盾を検討した結果、帚木グループの執筆を若紫 グループの後に考える以外に方途はない。」とした。執筆の順序は、若紫、紅葉賀、 花宴、葵、榊、花散里、須磨、の前半と書き、その辺で前に戻り、帚木、空蝉、夕顔、 末摘花、次に須磨の後半を続けて乙女前後まで行った時、再び戻って桐壷を書いた、 と結論した。
 こうした持味の違いが、若紫グループと帚木グループで歴然として見られることは、 作者自身の変貌であり、単に物語の表面に於ける相違ではない。紫式部という人の辿 った生涯が、この相違、変遷を経ている為であるとする。それが、和辻説の如き、原 源氏物語が存在したことによって起こった現象であるならば、即ち、桐壷、帚木と、 現行の巻の順序が取りも直さず、執筆の順序であるならば、帚木グループと若紫グル ープとを比較してみる時、技巧乃至手法や、作者の思想的宗教的態度等に於て、後に なる程退歩してゆくということがあってはならない筈である。にもかかわらず、技巧 乃至手法もさることながら、テーマや、舞台なり背景や、仏教というものに対する態 度、雨夜の品定め論の進め方、等々、若紫諸帖の方が帚木以下の諸帖よりも殆ど凡ゆ る点に於て稚拙であり、和辻氏の原源氏物語存在説は成立し得ないと反論した。
 青柳氏の検討は、源氏物語の第一部内に留まっているが、その視点は、源氏物語に 内在的に有する矛盾や手がかとなるだけでなく、執筆の順序を介して、作者である紫 式部の精神史なり精神構造なりを明らかにする上でも、重要な手がかりとなることを 示唆している。そのことを暗示するが如く「初音以後に於ても、若菜の巻などは問題 を孕んでいそうだし、殊に、匂宮以下宇治十帖の錯綜した叙述の形式も問題になるだ ろう」とし、しかも、「それらをどう考えてみるかは、まるで見当もついていない。」 と、この研究が、まだまだ茨の道を歩まねばならぬ運命であることを予測している。
 その様な状況で、戦後、武田宗俊氏(16)は、論及する範囲を源氏物語第一部(桐壷〜 藤裏葉)全体に広げ、精緻な検討と結果を発表した。武田氏によると、長・短編的な 筋の、一見雑多に入り交じって奇妙なかたちで不自然に進行している第一部が、実は、 はっきりと「紫上系」と「玉鬘系」といわれるべき二系の物語群に腑分けせられ、前 者(原源氏物語)<脚注1>の完成の後、この自作にあきたらぬ作者は、「玉鬘系」 の各巻を制作して、大体現在の如き巻々の順序に補ったものである、といわれる。 「紫上系」とは、桐壷、若紫、紅葉賀、花宴、榊、花散里、須磨、明石、澪標、絵合、 松風、薄雲、朝顔、少女、梅枝、藤裏葉の十七帖であり、他は「玉鬘系」に属する。 その妥当性を、秋山虔氏(17)は、「こうした結論によって、これまで多くの学者によ って疑問が提出されながらもすっきりと説明できなかった諸点の問題が一応氷解され たかの観があっ」たと述べており、他に、より普遍性を有する仮説のない限り、真実 とさえ考え得るのである。<脚注2>
 登場人物による考察の進め方は、前述の青柳氏の方法論とまったく同一であるが、 結論は細部に於ては一致していない。それは、青柳氏が、桐壷〜初音までの二十三帖 であるのに対して、武田氏が、桐壷〜藤裏葉までの三十三帖と、検討範囲を広げた為 に生じた違いであるとばかりは言えない。残念なのは、武田氏は、前任者である青柳 氏の執筆順序及びその根拠にたいして、自説の違いとその妥当性について論及してい ない点である。すなわち、源氏物語起筆の巻が若紫とされ、乙女前後まで書き進めた 後に、桐壷の巻を総序として書いたとする説に対して、ただ単に原源氏物語の最初に 桐壷の巻を挙げるだけである。須磨の前半から帚木、末摘花から須磨の後半へと執筆 されたとする青柳説は、「紫上系」から「玉鬘系」そして再び「紫上系」への移行と なり自説に合致しないにもかかわらず、青柳説立論との違いについても詳論していな い。それ故、武田氏の後期挿入説は、青柳氏の説を止揚しているとは考え得ないので、 これ以上概観することは、その後の後期挿入説の混迷に足を踏み入れることになるの でこの辺で留め、パトグラフィー紫式部の本論で検討することとする。ここでは、両 者は、「帚木グループ」と「玉鬘系」との違いはあっても後期挿入説であるというこ とでは、基本的には同一であると結論しておくに留める。

2.後期挿入説と紫式部

 この後期挿入説は、内部の矛盾や不整合を有する源氏物語については、その存在価 値を救う意味をもつが、その様な書き込み挿入をしたということで、作者としての紫 式部については新たな問題が生じるのである。手法そのものの破綻であると言われる ほどの内部矛盾や不整合が源氏物語に厳然として存在するのであるから、その作者で ある紫式部に、いかなる形にせよ責任が及ぶ筈である。後期挿入を行った紫式部とは 一体いかなる作家であったのか?と考察する必要があるのである。結論的に述べれば 後期挿入ということに、精神医学的な問題が存在するのである。すなわち、後期挿入 を源氏物語の成立過程のみのかかわりでとらえるのではなく、紫式部の創作態度と関 係づけてはじめてその異常性があきらかとなり、紫式部の病跡学が開けるのである。
 それには先ず、後期挿入とは、作品形成にいったいどの様な意味を持っているのか、 検討しておくことが重要である。後期挿入は、小説なり物語なり文章なりを作成する 場合の常套な手段ではないのである。文章的に見た場合の推敲でも、改稿でも、別稿 でもあり得ないのである。(19) 武田氏の説で考察してみる。推敲とは、草案的作品 に手を加えて、より完璧なものに仕立てあげる作業であるから、紫式部が行った、後 期挿入による、より完成度の高い源氏物語作成と似ている。しかし、推敲が草案の主 題そのものに手を触れることなく、部分的に修正するのであるから、主題の異なった 玉鬘系物語を追加挿入し、紫上系物語という草案的作品に手も加えていない後期挿入 とは、基本的に異なった作業である。改稿とは、初案と主題を同一にし、内容的に素 材的に加除増減を加える作業と考えられるから、素材の加増については同一にみえる が、初案と主題を異にする玉鬘系物語を加えた後期挿入とは異なった作業といえる。 別稿とは、素材や題材を共通にしながら、その主題を異にしているものを言う。とす ると、作品的には元稿と別稿の二種類が作成される訳であるが、後期挿入は、素材や 題材は共通しながら拡大し、その主題を異にした作品としている点で、別稿と同一に みえるが、やはり、素材や題材の共有は紫上系物語だけで、元稿もないという基本的 な点で、同一作業とはされないのである。
 武田説の紫上系源氏物語を元稿として見た場合、玉鬘系物語を後期挿入する際には、 元稿たる紫上系物語に充分な加除増減なり修正を行わなければならない筈である。即 ち、和辻氏が述べる如き、桐壷ー帚木間の移行の不自然さ、夕顔ー若紫間の種々の問 題、等々が取り除かれなければならない。すなわち、現行の源氏物語が、玉鬘系物語 挿入時、紫上系物語に充分に加筆・修正すれば別稿となるはずである。そして、その 元稿は、修正されていない現行の紫上系源氏物語である。しかし、実際には、その理 由がどうであれ、玉鬘系物語挿入時、紫上系物語は修正されないでそのまま残ってい るのである。もし、紫上系物語が充分に修正されて玉鬘系物語と有機的に結合され、 上記の如き別稿が成立していたなら、より完成度の高い別稿が残り、未修正の元稿は 散逸してしまう可能性が高い。即ち、元稿は全く失われてしまうか、充分改編されて、 その原型すらとどめていないかいずれかであって、いずれにしても元稿は目に触れな い筈である。しかし、なんのことはない、現在の源氏物語に厳然と存在している。以 上の如く後期挿入とは、文章作成における常套手段ある推敲でも、改稿でも、別稿で もない、特殊な方法なのである。後期挿入は、文章作成の基本とは考えられない独特 の作業と見なければならない。
 これをもし紫上系物語をA、玉鬘系物語をBという複数の作家により書かれたとす れば、確かに問題は解決するかに見えるが、この説が成り立たないのは、前述の青柳 氏の紫式部日記と関連させた論拠で充分であると考えられるが、源氏物語の後期挿入 説に、パトグラフィーの糸口と基礎を求めるが故に、蛇足ではあるが、追加させても らう。
 現在の源氏物語は紫式部の作品とされているのであるから、複数作家説をとる時に は、単数作家では絶対に説明しえない、という確たる証拠を提出せねばならない。作 家の精神は、決して抽象的な固定的なものではなく、たえず動き、渦巻き、躍動する 生命であり、作家の精神の発展は、作品形成の展開に即応するものであるから、若紫 グループから帚木グループへ、「紫上系」から「玉鬘系」への移行を行わせた作家の 精神発展を示しさえすれば良いのである。青柳氏は、この様な作品構成を導いた紫式 部の精神上の変化を、夫宣孝との死別によってひき起こされたものと考えた。又、武 田氏は次の様な推定を行なっている。すでに完成した紫上系の主人公にも魅力を感じ ており、後日談、続編を書こうと考えていたが、紫上系脱稿後、玉鬘系書き始めまで の数年間に、作者の文芸観、人生観に多大な成長発展を持ったので、短編的な巻々を 挿入して第一部を完成した。この数年間とは、紫式部日記の、「あなかしこ、このわ たりに若紫やさぶらふ」の記事の書かれた、寛弘五年十一月をはさむものとしている。 夫の死とか、宮仕えが関係したかも知れないが、作者が作品形成という創造を介して、 作者自身に起こった変化と考えている。以上の如くで、単数作家では絶対説明し得な いという点もないし、作家の精神の発展・成長で説明され得るので、「紫上系」をA という作者が書き、「玉鬘系」をBという異なる作者が書き加えたとする説は成りた たない。複数作家説は、紫式部が一千年前の作家であり、彼女について知り得る事実 が極めて乏しい故の間隙を突くが如きであり、問題とならない。
 後期挿入の問題点は、玉鬘系物語挿入時、当然修正されて然るべき紫上系物語を放 置して、執筆者が、現行の巻々の順序のごとく、執筆順序を無視して配列したことに ある。青柳氏の、「斯うした大部の作品であってみれば、相当長年月に亘って執筆さ れたとみねばならないし、従ってその間に構想や主題の変化が、作者の人生観、その 他の変遷に伴って現れて来るのは、小説なり物語なりの手法とか技巧とかの反省の十 分でない時代であってみれば、むしろ当然である。」という説に百歩譲るとしても、 その場合には、源氏物語の執筆の順序が現行の巻々の進行と一致していることが前提 である。この前提が否定されるかぎり、青柳氏の論拠では源氏物語がもつ、近代小説 とは全く異質な構造を正当化することにはならない。最初の方の巻々では生真面目な 源氏が、後の方の巻々では好色性を有するのも、作者の人生観やその他の変遷に伴っ たものと理解しよう。しかし執筆の順序通りに、一旦世に出し、その後、現行の巻順 通りに変更させて読ませようとする作意が働いているとすれば、青柳氏の如き説では 不十分である。作家側からの一方的な心情推測説明では片手落ちであり、その様な作 意のままに読まされる読者の立場からの考察も必要なのである。この点について武田 氏は、物語の天才たる作家が何故、この不自然さを犯してしまい、玉鬘系物語を挿入 したか確実な論拠はない、とする。紫式部の行った後期挿入が不自然であると言い切 ったのは正しい。しかし、作者の精神的動揺なり成長なりがあっても良いが、そのこ とで作品が不自然になるのなら、その不自然な作品を亨受させられる読者の側からの 考察もやはり必要である。後期挿入のもつ問題点が、単に「不自然さ」という言葉だ けで言い尽くされる性質のものであろうか。又、単に作者が何故犯したかという、作 者の側からの推論のみで充分なのであろうか。この点、青柳氏の執筆の順序の考えを より徹底化した、武田氏自身の「玉鬘系」後期挿入説で考察をすすめると、不自然で は処理出来ない問題であることが、より明らかになるのである。
 すなわち、原源氏物語の長さは、すでに当時としたら充分な長さの物語となってお り、紫式部の当初の主題なり構想なりが生かされて完成したのであるから、当時の読 者は、それなりの印象、感想、批評を持った筈である。この意味で、世に出された作 品は、作者の手を離れて読者の手中に移ってしまうと考えられるのである。いくら作 者であると言っても勝手な改作は許されないし、それのみでなく、武田説の如く、世 に出された原源氏物語を四ケ所で切断し、異なる系列である玉鬘系物語を、しかも切 れ切れに挿入した後再び読まされたとしたら、原源氏物語で味わった読者としての追 体験は、納得のいかないチグハグなものとなってしまうだろう。
 もし、この様なことが現在行われたとすれば、いかがであろう?亨受した読者とし て、紫上系源氏物語を紫式部の処女作として残し、たとえ、作者の人生観や精神構造 が変化した為、作者からみて不充分と考えられても、大作家紫式部の一里塚とすべき だと主張するであろう。作品を創り上げてしまえば、作家にとっては至らなかった作 品と見られるのは当然であり、それが再び作家を成長させ、新たな境地を開かせ、次 ぎの作品を作らせる原動力となるはずである。そして次々と生み出される作品群は、 完成度の高い創造性豊かなものとなり、この一連の作品群を読むことで、読者は個々 の作品での追体験のみならず、作者の精神発展の追体験をも亨受出来るのである。故 に、世に出た個々の作品は、作者が不完全であると考えたとしても、存在する価値が あるのである。それを無視して、作者が、武田説の如き挿入加筆をして、「紫上系」 と「玉鬘系」のゴチャゴチャした源氏物語に改編してしまったら、前作品の主題や構 想の甘さを指摘されるのみならず、作者の無神経さや傲慢さ等々、ありとあらゆる批 判を浴びせられ作家としての生命をたたれてしまうであろう。
 更に、主語と述語の面から考えれば、後期挿入の上記の如き異常性はより明らかと なる。主人公の光源氏だけをとっても、紫上系源氏物語を執筆した時は、式部自身も それ以前の巻に挿入せられるであろう玉鬘系物語での源氏の体験は、考えにも入れて なかった筈である。であるから、紫上系物語では、主語(紫上系)源氏、のそれまで の体験、心情にあった述語が使われるのであって、作品としての完成度が高ければ高 いほど、紫上系源氏に合った述語が使われている筈である。主語としての源氏は、「 玉鬘系」を前編に挿入されれば、(紫上系+玉鬘系)源氏と変化してしまうが、すで に書かれた紫上系源氏に合った述語は変化し得ないので、文章内容上チグハグなもの となる。後期挿入後は、〔(紫上系)源氏+(紫上系源氏に合った)述語〕はそのま ま〔紫上系+玉鬘系)源氏+(紫上系源氏に合った)述語〕となるから、述語が不明 瞭性を有している時のみ、何とか辻褄の合った解釈が出来るというだけである。「玉 鬘系」の体験を含まない、〔(紫上系)源氏+(紫上系源氏に合った)述語〕からな る文章を、〔(紫上系+玉鬘系)源氏+(<紫上系+玉鬘系>源氏に合った)述語〕 の文章の如く解釈させること自体無理なのである。その無理を押し通し、「玉鬘系」 加筆挿入後してから後は、「玉鬘系」の体験をも付け加えて読む様に読者に強制する 紫式部とは、一体如何なる作家だったのか。そして、いかなる事情で、この様な常軌 を逸した制作過程をとったのか?ここに、パトグラフィー:紫式部の地平が開かれる のである。
 益田勝実氏(20)が述べる如く、「多くの作家の場合と同じ様に、その出発点に於て、 紫式部も又、伝統の鎖につながれてゐた」し、「文芸は、文芸自身の領域を保有し、 文芸としての独自の歴史的制約を作家に与へる」ことも考えられる。「源氏物語の作 者も、同じく彼女に与へられた文芸的伝統的条件を受けて起つが、それは単に技法の 継承をして彼女を制約してゐる位ではなく、彼女の発想、主題の設定、更に全構想を 限定し、その表現技法の細部まで及んでいる。」「否応なしに伝統の支配の中から巣 立って来ねばならぬという事、作家に与へられた文芸の伝統的なものが如何なるもの であったかを論外にして、作家の世界観や生き方を問題にする事は意味がない」こと もわかる。近代的な合理主義的裁断に源氏物語を晒そうとする態度に対する批判も、 もっともである。しかし、浅学であるから、源氏物語の「玉鬘系」後期挿入の様な技 法が、当時の文芸の伝統であったのか否かは知らない。伝統であったとしたら、当時 の文芸的伝統の異常性が明確になるのみでなく、その様な伝統的な文芸の上に成立し た源氏物語をも含めて、諸作品群の芸術的価値が問題とされなければならなくなる筈 である。ひいては、上代から尾をひいた(敢えて言う、それは、基礎にして発展した ものとは考えられないから)日本文芸の伝統の全体が問われなければならなくなる。 後期挿入のような技法が、文芸の伝統に成立したものとは、絶対考えられないのであ る。それよりも、文芸の伝統をも越えた技法として、「玉鬘系」後期挿入説を考え、 源氏物語の独特の作法であったと考える方が自然である。
 「玉鬘系」挿入によって影響をうけないのは、紫上系源氏物語で初巻の桐壷の巻の みであるから、この文章構成上、異常(譲歩しても、類を見ない不自然さである)と 考えられる帖数は、桐壷の巻を除いた計十六帖である。しかも、物語の開始間際から 三十三帖までに及び源氏物語五十四帖中半分以上を占める。と考えると、源氏物語の 作品構成自体が異常とさえ言えるのである。通常では、異常とされるにもかかわらず、 それ等の異常性すら見事に糊塗し、後世に燦然と輝く源氏物語を築き上げた紫式部の 精神構造とは、如何なるものであったのか。決して、通常とか正常とかの範囲で論ぜ られる精神構造の持ち主とは考え難い。たとえ一見正常と考えられても、その深層心 理に於て、常軌を逸したものを所有していたと考えられるのである。秀でた才能に異 常性を包含する時、常識をはるかに越えた芸術性豊かな作品が生まれることは、歴史 上いくつかの事実が証明している。
 源氏物語の執筆順序を考えることにより、紫式部の精神構造を垣間見ることが出来 たが執筆順序の研究が主として源氏物語第一部に限られているので限界があり、これ 以上詳論することは出来ない。しかし、執筆順序の研究が拡大し、さらに確固たるも のになる時、紫式部をして作品を創造せしめる刺激となったところのものと同じ感情 的態度、同じ観念群が、我々のうちに目覚め、その生成、発展、変質、消退などを辿 ることにより、紫式部の執筆意図、執筆方法などを含む紫式部の精神史、精神変遷史 をも明確化され、ひいては、源氏物語の構成、主題、文体等々の文学上の様々の疑問 点を解明し得るのである。パトグラフィー:紫式部も又、それに伴って拡大強化され る筈である。


 稿を終わるにあたって、脳神経外科の研究領域外にもかかわらず、多大の便宜を計 って下さった独協医科大学永井政勝教授及び教室員の方々、更に援助を頂いた下都賀 総合病院青木和加眼科医長、妻上田英代、加藤美代子嬢に心から感謝します。


    脚注1)BACK
    武田氏の原源氏物語と和辻氏のそれとは異なる。完成した現行源氏物語の一部(範囲 内)とみるのが武田氏で、別(範囲外)とみるのが和辻氏である。

    脚注2)BACK
    「私ども後輩の源氏物語に対する解釈、理解は、大へん恩恵を蒙ることになった。・ ・・・作者の精神における問題所在を考えるにも氏の説を足場にさせていただきたい。」 とまで言った秋山氏はその後、「作品はそこから出発し、そこに帰着すべき、あくまで 個別的な世界存在としてこれに向かい、しうねくたたかいいどむことによって、それ自 体の存在根拠を堀あてることができる。研究者の精神論、人生論、あるいは主観的な鑑 賞の材であったり対象であったりする時、作品そのものは応々にして不在となる。」 18)と述べ、武田氏の信念のごとき近代的文学観や、彼の述べた紫式部の精神発展な どに疑問を感じ、玉上琢弥氏の言葉にこめられた皮肉という形で、武田氏の近代的な合 理主義的裁断に源氏物語をさらそうとする態度を暗に批判した。


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