2 紫式部像の検討−創造主体の異常性− |
本研究は、紫式部の病跡学的解明を目的とするが故に、以上のことを踏まえ、まず
第一に文学者や歴史学者が形成する紫式部像を検討し、創造主体に異常性が存在する
か否かを考察してみる。
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1.紫式部像形成の困難性 |
池田亀鑑氏(4) は次ぎの如く述べている。「紫式部は一千年も前に生きた古代の作
家であり、彼女について知り得る事実が極めて乏しい故に、紫式部論は、極めて困難
である。しかし、作家論としての紫式部論は、たとえ、歴史学的資料が乏しくても、
文献学的知識をふまえ、形成されねばならず、少なくとも式部自身が直接または間接
的に自己を表示したものである源氏物語、紫式部日記、紫式部歌集を第一に重んずべ
き根本資料として形成されなければならない。更に補足材料として、同時代の式部に
関係ある他の作家の作品群や、歴史的諸事実の記録がある。」紫式部論形成のために
は「式部の精神の中における進歩の思想の陰翳、発展、後退、変形といったものを追
求して行か」ねばならず、「作品論と結びつかない作家論というものはありえない」
し、「作家の精神の発展は作品形成の発展に即応するものである。」又、「伝記的研
究は単なる個々の孤立した知識の嵬集から、作家としての式部の全精神の探求、人間
構造の究明へと向けられて行くべきである。」と。更に、「多くの女房の集団におい
て、何故にただ一人の個人として式部だけが、源氏物語を創りえたであろうか。」「
そこに、作家論としての最も困難な、そして究極的な領域が開けるのである。」と。
とすれば、源氏物語という作品と結びつかない紫式部論はありえない筈であるにも
かかわらず、「源氏物語についてみるに、この物語に関する基礎的課題は、実は何程
にもあきらかにされてゐない。まだ信頼に値する本文は一向示されてゐない。まして
執筆の動機、成立の時期、執筆の順序、構想、源泉、表現技法など、作家論の中心部
分に関係する本質的な諸問題に至っては、ほとんど何ら明らかにされてゐない。しか
も、作家論は、そのやうな知識なしには成立し難いものなのである。」
「紫式部論の進展を阻害してゐる困難性が、作家論そのものの負はされてゐる宿命、
すなはち『作家』という存在の構造に関する困難性」とともに、源氏物語に根ざす作
家論の困難性にも根ざしていることを述べている。
紫式部日記についても、中野幸一氏(5) は「とにかくこの作品は、あまりにもわか
らないことが多すぎる、というのが読後のいつわらざる実感である。作者の精神構造
の複雑さや・・・作品についての基礎的な諸問題が、未だ詳らかでないことが作品理
解の上には致命的なことで・・・未知におびえた筆は遅々として進まず、新しい視点
が開ける予想もない・・・」と、これまた紫式部日記をもとにした紫式部論形成の困
難性が述べられている。
紫式部集についても、南波浩氏(6) は「彼女自身のなまなましい心情感慨を吐露し
彼女の人間や生活がいきいきと詠まれている」し、「日記は、わずかに寛弘五年秋か
ら同七年の間の宮仕生活を軸としているのに対し、歌集は(未婚時代から結婚時代、
寡居時代、宮仕え時代にわたり)式部のほぼ全生涯の生活にふれている点で伝記資料
という点からみれば、さらに好資料である。」にもかかわらず、「紫式部の伝記や人
物を研究の素材として歌集の歌を利用するにしても、個々の歌の正確な年代的位置づ
けと、正しい解釈を欠く場合、いたずらに、式部の虚像を乱造することになろう」と
いさめる反面、「紫式部集の研究は、まだ基礎固めの段階にあり、先途に多くの課題
が横たわっていて、その研究領域は洋々としている。」と、紫式部集をもとにする紫
式部論の形成の困難性を認めている。
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2.既成紫式部像の一面性と混乱 |
以上の如くであるから、源氏物語、紫式部日記、紫式部集を総合した、あるいは源
氏物語を骨組みとし、他を肉付けした紫式部像は、まだ形成されていないと考えられ
る。その困難ななかにも、文学者による紫式部像の形成がなされているので、既成の
紫式部像を検討してみよう。秋山虔氏(7) の紫式部論の中から、その生活史の面を拾
ってみると以下のごとくになる。
「紫式部は、一条朝の著名な漢文学者藤原為時の娘であり、物心つかぬ頃生母を失
い、一人の姉や、弟の惟規とともに、母なき家庭に生い育った。ということは、家庭
のぬくもりに恵まれなかった反面、漢学者の父の血脈につながる彼女の文才を、ただ
ならぬものに仕立てたと考えられる。父はそのような彼女が男子でなかったことを常
に歎いたという。男子の学問、それは実務官僚として身につけねばならぬ技能である
から、本質的にその立身と密接不可分のものと考えられる。ところが、いわゆる三従
の徳を自明の理として強いられる一般女性にとって、学問は、無用の長物とはなって
も、実益あるものにはなり得ない。が、それは後年源氏物語の創造にとって、涸れる
ことのない滋養となるのである。
紫式部は青春時代にある恋愛経験をもったらしいが、そのことが彼女の精神史にど
う刻印されたかは明らかにし難い。長徳二年、為時の越前赴任に彼女も同行したが、
その離京の理由は、筑前守藤原宣孝の求婚を避ける為であったと推定される。宣孝と
いう人は、枕草子にあるエピソードから知られるように、派手で強引なところがあり、
又自己顕示欲の強い男であったらしい。相当の有識家でもあったが、求婚してきた時
には既に四十代半ばに達し、数人の妻妾とのあいだに、彼女と同年かもしくは年長の
長男隆光(二十六歳)をはじめ、幾人かの子女をもうけていた。この様な状況にあっ
ても、長徳四年春、彼女は、父の任期の満ちるに先立って、単身帰京し、その秋、宣
孝を夫として通わせるようになった。その翌年、娘の賢子が生まれ、長保三年、夫は
結婚三年余にしてこの世を去った。
いま、ひとり生きていかねばならぬ前途を思うとき、彼女は、絶望の淵に立たせら
れる。
かずならぬ 心に身をば まかせねど 身にしたがふは 心なりけり
その頃の彼女の心境が吐露された歌である。「身」と「心」とに引き裂かれた自己を
まじまじと見つめ歎かねばならず、ここに盛られる思念はあまりにも苦渋に満ちてい
る。彼女は、人生半ばにして漠々と一人投げ出された悲哀と不安に、もどかしく煩悶
するほかなかったのである。夫との死別という不幸に直面し、その悲しみを骨身にし
みて実感した時、右のような精神の作業の蓄積が、その実効を発揮する。それを契機
として、人間の歴史を貫く普遍的な問題の索求へ、その思念をかりたてていった。
彼女は光源氏の人生を空想する。そして、実人生で受動的に生かされる立場から、
能動的に生き、よみがえる術法として、源氏物語の虚構世界が造り成されたのである。
藤原道長の長女、彰子が、一条天皇の後宮に入内したのは長保元年の冬であり、旭日
ののぼるがごとき道長家の権力意志に支えられた中宮彰子の後宮へ、式部も女房の一
人として出仕した。」と。
文学者の紫式部像は、総じて、彼女が源氏物語を創造した偉大な作家であるが故に、
生活史から導ける性格形成の検討が、不充分なものとなっているのではないかと思わ
れる。精神医学的に考えれば、幼少時に生母を失い、父子家庭で育ったという事とは、
秋山氏が言う如くプラスの面も存在する。しかし、顕在化はしなかったかも知れない
が、暖かい母親の愛情に包まれずに育った為の性格偏奇などを生じている可能性もあ
る。更に、紫式部の記憶力は弟の惟規以上であり、女性にとって漢籍を中心とする学
問の知識が、彼女等の受領階級においては生活の面で何等寄与しえないであろう環境
の中で育ちながら、それ等を学んだことなど、平安朝時代の平均的女性の生き方にも
相違していた。
父親から、男に生まれたならこの漢籍の知識が、生活の面で有効に働くであろうこ
とを再三再四いい続けられたとしたら、紫式部の深層心理に、如何なる形かでも、男
性に生まれてこなかった自らの境遇を歎くがごとき傷痕が生じていても不思議はない
であろう。紫式部日記にこの間のことを記載せざるを得なかった、紫式部の心情を理
解してやるべきではなかろうか。単に惟規と比較して頭が良いという事を自らの日記
中に書いたのではない。父親の口癖であった「口惜しう。男子にて持たらぬこそ幸な
かりけれ」に、着目すべきなのである。萩谷朴氏(8) の「少女時代からたびたび耳に
した上記の父の愚痴嘆息は強い軛となって彼女の生涯を束縛したのである。そうした
自負心と責任感とが、うわべは温淑であっても、芯の強い計算高い女に仕立ててしま
った」とする説も考慮に入れる必要がある。
紫式部は、青春時代にある恋愛経験をもったらしいことが、紫式部集によって推定
されもするが、そのことが彼女の精神史にどう刻印されたかは明らかにしがたいとは、
一体如何なることなのであろうか。恋愛経験が推定されるということと、それが彼女
に如何なる変化を与えたか、全く別問題なのであろうか。恋愛経験とは、精神に刻印
されてはじめて恋愛なのではないだろうか。そのことが、推定されない、ということ
自体が、精神発展の歪みを表わしてはいないだろうか。このことは、将来の夫たる宣
孝の求婚を避ける為、父為時と共に越前に下りながら、突如として、父の任期を満た
さずして単身帰京し、避けていた宣孝を夫として通わせるという、説明のつかない行
動に走らせたものと同一の意味をなさないであろうか。
「同性に対しても紫式部が好んで交際したのは、宰相の君、小少将の君など、穏和
な人柄ではあるが個性の乏しい人物とか、消極退嬰むしろ他人の保護本能を呼び起こ
すような弱々しい状況の女性が多く、才能が豊かで個性の強い、積極能動的な同性と
は互いに反発するところがあったのであろう。親交はおろか、敵意をさえ抱いている
のである。」(8) とされることも、父親の「男子にて持たらぬこそ」と彼女の才能の
秀でていること故に形成された、自己と男性(秀でたる者)の同一視から説明される
のではないか。弱々しい女性には男性としての保護心や同性愛的傾向が発露し、積極
的な女性には競争心が起き、才能の豊かなある面では紫式部より秀でる同性の存在は、
自己と男性との同一視が脅かされるが故に許容されず、そのような同性には敵愾心す
ら生じるのではないだろうか。
そして、結婚三年後には、娘の賢子を抱え夫と死別せねばならなかった。池田氏の
言葉を借りれば、「当時の女性はこういう場合、たいていは出家した」にもかかわら
ず、それに反して、世間的にも経済的にも苦しい寡婦生活を続けたのは、やはり、時
代精神に逆らいつつも、生を全うしようとした彼女の情念が感じられるのではないだ
ろうか。「もし彼女が、日記中にしばしば釈明したように、遁世の志が真実堅固なも
のであったならば、現実の出家まではせずとも、心にもない宮仕えを拒み通すだけの
芯の強さは持ち合わせていたはずである・・・。むしろ、口と心とは裏腹に、自ら秘
かに出仕の機会を待ち望んでいたものである。」(8) と考えるのは行きすぎなのであ
ろうか。単に現世における愛憎は、その対象を失う時、浄化され、宣孝への追想に一
人生きていかなければならない等というロマンチシズムのみで済まされるであろうか。
彼女は、秋山氏の言を借りれば、確かに人生半ばにして漠々と一人投げ出され、悲
哀と不安にもどかしく煩悶する他なかった、かも知れない。だが身と心とに引き裂か
れた自己をまじまじと見つめ、歎いた彼女が、光源氏の人生を空想など出来ようか。
あまりにも現実離れして空虚ではないだろうか。「文名をとどろかし、家門の運命を
担った彼女自身を、官僚社会に送り出すためのカタパルトとして、充分に計算されて
いたもの」と想像すら可能なのである。(8)
しかし、精神的に負の部分に着目して紫式部の性格形成を論じても、秋山氏への僅
かな反論にもならない。が、紫式部に憧憬するのではなく、「印象や恣意によって彫
み上げられた虚像をば、一旦その祭壇から下ろし、もう一度あらためて身直」(4) す
という面で重要なのである。
紫式部日記からは、いかなる性格が導かれるであろうか。清水好子氏(9) の論文か
ら引用すると「おめおめと五節の付添に出て来た古女房を辱めるのに一役買」い、「
その様子を少しの恥もいたみもなく記載している。」「弱い者をいじめて楽しむ残忍
さは彼女も共有している。式部の残忍さは人より一層強く、生得のものだったのかも
知れない。〈清少納言こそ、したり顔にいみじう侍りける人〉と憎々しげに始まる人
物論は、やがて・・・ほとんど呪詛のほむろが吹きつけるばかりの気配」を示し「し
かも、もう一度〈そのあだになりぬる人のはて、いかでかはよく侍らむ〉と繰り返し
て、結びの言葉としている。・・・『言忌み』を厳重に守った時代である。行くすえ
の不幸を二度までも予言したのは、言挙げして箴となさしめようという魂胆なのか。
・・・私どもに伝わりくる紫式部の憎悪は大きく暗く熱く、そして彼女は卑小である
。」「紫式部はまことに執念深く、残忍である。」
「さらに彼女が消息文において、るるとして彰子方の気風につき弁護、助言を繰り
ひろげることになったきっかけは、競争相手と目される斎院方の女房の私信である。」
その手紙の主、斎院の中将なる女房は式部の兄惟規の恋人だった」のだから「兄の恋
人の私信を爼上にのせて、論断していることになる。」それも「相当激しい口調であ
る。」「彼女はまた人の足もとを見たり、弱味につけこんだりした。」「もう大丈夫、
勝ったと思えば、どんなひどいことでもする、人の傷を見てみぬふりができる人であ
る。」と公任卿との〈若紫や候ふ〉のやりとりの例を上げている。又、「御産日記が、
出産、行幸準備、行幸、五十日祝、還啓、五節など、重大で華やかな行事の記録のあ
とには、式部の個人的感想を付け加えるのが、こともあろうにきまって宮仕へはもの
うい、情無い、はかないと人生が面白くなさそうな文章が長々と続くのは、いったい
どうしたことであろう。」「舞台をおりたものの自由と、ひそかな無念さ、それから
くる容赦のなさが、あるときは男たちをつき放して、後姿からみるみる現世の価値を
奪い、女だてらに女を男の眼でむさぼり見るようなことをさせた。」と。
この様に述べられた、紫式部日記から導かれた彼女の性格は、生活史から精神医学
的に推測される性格の歪みと通じるものがある。だがしかし、清水氏は源氏物語が考
察の中に入ってくると、「源氏物語の構成と文体において、いっそう、彼女が荷って
いたものの重さをなまなましく感じることができるように思う。それは、あの長編の
骨子を、みたされぬ恋の物語に仕立てたことである。光源氏にしろ薫にしろ、心の底
に理想の恋人をもっていて、しかもけっして結ばれない。主人公はどこまでも断念せ
ず追い求めてゆく。そこにいろいろの波瀾がおこり、読者の興味をつないでゆくのだ
が、つまりは追いかける男性を描き、追いかけられる女性を描いたのである。平安時
代といわず、昔の恋物語はすべてその型であるとはいえ、式部はそれを何度も繰り返
し、ほとんどそれのみを用いて、長大な物語を作りあげた。したがって全編にみなぎ
るものは女性を追い求める男性の苦悩である。作者は心理描写に絶大な努力を傾けて
いたので、人をじらし、そそのかすクレッセンドの文章で、心のすみずみまでのぞき
こむようにして、これでもかこれでもかという風に書き込んでいった。そして男性を
ひっぱってゆくために、いつまでも男性を満足させず苦しませておくために、女性を
高い身分とか、死といった手の届かぬ場所においた。したがって書かれてある事柄は
男性の苦悩であり、めぐりあわぬ運命なのだが、行間にたちこめる熱気、紙背を流れ
るものは追いかけられる女性の快感や興奮である。源氏物語の文章のいい尽くさずは
やまぬ偏執的なとめどなさと、物語の構想の底を流れるこうした情熱とあいまって、
物語全体が発する気分は重苦しく、しつこいものがある。」としながらも、「紫式部
日記の文章はまた違っていた。はじめの方には源氏物語に似た精彩と派手な才能のひ
らめきが見えたが、事実の記述が進んでくると、やがて全体を支配しているのはある
しめやかな気分であった。」と変化し、「私は紫式部日記の消息文ではない方、事実
の記録文の方を読んでいると、しだいに静かな安息を覚える。」と、消息文こそ式部
の性格を示すと考えられるのにこれをも無視し、「源氏物語の文章の発想の次元の多
様さにも見られる様に、これも彼女の受けとめ方の柔軟さ、自由さと関係があるので
はないかとかすかに見通しを立てている。それで、私は紫式部は本質的にやさしい人
だったのではないかと思うのである。」と、それまでに述べた紫式部の性格を一変さ
せ、やさしい人にしてしまう。このあまりに非論理的な展開(残忍な→やさしい)に
清水氏自身も気付いたのか、「彼女の多様さのために統一的な紫式部像が結べないし、
私自身の成長を待って、なしとげるべきだと思っている。」と述べ、統一的な紫式部
像を放棄してしまったのである。
紫式部集からは、「如何に式部が『友』というものを浪漫化してゐたか、同性愛に
近いほど憧憬してゐたかが、此の集の始終をみるとわかる」、「女性の苦悩、反省、
自覚の最も深い点に触れる」(10)という論及。「式部集128首中の97首、すなわ
ち76%の歌は、孤愁、悲哀の情感を帯びたものである」という点、「赤染衛門集、
和泉式部集等同僚女房の歌集には、対抗陣営に属する清少納言との友情に満ちた和歌
の贈答さえ見出すにもかかわらず却って、紫式部との間にはそのような形跡が認めら
れない」(8) などという諸説を述べるにとどめよう。
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3.紫式部像形成の視点 |
秋山氏の説(7) も、吉川理吉氏(11)の言葉を借りれば「紫式部のひとがらを『才徳
兼備』と称揚した安藤年山」と同系列で、「それには源氏物語の魅力が作用したもの
の様で、物語賛嘆の眼に、日記を捜しても、どこにも作者の難なぞ映らなかったもの
の様で、ある。」「もし、この物語がつたえられずに、日記ばかりが遺ってゐたら、
式部評はどうなってゐたろうか」と思う。萩谷氏(8) の説のごとく、日記により驕慢、
嫉妬、自負心、虚栄心を指摘することに対しても、「また日記にみえるひとがらのあ
らにしても、それのみを取り上げ無造作にかたづけ」過ぎている。この性格の両側面
をいくら折衷しても、清水氏(9) の紫式部論のごとくモザイク状の性格となるだけで、
統一的な紫式部像は結べない。
源氏物語から紫式部の性格を導きだす困難性は、池田氏(4) が述べる如くであるが、
独断の域からいでぬとことわりながらも、桜井文子氏(12)の「五十余帖の長編におい
て、実に根気よく、男、女、の愛欲心理を刻明に書いて飽く事を知らなかった式部そ
の人のコムプレクスを甚だ興味深く窺うと共に」「物語の一つ一つにこの絢爛たる場
面に対比させて、必ずダークサイドを暗示し、人世の不調和面を強調しようとするが
如き作品傾向が見い出される。」とし、玉鬘の精神分析を行なったのち、「かくもや
すやすと処女性放棄を敢へてした所に、何か彼女の心理並びに生理にー引いては式部
自身の
ー問題があるような気がする。兎まれ、何かこの玉鬘の性愛感情に、二十二才で結婚
してわずか二年で夫と死別の後は一切の恋愛交渉を誰とも持つ事もなく、唯この厖大
にして単純な男・女の愛慾葛藤をくりかえし、くりかえし飽く事もなく筆に托して、
そのリビドーを集中した紫式部の本態がチラチラと見えるやうに感じられるのである
が、果してどうであろうか」(12)という提案も一考する必要がある。
以上の如く、文学者の提出する紫式部像が混乱していることを示したが、その原因
は、紫式部像の形成が源氏物語の全体に及ぶ分析からなされていない為であるが、さ
らに紫式部の異常性に目を覆うが如き研究態度にも存するものと考えられる。石母田
正氏(13)の如く、「異常といってよいほどの創造力を彼女の個性、または天才という
言葉によって解決する見解は、すこしも解決にはならない。・・・紫式部はその作品
のための創造力をどこから得てきたのであろうか・・・おそらくそれはすべての芸術
作品と同じく、彼女の表面的な詮索によってだけでは得られない。もっと深いところ
に求めなければならないとおもう。安藤為章の紫家七論で、式部が源氏物語を創造し
得た七つの条件を『七事共具』としてあげている。式部のめぐまれた環境、才能、教
養、関するものであるが、第七に式部が女性であり、とくに貴族の上流でもなく下流
でもなく中流の階級の女性であったことをあげている。恐らく紫式部はこの時代の女
性の隷属的な地位をふくむ貴族社会の現実にたいしてこの時代の中流貴族の女性とし
て許され得るもっともはげしい抵抗を源氏物語を制作することによって行なったので
はないであろうか。」と考えるべきなのである。
女性として、もっともはげしい抵抗が源氏物語作成なら、それはいかなる方法、手
段で行なわれたのであろうか。このことをぬきにして、紫式部論もパトグラフィーも
そして源氏物語論もあり得ないのである。これが掘り起こされてはじめて統一した紫
式部像が形成されるのである。パトグラフィー:紫式部も、まずこの点から始めねば
ならない。
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