パトグラフィー紫式部 〜解読「源氏物語」〜

−鎮魂 紫式部−

野毛 甲斐  駒田 英代

まえがき

 私が源氏物語の研究を始めたのは、1979年十月のふとしたきっかけからであった。もともと好奇心が旺盛で、医学部の助教授としての仕事も従来の慣行をはみだすことがしばしばで、専門外の分野にも頭を突っ込み、画像診断からコンピューターの世界に没入していった。無論本職の脳外科医としては、昼夜かかわらず寸刻を争う手術に明け暮れ、体を酷使していた。病棟では日々、大黒柱が倒れた故の家族の動揺や不安、あるいは病苦、生活苦、突然の死のなかで人間の真の姿を見、また人間常識としての心理がことごとく瓦解してゆくのを目のあたりに見させられた。このような私の生活の結末は、医者の不養生を絵に描いた様で、遂には体を壊してしまった。細かい手術のためか、視力障害を起こし、病気静養となったのである。
 初めて脳外科の手術をしない静養の身となった時、しみじみと思った。こんな時間が今まであっただろうか。ゆっくりと流れる時間のなんというすばらしさ。今までの生活があまりにも寸刻を争うものであったのか。学生時代からずっと走りに走って来た。人生の目標に向けスピードをどんどん増していったために、目に入らなかったり目をそらしていたことがなかったか?心にくすぶっていたことがなかったか?青春時代にやり残したことがまだまだあるはずだ。今こそ手をつけられる。こんどこそ本腰をいれられる。
 理科系の人間に共通するのは、文学に対する逃げ腰である。今は強制休養の時。それを利用して文学の世界にワープできる。悠久に漂う文学、その中でも千年にわたり存在し続けるフィクション『源氏物語』。光(光源氏)と影(頭中将)、薫(薫大将)と匂(匂宮)、視覚と嗅覚の世界、そして男と女の物語。人生経験の少ない青春時代には無理としても、今まで自分で体験した人間心理の読みをもってすれば、難解な源氏物語を読みこなせるのではないか・・・。寸刻から悠久へ。手遅れになれば死んでしまう患者と違って、源氏物語研究は急がなくてもよい。

 とにかく手始めに与謝野晶子の口語訳から読み始めた。紫式部の研ぎ澄まされた感性、確かな観察力、驚嘆すべき記憶力、すさまじいまでの執念、異常に近い執筆動機などがひしひしと感じられた。が、読み進めて行くうちに、この不変の巨峰とされている源氏物語が実に様々な問題を孕んでいることに気がついたのである。口語訳からでさえ、登場人物の性格の不整合・分裂や、一見もてているかに見える光源氏が実はあまりもてていないことや、不倫を犯した女性には必ずその報いがあること、明石の君を除いて殆どの女性は段々悪い運命へと引きずられて行くことなど、源氏物語の中に潜む問題には並々ならぬものがあることがわかった。
 では、古今の国文学者は、私の感じたようなこれらの疑問にどのような解答を与えてきているのだろうか。次々に文献を読み進んだ。
また、同時に日本古典文学大系(岩波書店)源氏物語も読み始めた。国文学者の研究は多くの示唆を私に与えてくれた。とりわけ源氏物語の成立・構想にかかわる論議、例えば和辻哲郎氏や青柳秋生氏、武田宗俊氏によって提出された仮説には大いに興味ををひかれた。それらは私の仮説の構築に大きな影響を与えたが、何故その後発展しなかったのだろうか。さらに文学者の世界でもくっきりとした紫式部像はまだ形成されていず、源氏物語に関しても様々の謎がそのまま残されていることもわかって来た。

 ますます私は源氏物語にのめりこんで行った。紫式部という偉大な作家の全貌を少しでも明らかにしたいと願うに至った。そして生まれたのが「パトグラフィー紫式部」の序論である。式部が偉大であればあるほど作られた紫式部像の数も多く、また混迷も深い。それを解きほぐすのは容易ではない。式部について書かれた文献も難解なものが多く、それらを概観してわかりやすく述べることすら非常に困難であった。「パトグラフィー紫式部」の序論の要所要所には、私の軸となる考察を述べてあるが、最初はそれが、他の研究者の意見と判別しにくいかもしれない。また、文学者の研究や精神科医の研究に対する批判も混じっている。自家撞着していることを指摘しすぎているかも知れないが、それは、研究者として情緒的でなく、もっと論理的に理論を構築してゆくべきことを求めているためと理解してほしい。そのような指摘を覚悟のうえであえて序論を本書に収載したのは、これに続く小論を読み進めていけば、自然に一つひとつ具体的に理解されるであろうと考えたからである。
「パトグラフィー紫式部」の序論の執筆と並行して、私は源氏物語という作品そのものを詳細に検討して行った。テキストは日本古典文学大系(岩波書店)と日本古典全書(朝日新聞社)である。後期挿入説の青柳氏や武田氏の説を一つの重要な指標としつつ、徐々に巻々を検討して行ったのである。そして私は恐るべき一つの確信に至ったのである。その確信は、源氏物語の文学的価値にもかかわるものであり、伝統的な源氏物語研究者の方たちからは、すさまじいまでの反論を浴びるか、あるいは排斥されるか、または取るに足りないものとして一笑に付されるであろうようなものであった。

 しかし、この確信は読み進めば進むほど揺るぎないものとなり、私自身、何度も疑いながら考察を重ねて出した結論である。すなわち、後期挿入は、単に前期後期とかいうふうに、二回程度で行われたのではなく、一つの巻の中で、最初に書いた部分に塗り重ねるが如く、数回にわたって行われているのである。そしてそれは、第一部完成まで源氏物語執筆期間中も延々と続けられている。つまり一つの巻の中でも、宮仕え以前に書かれた部分と宮仕え以後に書かれた部分だけでなく何回も後期挿入され、それらが共存しているのである。
 確かにすぐには信じ難いことかも知れない。巻の中の接合の巧妙さは、まさに神業に近いとさえ言えるからである。言葉の持つ意味と曖昧さを最大限に利用し、あまつさえ接頭語接尾語を新たに造り付け加え、言葉の持つ意味を広げてまで接合部を巧妙に隠しているのだから。検証すればするほど、源氏物語の内容ばかりでなく、執筆の方法すらまさに芸術的であり、その結果として現在の日本語の特徴までつくり上げた紫式部に驚嘆せざるを得ない。

 本書では、この重層的な後期挿入が次々となされていることを証明しやすい部分から論じていくこととする。最もわかりやすいのが、源氏物語の本流とは少し独立して語られる源典侍の物語である。ここでの方法論は、いわゆる帚木三帖の検討へと進んで行く。
 私の大それた夢は、この膨大な源氏物語全体の執筆順序を、パズルを解く如く明らかにして行くことである。そして、何故このような方法を紫式部はとらなければならなかったかを考察し、それを通して紫式部の性格・パトグラフィーにまで結実させていくことである。

 大いなる心配は、論証が微細にわたるため、原文を常に参照して論文を読んでいただかないととうてい理解できず、読破できる読者がどれほどいるであろうかということである。国文学関係の人にはぜひ通読していただきたいが、一般の読者は読みやすいところから始め、また論証の過程よりも結論から入ったほうが容易かもしれない。第二部、第三部の「まとめ」にある如く、たとえば初期空蝉物語を読み、次に前期→中期→現行空蝉物語と四回にわたって読んでみていただきたい。源氏物語のすばらしさも、紫式部のパトグラフィーも、読んでいるうちに自然と伝わってくるはずである。

私の研究を列記すると、1980年2月に宇治十帖、8月に若紫および桐壺、9月に空蝉論と源典侍論、同年末に原文に即した全巻研究素案を完成。 ’81年には8月に「パトグラフィー紫式部序論」を学会誌『病跡学』に投稿(未収載)、10月に源典侍論を『国語と国文学』 に投稿(未収載)翌82年5月に「紫式部の幼少時体験と性格形成」日本病跡学会で発表した。これで源氏物語、紫式部日記を含めて紫式部のほぼ全貌を捉えたと考えている。素原稿をより精緻にする過程で共著者の理解が得られ次第、次々と発表してゆくつもりである。その意味で本書のタイトルは、「パトグラフィー紫式部 第一巻」とした。紫式部の死後一千年もの長きにわたり、彼女の生活苦そして心の苦しさが正当に理解されていなかったという意味も込めて本書の副題を「鎮魂紫式部」とすべきであるが、原文を解析・吟味している点を考慮して「解読『源氏物語』」とした。また脳外科医をもじり私のペンネームに野毛甲斐を使った。
 出版までの10年、両著者とも忙しい忙しいと言いつつ続けてきた。その間、編集・出版までの半年はまた常軌を逸した作業過程だった。原稿の組み換え・追加・修正など改稿に暇がなく、制作にあたってくれた朝日出版サービスにいらぬ苦労をかけてしまった。担当していただいた武藤氏に心から感謝申し上げます。表情をコワバラせながらもワープロ・表作成を引き受けてくれた奥野久美子嬢、ありがとう。

 1989年10月21日
                     野毛 甲斐

       


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