賀茂斎院の制について
宮中では古来神への崇敬の念を表す行為のひとつとして、未婚の皇女を神の御杖代として差し遣わされる例があった。この皇女を「斎王」と称し歳時の御奉仕せられた。その例ははじめ伊勢の神宮に、ついで賀茂の大神に奉られたのみである。如何に賀茂の大神への後崇敬の念が厚かったかが偲ばれる。
 賀茂に於いては弘仁元年(810)4月に嵯峨天皇の勅願により、伊勢に倣って第八皇女有知子内親王を奉られたのが賀茂斎院の制の始めである。此を定められた事により伊勢を「斎宮」、賀茂を「斎院」として区別されるようになった。斎院は「さいいん」又は、「いつきのみや」とも云い、嵯峨天皇爾後 、ご即位の度ト定され、天皇陛下が上位・崩御さあれた際、退下するのが習わしとされた。
 斎院がト定されると参議以上の殿上人を勅使として差し遣わされ、賀茂両者に事の由を奉告せられる。次に御所内の一所を下して初斎院と云われる居所を設けられ、三年間日簿を禊斎し毎月朔日にには賀茂の大神を遥拝する生活を送られた。三年を経て4月上旬(旧暦)吉日に野宮(愛宕郡紫野に設けられたので「紫野院」とも云われた)の院に入られ、賀茂川にて御禊を行った後初めて祭事の奉仕が許された。この院には事務等を担当する斎院司や蔵人所は置かれ、長官以下官人、内侍、女嬬等が仕えた。
 往時賀茂祭当日斎院は御所車にて出御され、勅使以下諸役は供奉し先ず下社へ次いで上社へ参向・祭儀が執り行われる。上社にては本殿右座に直座され行われた。その夜は御阿礼所前の神館も宿泊され翌日野宮へ戻られた。祭終了後、宮中で禮子内親王を最後に絶えて、再び置かれることはなかった。よって賀茂に斎院の置かれた期間は弘仁元年(810)から建暦二年(1212)の凡そ400年間で、35代に及んだ。
 時を経て、昭和31年(1956)関係者の後援をを受け、斎王に代わる「斎王代」を中心とする女人列が往時の如く復興された。
 それに伴い、往時賀茂祭の前日に野宮の院より賀茂川の河原に赴かれて行われた「御禊/(ぎょけい)」も復興することとなった。此の儀は現在5月上旬賀茂両社が交代で斎行する例で、当神社の次第は以下の通りである。
〔賀茂別雷神社(上賀茂神社)葵祭パンフレットより〕
 斎王代以下女人列御禊の儀 (午前10時斎行)
先 修祓(奉仕員)
次 斎王代以下女人列一の鳥居より参進(斎王代は乗興・この間奉楽)
次 手水の儀
次 橋殿殿上に著座
次 神職一員 中臣祓詞宣読
次 修祓(斎王代以下女人列)
次 斎王代 形代にて解除(自己祓)
次 一同退下
斎王代 御禊

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